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「まったく、お前は負けず嫌いだな」
「負けず嫌いなわけじゃないよ…」
「加奈子に置いていかれるのが嫌だったのか?」
「………」
加奈子が来てから、澪は順調に刺し傷を増やしていって。
結局、作品作りの許可は得られなかった。
チクチクと滲みるであろう手を、湯船に浸けるか考えあぐねているようだ。
「紅葉は、なんであんなに、なんでも上手くやれるんだ?」
「別に、上手くやってるというような意識はないんだけどな。まあ、強いて言うなら、お前ほど神経質になったり、緊張したりはしてないかな」
「…なんで緊張しないんだ?」
「失敗したら…なんてことは考えないんだ。どうせ、そんなことを考えてるんだろ、お前は」
「うん…」
「失敗するのは悪いことじゃない。むしろ、失敗を恐れて立ち止まると、それ以上成長しなくなってしまう。それが一番、無駄なことだ。失敗したら紙が勿体ないとか、布や糸が勿体ないとか、そういうことよりずっと無駄だ」
「………」
「まあ、深く考えず気楽にやるのが、成功への近道なんだと思う。少なくとも、緊張したりしてしまうのは、かなりの回り道だな」
「そうか…」
目をギュッと瞑って、手を湯船に浸ける。
…まあ、気楽にというのは、澪にはなかなか難しいことなのかもしれない。
それでも、何度も失敗を重ねて、しっかりと前へ進んでいってほしい。
「…なぁ、紅葉」
「なんだ」
「加奈子は、私のことはどう思ってるんだろうか…」
「さっきの話は終わりか。…まあ、許嫁なんだろ。そう思ってるんじゃないのか?」
「本当にそうなのかな…」
「不安があるなら聞いてみればいいだろ」
「本当はままごとみたいな遊びで、あんまり深く考えてないのかもしれない…」
「お前はどう思ってるんだ。いずれ、大人になったとき、あいつと結婚してもいいというくらいの気持ちはあるのか」
「私は…あるけど…」
「あるんだったら、面と向かって、加奈子にちゃんと聞いてみればいい。真剣だと分かれば、あいつもちゃんと話してくれるだろう」
「でも…」
「お前が聞きにくいなら、オレが聞いてやろうか?澪は真剣だが、加奈子は真剣なのかって」
「いや…。それだったら、自分で聞くよ…」
「そうか」
「はぁ…」
澪は顔の半分まで湯に浸けて、ブクブクと泡を立てている。
まあ、私には、自分からはこれ以上のことは出来ない。
あとは、澪の問題だ。
…しかし、澪にしろ翡翠にしろ、どうしてこうも、恋愛に対しては奥手なんだろうか。
思い切りが足りないというか、どこか消極的で。
私も、言えた義理ではないかもしれないが…。
「…なぁ、紅葉」
「なんだ」
「一緒に聞いてくれないか…?怖いんだ…」
「分かったよ」
「…ありがと」
私と一緒にいることで、少しでも勇気が持てると言うのなら、私は協力する。
喜びにせよ、哀しみにせよ、分かち合えるのなら分かち合おうじゃないか。
…とりあえず、今は、そっと頭を撫でて、少しだけ勇気を分けてやることにする。
シンと静まりかえった部屋。
屋根縁のところから、ツカサと翡翠が、息を潜めてこちらを見ている。
「加奈子」
「……?」
「私の許嫁になってくれるというのは、本気の話なのか?」
「………」
コクリと頷く。
そして、どうしたの?と砂箱に書いて。
「遊びなんじゃないかって、怖いんだ…。ままごとみたいなものなんじゃないかって…」
「………」
おままごとなんかじゃないよ。
みおは、加奈子がそんなふうにかんがえてるって思ってたの?
「いや、そうじゃないけど…」
「………」
「でも、会ったばかりの私と、なんでそんな大切なことを決めてしまうんだ?まだまだ、私なんかより、もっと魅力的な人が現れるかもしれないじゃないか」
「………」
そのときは、そのときだよ。
それは、みおにだって言えることでしょ?
みおが、加奈子よりいい人に出会えたなら、ちょっとかなしいけど、加奈子はみおにしあわせになってほしいし、ちゃんとあきらめるよ。
「そんな、諦めるなんて…」
「………」
「…分かったよ、加奈子の考えていたこと。私の方が、加奈子の気持ちを疑ったりなんかして、不誠実だったんだな」
「………」
それから、加奈子はニコニコと笑って。
澪も、もう迷いはないようだった。
ほんの少しの言葉を交わすだけで、ちゃんと分かるんじゃないか。
怖がることなんて、全然なかったのに。
…まあ、ここからは、私がいては邪魔かな。
二人に気付かれないうちに、屋根縁に避難しておく。
「覗くんじゃない、お前ら」
「だって、気になるじゃないか」
「そうだそうだ」
「まったく…。こっちに来い」
ツカサと翡翠を、逆の端まで引っ張っていく。
龍の姿に戻っている翡翠は、さすがに抱えていくわけにもいかないので、鼻先から長く伸びている髭を引っ張って。
「痛い、痛いって!」
「お前、それなりでとびきりの彼女は見つかったのか?」
「絶賛募集中だよ…」
「なんだ。まだ見つけてないのか」
「う、五月蝿いなぁ…。そんなホイホイいるものでもないだろ…」
「そういえば、昨日、僻んでたね」
「だから、僻んでないって!」
「まあまあ。きっと、翡翠にも見つけられるよ、素敵な彼女」
「はぁ…。余裕綽々だねぇ…」
「僻みだな」
「僻みだね」
「うっ…。今のは否定出来ないなぁ…」
「僻みは見苦しいぞ」
「うぅ…。ちょっと探してくる!」
「あ、待ちなよ。もう夜だし…」
「まあ、いいじゃないか。行かせてやれよ」
「えっ?うん…」
翡翠は、もとよりツカサの言うことを聞く気はなかったようで。
少し姿勢を低くしたかと思うと、そのまま床を蹴って、夜の空へ駆けていってしまった。
…彼女を見つけて連れてくるのはいいが、面倒事はなるべく持って帰ってきてくれるなよ。
「見つかるのかな」
「さあな。見つかるときに見つかるよ。それが今なのかどうかは分からないけど」
「そうだね…」
「それで、今日は望はどうした」
「セトと一緒に、新しいヤコウソウの種を取りに行くんだって。まあ、もうすぐ帰ってくるんじゃないかな。僕はお留守番」
「なんだ。そんなこと、全然聞いてないけど」
「あれ?桐華さんにも言っておいたんだけど」
「はぁ…。またあいつか…。あのな、桐華は信用しちゃダメだ。特に、大切な伝言なんかは絶対に頼むな。絶対に忘れるんだから」
「えぇ…。そうなんだ…。気を付けるよ…」
「まったく、あいつは…」
「あ、帰ってきたんじゃないかな」
「ん?」
広場を見ると、確かにセトが降り立っていて。
望らしき人影が、背中の陰から出てくる。
ぼんやりと鞄が光ってるのがここからでも分かるから、しこたま拾ってきたんだろうな。
…まあ、夜も賑やかな花畑が出来るなら、それはそれで楽しみだ。
セトに別れを告げて、ゆらゆらと城に向かってくる蛍のような光を眺めながら、まだ見ぬ花畑に想いを馳せる。