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太陽が、ようやく山の上から顔を出し始めた。
今日は寝坊せずに、早起きが出来たから、少し外へ散歩に出る。
冷たい朝の空気が、ゆっくりと目を覚まさせてくれて。
「師匠っ!今日は、ミケちゃんに呪術を習いに行くんですっ!」
「そうか。だから、早起きなんだな」
「えっ?」
「お前は、道場が休みの日は、いつも寝坊するじゃないか」
「い、いつもじゃありませんよ…。でもでも、温かい布団の中に、ずっと入っていたいとは思いませんか?」
「まあ、分からんでもないが」
「やはり、師匠もそう思われますかっ」
「でも、それ以上に、あまり早く起こしてもらいたくないというのがあるけどな。オレは、そこまで朝の早い人間ではなかったんだけど」
「す、すみません…。私がいつも迷惑を掛けております…」
「………」
それは、親や上司の挨拶だと思うけど。
ペコリと頭を下げて、伺うようにこちらを見上げる。
…とりあえず、頭を撫でてやって。
「迷惑なんかじゃないって、いつも言ってるだろ」
「し、しかし…」
「迷惑だと思うなら、早く私を越えて、私がお前を師匠と呼べるような人間になれ。そしたら、どんな早い時間に起こしたとしても、迷惑じゃないだろ?」
「は、はぁ。確かにそうですね…って、そんなの無理ですよっ!師匠は、私がたとえどんなに立派な人間になろうとも、いつまでも師匠ですっ!」
「それだったら、オレに迷惑を掛けてるなんて思うな。師弟というのは、そういう関係だ」
「うぅ…。私には難しいです…」
まあ、そうかもしれない。
そのあたりは、秋華の性分だろうから、どうしようもないことだと思うけど。
しかし、ちょこちょことついてくる様子は、本当に栗鼠を思わせるものだな。
当初の、稽古を付けてやるという約束はどこへやらだけど。
まあ、秋華の心の成長に、少しでも携わることが出来ていると思っておこう。
…だけど、私を師匠と慕ってくれるのは嬉しいが、私のような人間に留まらず、どんどん立派な人間になっていってほしい。
秋華には、きっと、それが出来るから。
「あっ、ミケちゃんですっ!ミケちゃん!」
「…なぜ、その呼び方をするのだ。ミケでよいと言ったであろう」
「し、しかし、やはり、呼び捨てではいけないと思いまして…」
「だから、なぜ、ちゃん付けなのだ」
「あっ…。ミケ太郎の方がよかったですか…?」
「新しい名前を付けるなと言ったであろう。それに、太郎は敬称ですらないぞ」
「そ、そうでしたか…」
「…お前は、太郎が敬称だと思っていたのか」
「い、いえ…。そんなことはないですが…」
「では、なぜ太郎と付けたがる」
「その方が、男の子らしくありませんか?」
「…男の子と呼べるような年齢でもないがな」
「そ、そうでしたか…。では、やはり、ミケちゃんで…」
「…もう、なんとでも呼べ」
「す、すみません…」
全く進展のない話だな。
結局、ミケちゃんだし。
まあ、妥当なあたりなんじゃないだろうか。
ミケちゃん。
ピッタリじゃないか。
…と、そんなことを考えていると、ミケちゃんに睨まれてしまった。
加奈子の蛇睨みよりも、よっぽどドスの効いたきつい睨み付けだな。
加奈子も、こいつに師事してみたらどうなんだろうか。
「…それで、今日は何だ」
「あっ、そうでした。今日は、ミケちゃんに呪術を教えてもらおうかと思いまして」
「ふむ…。そういえば、そんな約束もしていたな」
「あの、撫子も連れてこようと思ったのですが、まだ眠いと言われまして…」
「まだ朝も早すぎるしな」
「は、早すぎましたか?」
「小生も、ついさっき起きて、今は朝の運動の真っ最中だ。美しい肢体を保つためのな」
「そ、そうでしたか…。申し訳ないです…」
「まあ、撫子が起きたら、また一緒に来るとよい。小生は、いつでも待っているでのな」
「あ、ありがとうございますっ!出直してきますっ!」
「出直してくるというのとは、少し違うと思うがな」
「では、ミケちゃん。私も、朝の運動をしてきますねっ!」
「あっ、おい」
勢いよくお辞儀をして、止める間もなく、そのまま猛烈な速さで走っていってしまった。
あとに取り残された二人で、それを見送って。
「真っ直ぐだな、あの子は」
「真っ直ぐすぎるところもあるけどな」
「ふむ。しかし、それがあの子のよいところだよ」
「…お前は、秋華のことを、よく気に掛けてくれているんだな」
「ふん。ああいう者を見てると、心配になるのだ。真っ直ぐすぎて、いつか折れてしまわないかとな。芯のない長物は、いとも簡単に折れてしまう。また、芯が堅すぎると、それも簡単に折れてしまう。あの子は、美しくしなやかな芯をちゃんと持っているが…まったく、真っ直ぐな人間というのは、手間が掛かるものだな」
「嬉しそうだな」
「手間を喜ぶ者は、そうそういるまい…」
「それは、自分にとって面倒な手間の場合だろ」
「………」
ゆらりと尻尾を靡かせて、その場に座る。
それから、顔を洗い始めて。
「…紳士として、身嗜みもきちんとしておかねばな。いんぐらんど、という国の紳士は、多少の面白い冗談も嗜むらしい。この間、六兵衛が話していた」
「秋華が来るからって、気合いが入ってるな」
「そ、そういうことではない…」
「どうだかな」
「まったく…。しかし、小生のことも、師匠だとか先生だとか、そういう風に呼んでもらいたいものだな…。よりにもよって、ミケちゃんなどと…」
「気に入ってるんじゃなかったのか?」
「そんなわけ、あるはずがないだろう」
「ふぅん」
「あるはずがないだろう」
それを繰り返しながら、さっきより入念に顔を洗い始める。
…まあ、秋華のことを気に入ってくれてるのは間違いないんだろうな。
否定するだろうけど。
ミケちゃんという呼び方も、言ってるほど嫌ではないのかもしれない。
「し、師匠、すみませんっ!思わず置いていってしまいましたっ!」
「いや。待ってる間、ミケと話も出来たし」
「はぁ、何を話していたのですか?」
「何をだろうな」
「……?」
「まあ、もう帰ろうか。今ならちょうど、洗濯の時間くらいに着くだろう」
「はい、そうですね。…ところで、ミケちゃんは何をしているのでしょうか?」
「天気予報じゃないか?」
「て、天気予報ですか?」
「ああ」
「よ、よく分かりませんが…」
ミケは、まだブツブツと言いながら顔を洗っている。
こうなると、もはや、雨乞いの儀式のように思えてくるな。
…とりあえず、晴れ渡っている空を見上げながら。
城へと帰っていく。