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「だから、等比数列の和は、公比が一より小さいときは一から引いて、一より大きいときは一を引く。まあ、逆にしても、どのみち同じ式になるんだけど。それで、ここは公比を項数回累乗したものになる。もとの一般項の累乗には関係してない。一般項が、ある数の任意の整数足す五乗だとしても、一から三項までの和なら、ここは公比の三乗だ」
銀次の数学は、本当に高等数学入門編といったところだった。
ただ、りるやナディアにはやっぱり難しいらしく、紙に三角形や四角形を描いて遊んでいる。
「おかーさん、見てー」
「なんだ」
「ロクボーセー」
「六芒星だな。だけど、もうちょっと静かにしてろ」
「んー」
「六芒星というのは、正六角形の各辺を延長して出来る図形で…」
「今は数列の授業だろ」
「あぁ、そうだった」
「お母さん、お星さまだヨ」
「そうだな。星だな」
「星の形は正五角形の各辺を延長して出来る図形で、五角形の一頂点から対角線を引くと三角形が三つ出来ることから、内角の和は百八十度の三倍の…」
「いつから幾何の授業になったんだ」
「あぁ、ごめん。それで、なんだっけ」
「等比数列の和の話だろ」
「あぁ、そうだった」
「まったく…。しっかりしろよ」
「ごめんごめん」
「…まあ、オレたちはちょっと場所を変えるかな」
「あ、そんな、いいよ。俺が悪いんだし」
「りるとナディアにはまだ難しいだろ」
「じゃあ、図形の話にしようか?」
「数列の講義だろ」
「どうせ、紅葉と千秋しか聞いてないんだからいいじゃないか」
「…不人気なのか、この講義は」
「不人気ってわけじゃないけど、今日はたまたま、いつも聞いてくれてる人がみんな来られなくなったってだけ。五、六人いるんだけど」
「ふぅん…。今日来て誰もいなかったら、どうする気だったんだよ」
「えぇ、そのときはそのときだな。他の講義を受けにいったりすると思う」
「受けたい講義があるのか?」
「まあ、教授の民族学か、佳子先生の裁縫か、小さい子の相手かだろうな」
「へぇ、裁縫か。俺も、破れたところを繕ったりするくらいだし、ちょっと習ってみても面白いかもしれないな」
「じゃあ、一緒に行ってくればいい。オレは、こいつらの相手をしてるから」
「裁縫なら、りるたちでも何かしら出来るんじゃないか?ほら、ちっちゃい子もいるし」
「まあ…それなら、こいつらが行きたいと言ったら、一緒に行こうか」
「うん。りる、ナディア。裁縫はしたくないか?」
「サイホー?」
「針仕事だよ」
「うーん…」
「面白いの?」
「それは人によりけりだろうけど、面白いとは思うよ」
「じゃあ、行く!」
「ンー。りるが行くなら、ナディアも行こうかナ」
「うん!一緒に行こ!」
「うん」
お互いの確認が済むと、二人は落書きをしていた筆と紙を放り出して、裁縫の講義をしている区画へと走っていった。
…思い切りがいいな、あいつらは。
「ちゃんと片付けも覚えさせないとな…」
「ガサツになったら嫌だしな」
「まったくだよ…」
「まあ、また落ち着いたときにゆっくり教えとくよ」
「はぁ…。そうだな…」
銀次の周りの人はどうだろうかとか考えると、ため息の意味も変わってくるかもしれない。
まあ、レオナはたぶん大丈夫だろうな。
テュルクも大丈夫だろうが、もしかしたら、アセナがため息の原因かもしれない。
歳の割に落ち着きが全くないし、やんちゃ盛りのチビっこがそのまま大きくなったような、そんなかんじだしな。
まあ、アセナの個性と言えばそうかもしれないが、もう少しなんとかならないかとも思う。
「…なんか、いろいろ描いてるな。そんなにつまらなかった?」
「いや、あれは、りるとナディアが理解出来る内容とも思えないけど」
「それはそうだけどさ…」
「まあ、三角比とか図形の話の方が、まだ興味を持ったかもしれないな」
「うーん…。また考えとくよ…」
「たぶん、もう受けに来ないと思うけどな」
「そうか…」
「とりあえず、俺たちも行こう」
「そうだな」
気を取り直したのか、諦めがついたのか、銀次はあっさりと切り替えて。
筆を近くにあった水桶で洗って綺麗に並べると、早く行こうという風に手を差し出す。
その手を引いて私も立ち上がって。
さて、行くとしようか。
「千秋は、どれくらい出来るんだ?」
「裁縫か?」
「数学だよ、数学」
「まあ、今聞いた内容は分かったよ。でも、あんまり難しいのは、たぶん分からない」
「ふぅん。紅葉は?」
「まあ、それなりじゃないか?そこまで出来るとは思わないが」
「そっか。二人とも、結構出来るんだな」
「出来るって言うのかな。俺は、理解出来るってだけだし」
「理解出来るなら充分だよ。考えることが大事なんだし。公式や定理をたくさん知ってても、何も考えなかったら意味がないし」
「そんなものなのか?」
「うん」
「あぁ、いらっしゃい。このおチビさんたちの保護者だね?」
「あ、佳子先生、お願いします」
話してる間に、いつの間にか裁縫の区画まで来ていたらしい。
と言っても、すぐ隣なんだけど。
りるとナディアは、さっそく布の切れ端と糊を渡されて、ペタペタとくっ付けていた。
「今日は残念だったね。みんな休みで」
「あ、いえ。大丈夫ですよ」
「まあ、座りなさい」
「はい」
「衛士長さんもかしら?」
「ああ。よろしく頼む」
「はいはい。じゃあ、針山と糸ね。さて、何を作りましょうかねぇ」
「あ、いろはねぇ」
「なんだ。桜もいたのか」
「まあ…。いろはねぇはどうしたの?」
「ここの講義を受けにきたんだ」
「ふぅん」
「ちょうどよかった、桜ちゃん。何か、いい案はない?」
「甚平か何かを作ってみてはどうでしょうか」
「そうねぇ。うん、そうしましょうか。じゃあ、桜ちゃん、布と型紙をお願い」
「はい」
軽く頷くと、桜はまた隅の方へ行って。
佳子の手伝いらしい。
やはり、裁縫の先生だからだろうか。
「桜ちゃんは、なんでも精力的に取り組んでくださるんですよ」
「そうか」
「それに、いつも衛士長さんの噂ばかりで」
「ふぅん」
「よっぽど好きなんでしょうね」
「どうだろうな」
まあ、桜のことだから、その噂というのは、私に対する愚痴なのかもしれない。
…でも、桜は私のことをどう思ってるんだろうな。
心の中を読めない限りは分からないんだろうけど、佳子の言う通りに思っていてくれてるなら、それは素直に嬉しい。
気になるところではあるが、他人の心の中なんてのは、分からない方が楽しい。
だから、これは想像に留めておくことにしよう。