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「………」
「…何してるんだ、お前」
「………」
加奈子が、私の耳を引っ張っていた。
目が合うと、ニッコリと笑って。
「あ、師匠。おはようございます」
「秋華か…。今日は道場は休みだろ…」
「はい」
「だったら、もうちょっと寝かせてくれ…」
「師匠、もうお日さまが昇ってから四半刻は経ってますよ。みなさま、もうお洗濯の準備を始めています。今日の師匠は、お寝坊さんです」
「ん…?」
そういえば、確かに、周りはもうすっかり明るくなっていて。
まだ寝てるのも、私とチビたちぐらいのものだった。
…久しぶりに、ゆっくり寝られたということか。
でも、なぜだか、まだぼんやりしている。
「師匠、今日は寺子屋の日ですっ」
「あぁ、そうか…。レオナも来てるのか?」
「いえ。今日は、レオナさんもお寝坊さんです」
「ふぅん…」
「それより師匠、今日は、早速お友達が出来たのです」
「そうか」
「加奈子ですっ」
「だろうな」
「………」
あきか、と例の砂箱に書きながら。
ちゃんと、みんなと上手くやっていけてるようでよかった。
まあ、心配はしてなかったけど。
「加奈子は、鍛練の心をいつも忘れず、このような砂の入った箱を、絶えず持ち運んで筋力を鍛えているのです。私も見習わなければ」
「いや、違うと思うけど…。こいつは、耳も聞こえてないし、声も出ないんだ。だから、みんなと話せるように、この砂箱を持ち歩いている」
「はい、それは分かっています。しかし、聾唖者用の伝言板を使わずに、このような重たい砂箱を持ち歩いているのは、やはり鍛練のためではないでしょうか」
「…そんな伝言板があるのか」
「はい。なんでも、磁石と砂鉄を使ったもので、半永久的に使えるとかなんとか」
「ふぅん…。どこにあるんだ?」
「この街の発明家さんが、一人一人に合ったものを手作りしているみたいです。結構有名な方ですよ。聾唖の方は、その伝言板ですごく助かっているとか。手話を知らない人とも話せるし、軽いから持ち運びにも便利だって」
「いや…。全然知らなかったな…」
「そうですか?」
「ああ…」
こういうことを聞かされると、自分は、この街のことを本当はよくは知らないということが、身に染みて分かる。
そういうことが少なくなってくればいいんだけど。
…しかし、いいことを聞いた。
加奈子がそれを欲しいと言えば、すぐにでも手配してやろう。
いくらなんでも、ずっとこれでは不便だろうし。
「加奈子、秋華が言ってた伝言板、欲しいか?」
「………」
少し首を傾げて、のぞみが作ってくれた、と書く。
たぶん、砂箱のことだろうな。
望が作ってくれたんだから、手放し難いということだろうか。
「加奈子。では、望に聞いてみましょう」
「……?」
「砂の伝言板を作ってくれたのは嬉しいけど、加奈子には少し不便だ、と。だから、もう少し便利なものと交換してもいいかと聞くのです」
「………」
「大丈夫ですよ。望は、きっと、喜んでくれます」
「……?」
「はい。望だって、この砂箱は、加奈子にとってはかなり不便だってことは分かっていると思います。そして、おそらくですが、もっと改良してあげようと、悩んでもいるはずです。だから、そういうものがあるんだよって教えてあげて、それで、一緒に作ってもらいにいけばいいじゃないですか。そしたら、二人とも納得のいくものを作ってもらえるでしょう?」
「………」
「そんな、遠慮なんてしなくてもいいのですよ。それとも、加奈子と望は、お友達ではなかったのですか?」
「………」
おともだち、と書く。
それをしばらく眺めてから、また笑って。
どうやら、納得出来たらしい。
「ふふふ。では、早速、望に聞きに行きましょう」
「……!」
「ほら、師匠も」
「ああ」
秋華に手を引かれて、まだ寝間着のままだが、部屋を出る。
…秋華は、なかなか交渉術に長けているのかもしれないな。
あと、読心術にも。
砂箱を使わせないで、加奈子が考えていることを察知しながら話せていたし。
「師匠、速く!」
「ああ。分かってる」
まあ、とりあえず、望のところへ。
たぶん、もう洗濯場にいるだろうな。
洗濯をしていると、また加奈子が私の耳を引っ張ってきて。
…何をしてるんだろうか。
そんなに、私の耳を引っ張るのが楽しいのか?
「今日すぐの方がよかったかな。望は、寺子屋に行きたいけど…」
「別にいいんじゃないか?どうせ、その伝言板もすぐには出来ないだろうし」
「すみません…。噂しか聞いたことがなくて…」
「お前は必要ないんだから、噂しか知らなくても仕方ないだろ」
「うぅ…」
「楽しみだね、加奈子」
「………」
後ろから私に抱きついているから、表情は分からないけど。
たぶん、ニコニコしているんだろう。
…でも、とりあえず、頭を小突いて離れさせる。
「………」
「お前も手伝え」
「………」
頬を膨らませながら、私の隣に座る。
それから、適当に洗濯物を突っ込んで、バシャバシャと泡だけ立てて。
「ちゃんと洗え」
「………」
「まったく…」
感情のはっきりしたやつだな。
適当に往なされて、言うことを聞かされているのが気に入らないんだろう。
ときどき蛇睨みを利かせてくるが、まだまだ可愛いものだった。
本物の蛇睨みは、相手の精神力を上回る力がないと、金縛りに遭うんだけど。
…この蛇睨みも、もしかしたら、何かの妖術だったり呪術だったりするんだろうか。
カムイ族が何かの動物に変化出来るように、蛇族の血にもそういう特殊性があるのか?
とりあえず、加奈子の蛇睨みに対応して睨み返してやると、いそいそと視線を逸らしていた。
まだまだだな。
「加奈子、いろんなところに鱗がありますね」
「蛇だしな」
「何蛇なんでしょうか、この模様は」
「アオダイショウじゃないか?」
「ほあぁ、アオダイショウですかぁ」
「なんだ、その反応は」
「はい…。実は、ついこの前、家の庭で六尺はあろうかというアオダイショウを見たんです。私はビックリして、しばらく固まっていたのですが、蛇がスルスルとこっちに来たので、さらにビックリして、その蛇を捕まえてしまったのです」
「…いや、意味が分からないんだが。なんでそうなるんだ?」
「とにかくビックリしたんですっ!それで、その蛇を、思わず家の塀の外まで投げ捨ててしまいまして…。痛くなかったでしょうか…」
「さあ…。それは分かりかねるが…」
「謝ろうと思ったのですが、いくら探してもいなくて…。私が投げたせいで、死んでしまったのでしょうか…」
「死んだんだったら、死体はそう簡単には動かないんだし、その辺にあると思うけど。ないなら、まだ元気に生きてるって証拠なんじゃないか?」
「そ、そうですか…。それを聞いて、少し安心しました…。師匠、ありがとうございます」
「いや…。本当はどうなったのかなんて、オレには分からないぞ」
「はい。でも、師匠のお陰で、前向きにも考えられるようになりました。だから、ありがとうございます、ですっ」
「まあ、それならよかったけど」
「ふふふ」
加奈子の手の甲にある鱗を撫でて、何か嬉しそうに笑う秋華。
意味が分からないという風に、加奈子は首を傾げるけど。
…しかし、思わず蛇を捕まえて投げ飛ばしたり、そのことを蛇に謝りたいと言ったりというのは、実に秋華らしいことだと思った。
まあ、また秋華の前に現れて、この前はどうもと挨拶をしに来るかもしれない。
そしたら、秋華はどう対応するんだろうな。
また投げ飛ばすかもしれない。
今後の秋華の報告に注目だな。