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「紅葉さん…。私、もう我慢出来そうにないです…」
「お前も厠か?」
「ち、違いますよ…」
「…テスカのことだろ。でも、お前にすら会わない今のあいつが、リカルに会ったところで、何が出来るとも思えない。荒療治をしても、たぶん、この場合は逆効果だろうな。余計にリカルから逃げ惑うだけだ。それで傷付くのは、リカルなんじゃないのか?」
「でも…」
フィルィが焦る気持ちは分かる。
そして、その過酷を迫っているのは私だ。
…でも、それではダメだ。
テスカは乗り越えないといけない。
自分自身の力で。
「リカルちゃん。手は、ちゃんと手拭いで拭きましょうね」
「いつも服で拭いてるよ」
「だから、それがダメなんですよ。私のをあげますから、しばらくそれを使ってください」
「うん」
廊下から、そんな会話が聞こえてくる。
厠に行っていた二人が帰ってきたらしい。
…フィルィは、すぐに平静を装って。
「お帰り、二人とも」
「ただいま帰りました」
「えじちょーさん」
「なんだ」
「えじちょーさんは、厠に行ったあと、手は洗うの?」
「そりゃ、洗うけど」
「手はどこで拭くの?」
「手拭いだろ。今教えてもらったんじゃないのか」
「うん。でも、服で拭いてたよ」
「今日からは、手拭いで拭くんだな」
「はぁい」
「ふふふ。なんだか、師匠、リカルちゃんのお姉ちゃんみたいです」
「そうか?」
「えへへ。えじちょーさんもお姉ちゃんだったら、嬉しいなー」
「まあ、お前のお姉ちゃんになってもいいぞ。お前だけの、というわけにはいかないけど」
「それでいいよ。えじちょーさんは、リカルだけのものじゃないもん」
「そうか」
「いろはお姉ちゃんって呼んでもいい?」
「なんとでも呼べばいい」
「じゃあ、いろはお姉ちゃんだよ」
「ああ」
「えへへ」
「私のことは、フィルィお姉ちゃんって呼んでくれないかな?」
「なんで?」
「えっ?えっと…」
「下心が丸見えだな」
「うっ…」
「シタゴコロって何?」
「な、なんでもないよ…」
「……?」
まったく…。
秋華の次はリカルか?
なんでもいいけど、屋根縁の壁の向こうにはテスカがいるということには、フィルィは気付いているんだろうか。
…テスカは、フィルィのこの性癖について、何か言ってたんだろうか。
「………」
「ん?加奈子じゃないか。どうした」
「………」
「あ、加奈子!」
リカルは、加奈子の姿を認めると、すぐに駆け寄っていって連れてくる。
そして、自分が座っていた座布団に、加奈子を座らせて。
「掲示板の調子はどうですか?」
「………」
「そうですか、いいですか」
「……?」
「じょきょーじゅも元気ですよ。今日のお昼はおにぎりでした」
「………」
「そうですか」
一所懸命に、掲示板を使って話をしている。
…しかし、リカルは、助教授のときは敬語になるんだな。
面白いというか、なんというか。
「加奈子ちゃんは、何をしに来たのでしょうか」
「さあな。でもまあ、今は楽しそうに話してるんだし、別にいいんじゃないかな」
「まあ、そうですね」
「でも、耳が聞こえないって、大変なんじゃないですかね?」
「加奈子に直接聞いてみればいいじゃないか」
「え、えぇ…。そんなこと、私には出来ませんよ…」
「大変かどうかなんて、そいつの主観でしかない。むしろ、最初から聞こえていなかったんだったら、それが普通なんだから。耳が聞こえないのが大変だというのは、私たち耳が聞こえる者の憐憫でしかないのかもしれない」
「うーん…。紅葉さんの言うことは、なかなか難しいですね…」
「それも修行のうちですよ、フィルィさん。師匠の難解な言葉を理解するのは、弟子の課題のひとつですっ」
「えっ。私、紅葉さんの弟子なの…?」
「あれ?違いましたか?」
「いや、私は、別にそんなつもりは…。でも、確かに、テスカ師匠よりもずっと師匠らしいかもしれないね」
「テスカさんは、今は隠れちゃってますからね…」
「ふふふ。だけど、やっぱり、私の師匠はテスカ師匠かな。師匠らしくはないかもしれないけど、私にとっては、欠け換えのない方ですから」
「そうですね。あっ!師匠も、私にとって、欠け換えのない方ですよっ」
「…そうか」
「えへへ」
「それにしても、私の師匠は、どこを逃げ回ってるのかな…。早く会いたいのに…」
「逃げ回ってるって言っても、きっと、どこかでフィルィさんのことを見守ってくれていますよ。テスカさん、本当にフィルィさんのことを心配しているみたいでしたから」
「そっか…。ありがとね、秋華ちゃん」
「いえ。私は、師弟関係ではないですが、似たような体験をしましたから」
「えっ?似たような?」
「はい。私の姉さま…千秋姉さまは、最近までずっと家出同然だったのですが。でも、私や家族みんなのことは、いつも気に掛けてくださっていました。傍にはいないけど、確かにそこにいる…そんなかんじがしたんです。会えない日が長くなるのは辛かったですけど、それでも頑張れたんです」
「秋華ちゃん…」
「はい」
「すっごく健気だね…。私、感動しちゃって…」
「わっ、な、なんで泣いてるんですか?」
「秋華ちゃんの健気さに感動して…」
「け、健気ですか?私が…?」
「そうだよ…。やっぱり、秋華ちゃんは、一所懸命で健気で謙虚で可愛い女の子だったよ…」
「えっ、あ、あの…」
「だから、ちょっとだけ匂い嗅がせて…」
「やめろ、またお前は…」
「いたっ…。うぅ…。酷いです、紅葉さん…」
「まったく…」
秋華のいい話も、こいつのせいでぶち壊しだな。
本当に、この性癖には困ったものだ。
…でもまあ、リカルもフィルィも、いつかの秋華のように、ずっと待ち続けている。
テスカが、自分たちの前に帰ってくるのを。