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「はぁ、遅なった」
「何してたんだ」
「ちょっといろいろあって」
「いろいろ?」
「ええやん、なんでも」
「いいけど。みんなお待ちかねだぞ」
「あぁ、うん」
レオナは頷いて、自分の担当の区画に行く。
相変わらず、一番人気の講義のようだ。
まあ、一番一般的な講義ではあるかもしれないけど。
「………」
「算数の授業だ。お前も受けてみるか?」
「………」
「加奈子は、今日はりるたちと遊ぶの」
「そうなのか?」
「………」
「まあ、好きなようにすればいいよ」
加奈子はりるとナディアの方を見て、また私の方を見る。
迷ってるんだろうか。
…余計なことを言ったかな。
「りるたちと行ってこい。寺子屋は二日に一回はあるんだから」
「………」
「りるたちと、お裁縫するんだよ」
「……?」
「ほら、あそこだよ。行こうよ」
「まあ、算数よりも楽しいかもしれないな」
「………」
コクリと頷いて、りるの方を見る。
それから、三人で裁縫の区画に行って。
寺子屋で楽しいことを見つけられるといいんだけどな。
…こいつも。
「お前も、何かやってみたらどうなんだ?」
「…私はいい」
「お前は、少し消極的すぎるんじゃないか?」
「紅葉を守ることが出来たら、それでいい」
「それじゃよくない。ほら、銀次の数学にでも行ってみればどうだ」
「数学はよく分からない。計算も出来ないし」
「なら、レオナの算数からやってみたらどうだ」
「うーん…。そもそも、計算することがないんだけど…」
「算数じゃなくても、民族学とかもあるだろ。どこかの講義に行ってみたらどうだ?」
「…そういう紅葉こそ、どこかに行ったらどうなんだ」
「まあ、お前の決めたところにお供しようかな」
「…ずるいぞ、そんなの」
「そんなこともないだろ」
「だいたい、昨日、紅葉が連れ出したせいで、今日大和が寝込んでるんだろ」
「オレが連れ出したわけじゃないだろ。だいたい、こんなことを言い合ってても仕方ないし」
「うむ…」
「まあ、早く決めろよ」
「うーん…」
澪は頭を抱えて。
とりあえず、待つことにする。
なんか、他力本願なかんじもするけど。
「今日は、何の講義があったっけ…?」
「裁縫と、数学と、算数と、民族学と、習字だな」
「うーん…。じゃあ、習字で…」
「そうか。それじゃあ、行こうか」
「うむ…」
あまり乗り気でなさそうな澪を連れて、習字の区画に行く。
今日は、この前の習字の師範だった。
「あ、やあ、衛士長さん。お久しぶりです」
「久しぶり」
「広間の貸出、ありがとうございます。助かっています」
「いや。どうせ、夕飯以外に使うことはあまりないからな」
「そうですか」
「ああ。それより、今日はこいつに習字を教えてやってほしいんだ」
「あぁ、たまにお見掛けする子ですねぇ」
「澪だ。よろしく頼む」
「はい、分かりました。それで、衛士長さんはどうします?」
「そうだな、オレもやろうか」
「ありがとうございます。では、空いてる席にお座りください」
「ああ」
言われた通り、適当に座る。
澪は少し緊張しているようだけど。
師範はすぐに墨と硯を持ってきて。
「今日は、時間があるので、墨を摺るところから始めてもらいましょう」
「は、はい…」
「静かに心を落ち着けて。力む必要はありません。ゆっくりとやっていきましょう」
「………」
そんなことを言われると、余計に緊張するようで。
墨を持つ手が震えている。
…澪は重圧に弱いようだな。
まあ、精神を鍛えるという意味では、習字を選んだのは正解だったかもしれない。
「肩を楽にしてください。墨を摺るのに、力は要りません。落ち着いて」
「はいっ…」
「表情が固いですね。もう少し、笑ってみましょう」
「………」
ぎこちない笑みを浮かべる。
でも、それでも、なんとなく力は抜けたようで。
「いいですね。その状態を維持してください。衛士長さんは、かなりいいかんじですね」
「どうも」
「では、私は澪ちゃんの方に集中させていただきますね」
「他の生徒はどうするんだ」
「みんな、私の講義をいつも受けてくれている方なので、ある程度任せていても大丈夫なんですよ。澪ちゃんは、今日初めて来てくれたので、ゆっくり講義をつけていくことにします」
「そうか」
「あ、澪ちゃん。また固くなっていますよ。もっと楽に」
「は、はい…」
まあ、じっくり講義をつけてもらえるならいいな。
澪の肩を軽く叩いてやると、こっちを向いて、またぎこちなく笑う。
…まずはここから治していかないといけないかもしれないな。
とりあえず、私は墨を摺り続けることにする。