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広間の屋根縁から、少し外を眺める。
こんなにいい天気なのに、今日は広場で遊んでる子供たちもいない。
それを考えると、ここの就学率というのは、かなり高いのかもしれないな。
「何を見てるんですか?」
「何も見てない」
「えぇ…」
「いや、何もないのを見ているのか」
「は、はぁ…。よく分かりませんが…」
「…それより、テスカに会わなくていいのか?」
「そ、それがですね…。テスカ師匠は、どうも、ぼくを避けてるみたいで、目撃情報を頼りに追い掛けてるのですが、すんでのところで捕まえることが出来なくて…」
「ふん。…あいつは、まだそんなことをしてるのか」
「ぼく、何かテスカ師匠に悪いことしちゃったんでしょうか…」
「お前は悪くない。あいつは、今、ちょっと難しい時期みたいだ」
「そ、そうなんですか…?」
「お前含め、旅団のみんなに怪我をさせたのは、自分が不甲斐ないせいだと思っている。それでは、旅団長としても失格だと」
「それは…松風師匠からも聞きました…」
「でも、いちおう、その松風に殴られてから、考えを少しずつ軌道修正していっているようだったんだけど…。まあ、まだ決心はついてないのかもな」
「そうですか…」
「…お前は、なんでテスカに師事しようと思ったんだ?テスカなんかより、心もよっぽど強い松風ではなく」
「そうですね…。ぼくも最初、松風師匠に弟子入りしようかと思ったのですが。でも、松風師匠からの提案で、二週間ほどお試し期間ということで、弟子入りは一旦置いといて、旅団で働かせてもらったんです。その期間の間に、むしろ、テスカ師匠の、その心の弱さに惹かれたのでしょうね。松風師匠は、確かに強いかもしれませんが、ぼくは、あそこまでは辿り着けませんし。もちろん、テスカ師匠に追い付くことも出来るとは思っていませんが。でも、松風師匠にはないものを、テスカ師匠は持ってるんじゃないかって思うんですよ。松風師匠が、お試し期間の最初に言ったんです。心の弱い者は、どこかに、それを補うだけの強さを持っている。あたし…松風師匠のように、もともと強い人間には、到底持ち得ないような強さを…と」
「自分で強いとか言ってるのか、あいつは…」
「ふふふ。まあ、事実ですし。それに、松風師匠も、自分の弱さは強さにあると仰っていました。ぼくは、初めて聞いたときは、分かりませんでしたが…。あ、今も、ぼんやりとしか分かりませんけどね。でも、テスカ師匠と一緒にいると、こういうことなのかも、ということが分かる気がして」
「そうか」
「松風師匠が今回の事件現場にいたとしても、たぶん、何事もなかったように収束していたでしょう。腕っ節もそうですし、心も強靭な方なので、身内に裏切り者が潜んでいたとしても、それはそれとして解決してしまうのでしょう。でも、テスカ師匠は違いました。新参とはいえ、信じていた仲間…いえ、家族に裏切られて我を見失い、心に深い傷を負って…。正直な話、裏切り者が同じ村で治療を受けていると聞いたとき、はらわたが煮え繰り返る思いでした。テスカ師匠がどれだけ傷付いたのかと…」
「そのことは、テスカには伏せておけよ。今度こそ、確実に息の根を止めに行きかねない」
「それは分かっていますが…」
「罪を裁くのは法だ、とは言わない。法で裁けない罪だって、そこら中に転がっているんだからな。だけど、復讐とか、そんなつまらないことで自分が裁かれる側になってはいけない。あいつらの処分については、オレたちに任せておいてくれないか」
「…分かっています。それに、どのみち、テスカ師匠に骨を砕かれて立ち上がることすら儘ならないのでは、もう何も出来ないでしょうし」
「………」
「まあ、そうやって、ぼくたちのことを家族だと言ってくれ、一番に心配してくれるんです。たとえ、怪しい新参でも、それは変わらず。松風師匠は、そこが最も甘い部分だと仰っていましたけど。世の中は、善意だけじゃないんだって。でも、テスカ師匠は、それを言われるたびに、猛反発をしていました。善意を信じなければ、何を信じるんですか。世界は悪意に満ち満ちていて、常に疑いながら生きていかないといけないと言うのですか。私は、そんな世界は望まない。悪意はあるのだろうけど、そんなものを疑うより、私はもっと、光り輝く善意を信じ続けることを選ぶ!って。お試し期間の最後の日だったんですけどね。あぁ、ぼくは、この人についていくべきなんだと思いました」
「…そうか」
「不器用なんですよね、テスカ師匠は。善意を信じながら、一方で悪意を疑う、なんてことは出来ない。常に、ひたすら善意を信じ続けてるんです。でも、裏切られたからと言って、それが悪意を疑う方向には向かない。そうだったでしょう?」
「…ああ」
「ふふふ。テスカ師匠は、本当に、二度と帰ってこない主人が帰ってくるのを、ずっと待っていた忠犬のように、純粋な人なんです」
「…テスカトルの話は知っているか?まあ、たくさんあるけど」
「破壊と創造の神、でしたっけ。テスカ師匠の名前の由来になった」
「ああ」
「いえ…知らないですね」
「…テスカトルには、キツアコリカルムという妹がいた。火と文字を司る神なのだけど。テスカトルは、その妹をたいそう可愛がっていてな。…ある日、妹は、人間が放った火によって大火傷を負ってしまう。火の使い方を教えてやった恩を、仇で返されたというわけだ。テスカトルは、毎日妹の看病をして、回復を願った。しかし、妹は日ごとに衰弱していき、十日後に息を引き取った。そのとき、テスカトルはどうしたと思う?」
「その人間を殺しにいった…とかですか…?」
「普通なら、そうしたいだろうな。でも、テスカトルは、それをしなかった。妹の遺体を持って、どこかに消えたそうだ。そのせいかどうかは分からないが、この世界では、百年以上も不作や疫病が続いたらしい。しかし、皮肉なことに、その苦境から、人間は助け合いと感謝の心を学んだそうだ。…テスカトルは、この善意で満ちた世界を望んでいたのかもしれない。だから、悪意を疑うことをしなかったのだと、人々は囁いていた。でも、その世界に、テスカトルが帰ってくることは二度となかった」
「…哀しい、お話ですね」
「テスカの善意を信じる心、で思い出した話だ。テスカトルの話は、それこそごまんとあるんだけど。オレは、この話が好きだった」
「そう…ですね。ぼくも好きです。でも、心が締め付けられるというか…」
「テスカトルは、最期に、善意で満ちた世界を創造していったのかもしれない。テスカトル自身の目で見ることはなかったが…いや、きっと、どこかで見ているんだろうな。妹と一緒に」
「はい。ぼくもそう思います」
たまたま読んだ物語。
どこで読んだのか、あるいは、本当にあったのかどうかも怪しいのだけれど。
でも、テスカとテスカトル。
この二人は、とてもよく似ていると思った。
…破壊と創造。
テスカは、何を破壊して、何を創造していくんだろうか。
願わくは…いや、やめておこう。
それは、テスカ自身が考え、決めることだからな。