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「はぁ…」
「師匠に殴られたってのに、まだため息なんかついてるのかよ」
「あ、あんまり近付くな…」
「なんだよ、今更」
「翡翠、これ見てー」
「ん?何を描いたんだ?」
「はぁ…」
翡翠が葛葉の方へ行くと、テスカは安心したようにため息をついて。
それから、まだ寝ているりるの耳を擽り始めた。
「…お前、まさか、さっきので翡翠が好きになったんじゃないだろうな」
「なっ!そんなことないだろ!」
「んー…」
「りるが起きるだろ。大声を出すな」
「紅葉が変なこと言うから…」
「まあ、ついに翡翠にも彼女が出来るかと思ったんだけど、違うのか」
「………」
「女の子として扱ってもらえて嬉しかったのか?」
「それは…そうだけど…」
「それで、ときめいたってわけか」
「だから違うって!」
「二人とも、さっきから何を騒いでるんだ?」
「オレは騒いでないけど」
「紅葉が悪いんだろ」
「人のせいにするな」
「いやいや…」
「何もないんだったらいいけど…」
翡翠は首を傾げて、また葛葉とサンと一緒に絵を書き始める。
何の絵を描いてるのかは、ここからはよく見えないけど。
…テスカは、また俯いて黙ってしまって。
こんなんじゃ、恋してないなんて言っても、全く説得力がないな。
「テスカ。ちょっと来い」
「えっ?」
「来いって言ってるんだ」
「えぇ…」
「どこかに行くの?」
「連れションだ」
「もう…。葛葉もサンも聞いてる前で、そんなこと言わないでくれるかな…」
「冗談だ。ちょっと話があるから、連れていくぞ」
「はいはい、ご自由に」
「ほら、行くぞ」
「あっ、ちょっ…」
テスカの腕を引っ張って、部屋の外へ連れ出す。
それから、適当に離れてる別の部屋に入って。
「…驚いたな、紅葉の方から来てくれるなんて」
「犬千代。少し部屋を借りるぞ」
「えっ?」
「こいつに話があるんだ」
「いいけど…。僕はどうすれば?」
「こっちの話を聞かないように、仕事に集中してろ」
「えぇ…。聞かれたくないなら、なんでここに来たんだよ…」
「五月蝿いぞ」
「はいはい…」
利家がため息をついて、また仕事に戻ったのを確認してから、テスカを隅に座らせて。
それから、二人で秘密の会合を始める。
「好きなんだろ」
「………」
「何の話をしてるんだよ…」
「お前には関係ない」
「いきなり押し掛けといて、それはないんじゃないかな…」
「そ、そうだぞ、紅葉…。だいたい、この人は誰なんだ…」
「オレの夫だ」
「えぇっ!紅葉、結婚してたのか…?」
「なんで、そんなに驚くんだ」
「いや…。あまりに意外だったから…」
「割と失礼だぞ、それ」
「私と似たようなかんじだと思ってたのに…」
「今はオレの話をしてるんじゃないだろ。お前の話だ」
「私は…だから、そういうのじゃないって…」
「あいつには彼女がいないから、無理矢理にでも支援してやろうって思ってるわけじゃないんだ。お前に、それらしい兆候があったから、聞いてるんだぞ」
「それは…」
「さっきので意識するようになったってんなら、それでいいじゃないか。オレの勘違いなら、そうだとはっきり言え」
「………」
テスカは、頬を真っ赤に染めて、また俯いている。
分かりやすいは分かりやすいが、どうしても自分からは認めたくないらしい。
「恋の相談?」
「こ、恋なんて…。私は…」
「何があったかは知らないけどね、人を好きになるってのは悪いことじゃないよ。特に、塞ぎ込んでるときには、支えになってくれる人が近くにいるってだけで、相当変わるよ」
「塞ぎ込んでなんか…」
「そう?まあ、どっちにしろ、自分の中でだけでも態度をはっきりさせておくことだね。中途半端は身体に良くないよ。薬も恋も、ね」
「………」
尻尾の先をいじったりして、テスカは何かを考えているようだった。
何を考えているのかは分からないけど。
…でも、やっぱりここに来て正解だったな。
利家は頼りになる。
「私は…翡翠に代わってもらったとき、すごくドキドキした…。すごく男らしいなって思って…。それと、女として扱ってもらったのもそうだけど、師匠と真っ向から睨み合って、一歩も退かないところが、格好いいなって思ったんだ…。私の目指してる私自身が、翡翠の中にあった気がした…」
「リカルの理想の姉の話か?」
「うん…。私が目指すべきは、あのときの翡翠なんだって…」
「そうか。それで、翡翠のことはどう思ってるんだ?」
「い、今は、顔を見ることも出来ない…。見ようとすると、顔のところに血が上ってくるのが分かってしまって…。でも、これは恋なのか…?私は、今まで恋なんてしたことないから…」
「たぶん、恋なんじゃないかなと思うよ。僕も、前まで、紅葉を見るとき、そうなったから」
「平気の平座みたいな顔をしてたくせに…」
「僕の自制心が強いってことだね」
「よく言うよ…」
「ふふふ」
「そうか…。これが恋なのか…」
「でも、何が切っ掛けになるかは分からないものだね。男の子に助けられた女の子が、その男の子に仄かな恋心を抱く…なんて、恋愛小説の一節みたいじゃないか」
「れ、恋愛小説…」
「お前は黙って仕事をしてろ」
「えぇ…。なんで、そんなに扱いが酷いの…?いいこと言ってるでしょ?」
「なんでも、だ」
「理不尽だなぁ、いろいろと…。でもさ、いいと思うよ、翡翠は。座敷わらしって、僕にはちょっと分からないけど、優しいし、芯もしっかりしてるし」
「でも、なんかいろいろ嫌われてるみたいだし、私なんかと釣り合うのかどうか…」
「まずは、その後ろ向き後ろ向きに考える癖を直さないことには、翡翠どころか、葛葉にすら嫌われたままだろうな」
「そんなこと言ったって…」
そして、また尻尾の先をいじりだして。
どうも、こればかりは根がかなり深いようだった。
やはり、なかなかすぐには上手くは行かないか。
…翡翠のことが好きにしろ、そうでないにしろ、この心の動きは、テスカの考え方をいい方向へ転換してくれるものだと思っていたけど。
たぶん、それは間違いではないんだけど、まだ時間が掛かるようだ。
「そうか…。私は、翡翠を好きになってしまったんだな…」
「好きになってしまったんじゃなくて、好きになれたんでしょ。言葉をひとつひとつ注意して使っていくだけでも、気持ちは変えられるんだよ」
「私は翡翠を好きになれた…。おっ、確かに、いいかんじがするな」
「そうそう。その調子」
若干、口車に乗せられてるような気もしないでもないけど。
でも、卑屈な思考から脱却させられなかった私たちと比べても、利家のこの業績は、僅かであっても輝かしいものだと思う。
…まあ、次は、テスカの気持ちはこのまま更に高めさせていって、どうやってこれを翡翠に気付かせるかというところだろうか。
あいつも鈍いところがあるから、なかなか難しいかもしれないけど。
恋の仲人役も、割と楽しいものだな。