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「ふむ。すまないな、わざわざ」
「いや、約束だしな。オレたちの食べ物を食べさせるって」
「一日一食だけでよいのだぞ。朝も食べさせてもらったのだが」
「そうなのか?オレは知らないけど」
「風華がな。お粥を持ってきてくれた」
「ふぅん…」
「いろいろ聞かれたよ。妖怪の病気についてなど」
「まあ、あいつは薬師だしな」
「知識欲が強いのだな。そういう人間は好きだよ、私は」
「知識欲もあるんだろうが、お前たち妖怪とも生活していく以上、ちゃんと妖怪の病気や怪我の治療も出来ておきたいということだろう。患者を目の前にすると、何かをせずにはいられないタチだからな、あいつは」
「ふふふ。あの子のことを、よく知っているのだな」
「まあな」
「ふむ。とりあえず、ごはんはいただこうか」
「お粥だ。朝と同じでな」
「そうか」
大和の前に、お粥の入ったお椀を置く。
明らかに小さいんだけど、不満はないようだ。
「それだけでいいのか?」
「うむ。ここは妖力が潤沢だからな」
「よく分からないけど」
「いい場所だ、ここは」
「ああ。それは分かる」
「食べ物も美味い」
「そうだな」
大きな舌で、器用に小さなお椀のお粥を舐め取っていって。
ものの数秒で食べ終わってしまった。
「…そういえば、澪はどうした。近くにはいないようだが」
「下で習字をやってるよ。面白いみたいだ」
「ふむ、そうか。私の体調不良も、少しは役に立っているようだな」
「人間万事塞翁が馬だな」
「ああ。しかし、習字か。あいつは、何かと精神的に弱いところがあるから、ちょうどいいかもしれないな」
「最初はガチガチに緊張して、墨も摺れなかったんだけどな。今は、意欲的にやってるよ」
「そうか。少しは克服出来たのだな」
「克服かどうかは分からないけど、暗示に掛かりやすいみたいでな。自分は書道の達人だとしばらく念じたら、すぐに書けるようになったよ」
「ははは。暗示か。それはいいな。まあ、澪は純粋だからな」
「そうだな」
とりあえず、私も昼ごはんを食べることにする。
お粥しか食べていない大和の横で、一緒に持ってきたざるそばを啜る。
「ざるそばだな」
「ああ」
「質素だな」
「そうか?」
「蕎麦のいい匂いがする」
「まあ、蕎麦だしな」
「昨日の洋食も美味かったが、やはりこの国の食べ物が一番美味い」
「他の洋食を食べたことはあるのか?」
「いや、ないが。しかし、質素な雰囲気はなかったからな。あの食事は」
「質素な雰囲気って何だよ…」
「武士道の精神だ」
「まったく、秋華が聞いたら喜びそうな精神だな」
「師匠、何かご用でしょうか」
「あぁ、秋華。こっちに来たのか」
「はい」
噂をすればなんとやらだな。
昼ごはんを乗せたお盆を持って、こちらに走ってくる。
秋華は、きつねうどんのようだ。
「師匠と一緒に食べようかと思いまして」
「そうか」
「加奈子は、りるとナディアと一緒に食べるようですよ」
「ふぅん」
「すっかり仲良しさんですね。ただ、りるもナディアも、字はそんなに読めないみたいで、少し四苦八苦しているようでした」
「まあ、そのうち覚えるだろ」
「そうですね」
特に、りるは、並々ならぬ理解力を示していたからな。
きちんと意志疎通が出来るのも、時間の問題かもしれない。
…それから、秋華は、皿に盛ってあった饂飩と油揚げを出汁の中に入れて、手を合わせる。
「あ、そうです。たまたま厨房に葛葉がいたのですが、きつねうどんの油揚げが十枚くらい乗っていました」
「ふぅん…。まあ、あいつらしいな」
「はい。やはり、狐さんなんだなと思いました」
「それは関係あるのかな…」
「たぶん。それで、この一枚は葛葉から戴いたものなんです」
「そうか」
「葛葉に貰わなければ、今日のお昼は素うどんでした」
「いや、それはないとは思うけど…」
「私は、きつねうどんも好きですが、天ぷらうどんの海老天が好きなのです。もちろん、天ぷらうどんでなくとも、海老天は好きですが」
「まあ、あの出汁を吸った衣は、なかなか美味いけどな」
「師匠はさすがに分かっておられますね。天ぷらうどんと言って、天ぷらとうどんを別にして持ってくるお店もありますが、持ってくるまでの間に、しっかりと出汁を吸い込ませておかないといけないのです」
「パリパリとした衣を好む者もいるのだろう。それに、別々に来ても、あとから浸けて食べればいいんじゃないのか?」
「大和は分かっていませんね。それでは、衣が出汁を吸い込む前に饂飩が伸びてしまいます。それに、饂飩は伸びる前に食べてしまって、あとから天ぷらを食べるというのも全く意味がありません。それでは、饂飩と天ぷらを別々に注文しているのと変わらないじゃないですか」
「ふむ…」
「まあ、拘りがあるのは分かったが、早く食べないと饂飩が伸びるぞ」
「はわわっ、そうでしたっ」
慌てて箸を取り、食べ始める。
慌てすぎて、少し気管に入ったりしているようだけど。
…まあ、好きなものに拘るというのはいいことだと思う。
拘りは他人に押し付けるものでもないけど。
「…美味しいですね、師匠」
「オレはざるそばだ」
「あっ、師匠、蕎麦湯ですっ」
「飲みたければ飲めばいい」
「いえ。しかし、蕎麦湯を飲んで、初めて蕎麦を完食した気になれますよね」
「まあ、茹で汁だから、旨みもある程度こっちに染み出してるわけだしな」
「はい。お蕎麦は、蕎麦湯までがお蕎麦なんだと思います」
「そうだな」
「…ところで、師匠は、山葵は入れないのですか?」
「ん?あぁ…。昔から、どうも苦手でな」
「えへへ。私も同じです。独特の、あのツーンとしたかんじが、どうも好きになれないんですよね。大人の味なんだと聞きますが、そうですか、師匠も苦手なんですね」
「まあな」
「私、なんだか嬉しいです。天ぷらうどんに、蕎麦湯、山葵と、三つも師匠と同じものを見つけられましたっ」
「そうだな」
嬉しそうに笑う秋華。
それを見ていると、こっちまで嬉しくなってくるようで。
まったく、笑顔というのは不思議なものだな。