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血をすっかり洗い流されたその身体には、やはり傷などひとつもなくて。
じゃあ、誰の血だったのだろうか。
そのあたりは、こいつに聞くしかないだろう。
…血の匂いが消えた今、リカルと同種の匂いを、はっきりと感じられるようになった。
ほぼ確実に、リカルの姉だろう。
「何なんだろうね、この人」
「リカルって子のお姉さんだろう。強くて、格好いいって噂の」
「あぁ、そうなんだ。リカルちゃんの。でも、あの様子じゃ、ちょっと見る影なかったよね。何か怯えてたというか、哀しんでたというか」
「風華もあそこにいたのか?」
「何言ってるのよ。姉ちゃんの横で鎮静剤打ってたのは私だよ?気付いてなかったの?」
「いや、全然」
「酷いなぁ。結構勇気がいったんだからね。ほら、枷を付けられても、すごい剣幕だったし」
「まあな」
「はぁ…。起きてから、またあんなに錯乱されたら、私、逃げちゃうからね…。同じ医療室にいるってだけで怖いんだから…」
「まあ、またオレを呼べばいい。正気のあいつとは闘いたくないが、今なら絶対に負けない」
「えぇ…。姉ちゃんが闘いたくないって、どんな相手なのよ…」
「北の拳法に、独自の型を取り入れて、さらに強化しているらしい。錯乱していても、身体に染み付いた動きというのは、容易に再現出来るんだろう」
「北の拳法って、秋華が習ってるっていう?」
「ああ。まあ、あれも、北の拳法の派生系と言えば派生系だ。正当なものは、北に行かないと習得出来ないだろうな」
「へぇ。姉ちゃんは習得してるの?」
「母さんに教えてもらったり、戦闘訓練中に少しな」
「ふぅん…。でも、さっきのは北の拳法だったの?」
「いや。あれは柔道だ」
「えぇ…。なんでもありなんだね…」
「いろいろな格闘技を身に付けることで、どのときにどんな闘い方をすればいいかということに、すぐに対応出来るだろ。彼を知り、己を知れば、百戦して殆うからず、だ。敵を知るために、自分が学ぶ。完璧なものなどない。何かを極めるというのは、己の弱点を知り、それを補えるようになることだ。ひとつの道だけで、真の究極など、目指しようがないんだよ。格闘技でも、学問でも何でもな」
「なんか、話がすり替えられたような気がしないでもないけど…。まあ、薬を作るにしても、薬学の知識だけじゃダメだもんね。動物学や植物学も…あっ!本、また借りにいかないと!」
「行ってきたらどうだ。こいつは、オレが見といてやるよ」
「えぇ…。でも、他の急患とか、来るかもしれないし…」
「じゃあ、他のやつに代わってもらうか、非番の日に行くかだな」
「うーん…。でも、今夜読む本もないしなぁ…。ちょっと、誰かに頼んでみる」
「そうか。分かった」
「うん。あ、しばらくお願い」
「分かってる」
「すぐに帰るから。よろしくね」
「慌てなくてもいいんだぞ」
「うん、ありがと」
そして、風華は書き物机の上に乗せてあった二冊の本を取って、医療室を出ていった。
…急に静まり返った部屋の中。
外から、子供たちの楽しそうな声が聞こえてくる。
「………」
「寝たフリか?」
「………」
「今は、何も心配することはない」
「…ここは」
「ユールオだ。錯乱したお前を取り押さえて、とりあえず、城へ連行させてもらった」
「ユールオ…。そうか…」
「何があったんだ。腕のその刺青は、旅団蒼空の紋章だと聞いたぞ。大空を舞う鷹の意匠。新進気鋭の傭兵旅団らしいが?」
「ふん…。この紋章に、もう意味はないよ…」
「仲間割れでもしたのか?」
「仲間割れなら、もっとよかっただろうな」
ため息をついて、起き上がる。
どこか痛むのか、少し顔を歪めるけど。
「大人しくしておけ。何があったのか、詳しくは知らないが、もう焦ってもどうしようもないことなんだろ」
「………」
「お前に少し遅れて、ユールオとヤゥトの間の森で何か酷い争いの跡が発見された、という報告を受けた。お前と関係があるんじゃないのか?」
「早く始末しないと…。家族が…」
「ふん。…あの場所から、誰かが逃げ出したという痕跡はなかったようだ。目撃者も、お前以外、無事なやつはいなかったと証言している」
「目撃者…。目撃者ってのは誰だ!」
「そう興奮するな。ユールオに用事があって、ヤゥトから向かってきていた村民の一人だ。裏も取れている」
「………」
「裏切りか。まあ、二人、見るも無惨に骨まで砕かれていたやつがいたようだが、残りは辛うじて生きていたようだ。ヤゥトの方が近かったから、そっちで治療を受けている」
「………」
「家族を傷付けられて、我を忘れていたんだな」
「…そうか」
「まったく、他の誰かに怪我でもさせたらどうする気だったんだ」
「………」
「血塗れで刀を持ってたから誰も近寄らなかったが、もし近付いていたら、見境なく攻撃していたんじゃないのか?」
「…わたしの未熟さが招いた結果だ。いかなる罰も受ける。だから…せめて、もう一度だけ、みんなに会わせてくれないか」
「ふん。元気になって、自分の足で会いに行くことだな」
「………」
リカルの姉は、黙ったまま俯いて。
…仲間の裏切り。
いや、旅団蒼空の活躍を疎ましく思った者たちによる工作だと考えた方が自然か。
おそらく、重要人物の護衛中に、工作員が護衛対象に攻撃を仕掛け、団員にも手を出したというところだろう。
任務失敗となれば、旅団蒼空の名は失墜し、小さな旅団であれば、そのまま消滅してしまう。
まあ、少し傷でも付けて、逃げるような算段をしていたのかもしれない。
まさか、あんなことになるとは思っていなかっただろうな。
しかし、旅団を経営していくに当たって、いかに仲間を信用しながら、不穏分子を排除していくかというのが、一番難しいところなんだろう。
こいつは、少し純粋すぎるのかもしれない。
「リカルも心配してるだろうし、また会いに帰ってやれ」
「…会わせる顔がない」
「お前のこと、強くて格好いいお姉ちゃんだって言ってたぞ」
「私は…」
「せめて、あいつの前では、お姉ちゃん然としていてやれ」
「………」
リカルの名前を出したときの、辛そうな顔。
こいつ自身も、リカルのことが大好きなんだろう。
…こいつにとっての家族とは、どんなものなんだろうな。
普通の人が考えているものより、ずっと強いものなのかもしれない。