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ようやく墨を摺り終えた澪は、今度は筆を持って、半紙の前で固まっている。
何を書くのか、迷ってるわけではなさそうだけど。
「さすが衛士長さん。文句のつけようがないですね」
「お世辞はいいから」
「お世辞じゃありませんよ。私の朱で汚すには惜しい字です。本当に、師範になられてはどうでしょうか?」
「そのネタはもうやめろ」
「いえいえ。冗談ではないですよ」
ニコニコと笑いながら、字に掛からないように、紙の隅に花丸だけを描く。
それから、朱を乾かす場所に置いて。
「さて、澪ちゃん。何を書くか決まりましたか?」
「………」
「また肩に力が入っていますよ。落ち着いて」
「半紙を見てたら、頭の中が真っ白です…。何を書いたらいいのか、全然分からない…」
「では、私からお題を出しましょう。永字八法というのは知っていますか?」
「いえ…」
「永…永遠の永という字には、習字に必要な要素のうち八つが含まれていると言います。点、横画、縦画、跳ね、右上がりの横画、左払い、短い左払い、右払いの八つですね。この字を上手に書くことが出来れば、自ずと字も上手くなっていくのです。ここに、衛士長さんが書いた永の字がありますから、お手本にして書いてみてください」
「オレのを使うのかよ」
「私の字より上手いですよ、衛士長さん。免許皆伝です」
「まったく…。師範なんだから、自分の字に自信を持て」
「いえいえ。生徒さんでも、私より字の上手い方はたくさんいますし、その方々には、もっと腕を磨いていただくようにしています。別の書道家の先生の紹介をさせていただくこともありますし。私は、どちらかと言えば、入門編なので。まあ、講義名も、書道ではなく習字ですし。レオナちゃんの算数と同じです」
「ふぅん…」
「衛士長さんは、毎年のように最高賞を授与されておられる、亀次郎先生の書道くらいが、一番実力に合っているかもしれませんね」
「ふん。冗談はやめてくれ」
「ふふふ。衛士長さんこそ、ご自身の腕に自信を持たれてはいかがでしょうか」
「習字くらいが、オレにはちょうどいいよ」
「そうですか」
師範はまた笑うと、澪の方に視線を戻して。
澪はというと、さっきと全く変わらない姿勢で、相変わらず固まっている。
「澪ちゃん。書かないと上手くなりませんよ。失敗しても大丈夫ですから、思い切って書いてみましょう」
「先生、どこから書けばいいんですか…?」
「あぁ。では、一緒に書いていきましょう。筆に墨をつけてください」
「は、はい…」
筆の先を墨に浸けて、そのまま紙へ持っていこうとする。
師範は、澪の手を取ってそれを止めると、余分な墨を落とさせて。
それから、紙へ持っていく。
「墨は適度に落としましょう。そして、書くときは大胆に」
「は、はい…」
「一画目、二画目、三画目…」
器用なものだな。
澪の手の上から持って、それでも字体を崩さずに書いていく。
そのあたりは、さすが本物の師範といったところだな。
「…と、こんなかんじです。分かりましたか?」
「はい、だいたい分かりました」
「では、次は澪ちゃんだけで書いてみましょうか」
「えっ。そ、それは…」
「大丈夫ですよ。きっと上手く出来ますから」
「うぅ…」
師範と一緒にやっているときは、いい具合に力が抜けていたのに、こいつはどうしてこんなに緊張しいなんだろうか。
なかなか上手く気持ちを落ち着けられないようだった。
「さあ、深呼吸してみましょう」
「えっ?」
「深呼吸をしながら、自分は書道の達人だと念じてみましょう」
「あ、あの…。どういう意味が…」
「意味を求めてはいけません。意味は、あとからついてくるものです」
「は、はぁ…」
「さあ、深呼吸」
「………」
「自分は、書道の達人なんだと念じてください」
「………」
ブツブツと呟き始める。
自己催眠の一種だろうな。
上手くいくといいが。
「さあ、筆を取って、字を書いてみましょう」
「はい」
さっき教えてもらった通りに、墨に筆を浸けて、余分な墨を落とし、一度ため息をついてから、一気に書ききってしまう。
…まあ、なかなか個性的な字だな。
しかし、こんなに簡単に暗示が成功するとは思わなかった。
純粋な者、単純な者が掛かりやすいとは聞くが。
「いい字が書けたじゃないですか」
「…えっ?」
「いい字ですよ。衛士長さんのものと比べても、遜色ないくらいに」
「お、おぉ…。いつの間に…」
「お前、無意識で書いてたのか?」
「いや、そうじゃないけど…。でも、なんか、ずっと長い時間を掛けていたような気がして…」
「旅に出ていたんですね」
「旅?」
「悠久の、書の旅です。この字は、澪ちゃんの旅の軌跡なんです」
「ふぅん…。そう言われると、なんだかそんな気がしてきました」
「そうでしょう」
「…でも、一人旅なんて寂しいな。誰とも交わることなく、一人の手と一本の筆で書かれる字は、始まりから終わりまで、ずっと孤独な旅をしている」
「そんなことないですよ。衛士長さんが書いた永の字、他のみなさんが書いた永の字。ひとつとして同じ旅はないけれど、通った道筋は同じ。今までに永の字を書いた、そして、これから永の字を書く、たくさんの人たちと共に、澪ちゃんは、また新しい旅に出たのですよ」
「新しい旅…。孤独じゃない…」
「はい。みんな、ここにいるんです。…しかし、この旅は、まだ誰の旅なのかということが分かりません。みんなが先立って手を引こうとしているのに、誰の手を引いたらいいのか分からない状態です」
「どうすればいいんですか?」
「澪ちゃんの、名前を書きましょう。そうすれば、澪ちゃんの手を引けばいいんだと、みんなが分かってくれます」
「なるほど。分かりました」
「さあ、この筆で書いてみましょう」
「はい」
澪は、師範が差し出した小筆を取って、さっきと同じように、筆に墨を付ける。
そして、今度はゆっくりと、左下のあたりに自分の名前を書いていって。
「書けました」
「はい、よく出来ました。これで、澪ちゃんも、旅人の仲間入りですね」
「旅人…か」
自分の書いた字を見て、嬉しそうに笑う。
…字に記された、悠久の旅の軌跡。
澪も、今日、その旅人の一員となって。
これから、是非ともいろいろな旅をしてほしい。
順風のときも、逆風のときも、みんなに手を引いてもらいながら、前に進んで。
楽しいこと、見つけられたようだな。