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「見ろ、蝶々だ」
「そうだな」
「紅葉は、蝶々を捕まえたことはあるか?」
「あるよ」
「蝶々はな、羽根に粉が付いてるんだ。あれは何なんだ?」
「鱗粉だよ。鱗の粉と書くんだけど。あれで、雨や水を弾いているんだ」
「ふぅん…」
「まあ、だから、鱗粉を全部剥がすというような悪戯はしないことだな」
「………」
「…やったことがあるんだな?」
「な、ない…」
「まったく…」
澪は急に汗を掻き出して、翼を団扇代わりにしている。
…分かりやすいやつだな。
「鱗粉はちゃんと再生するものだけど、蝶々には欠かせないものだ。今更どうすることも出来ないだろうが、ちゃんと反省することだな」
「はい…」
「おかーさん、おかーさん!」
「なんだ」
「チョウチョ捕まえた!」
と、りるがバタバタと駆け込んでくる。
噂をすれば影というが、澪と蝶々の話をしてるときにこういうのが重なるのは、やはり運命的な何かがあるんだろうか。
りるは、両手で何かを包み込むように持って、私の隣に座る。
「見て見て」
「見てるよ」
「開けていい?」
「開けないと見えないだろ」
「うん」
頷いて、手を開く。
…でも、りるの手の中には蝶々はいなくて。
代わりに、カナブンがノロノロと歩いていた。
「りる。これは、蝶々じゃなくて、カナブンだ」
「カナブン?」
「蝶々というのは、あそこを飛んでるような虫だよ」
「あれもチョウチョ」
「…お前、虫全般を指して蝶々と言ってるんじゃないだろうな」
「チョウチョ」
「まあ、なんでもいいけど…。とにかく、これはカナブンという虫だ」
「カナブン」
「そうだ」
「じゃあ、澪にあげるね」
「えっ?」
りるはカナブンを澪の服に付けると、またどこかへ走っていってしまった。
しばらく呆然としていた澪は、ふと気が付くと、カナブンを取り、柵の上に乗せて。
「カナブンって、羽根が固いな」
「甲虫と言うんだ。まあ、カブトムシやクワガタムシと同じだな」
「ふぅん…」
「んーっ!」
「なんだ、今度は…」
ドタドタと、今度はアセナが走ってくる。
狼の姿で。
口に、何かを咥えている。
私の前まで来て座ると、それを目の前に置く。
「ひゃっ!」
「ムカデ!捕まえた!」
「お前な…。前に噛まれたんじゃないのか?」
「噛まれたよ?」
「い、紅葉!なんだ、この気持ち悪いのは!」
「まったく…」
澪の方へガサガサと歩いていく百足を捕まえて、適当に近くにあった箱に入れておく。
また逃がしに行かないといけないけど…。
「ね、ね!すごい?」
「そうだな…。でも、あんまり危険な虫には近寄るな。危ないから」
「ムカデ、危険なの?」
「噛まれて痛い思いをしたんだろ、まったく…。また風華の世話になることになるぞ」
「おっきい絆創膏貼ってくれるかな」
「かなりキツく染みる薬を塗ってもらうように言っておくぞ」
「えぇ…。染みるのイヤ…」
「じゃあ、もうやめることだな」
「むぅ…。楽しいのに…」
「もっと別の楽しいことを見つけろ」
「はぁい…」
すっかり肩を落として、トボトボと歩いていく。
でも、また何か思い付いたのか、嬉々として走っていって。
…蜂蜜取りとかじゃないだろうな。
まあ、風華に怪我の具合を聞けば分かることだろう。
「おかーさん、おかーさん」
「なんだ、りる。早かったな」
「階段のところにカナブンがいた」
「そうか」
りるは、また手を開いて見せてくれる。
でも、また期待した通りの虫はいなくて。
「りる。これはカナブンじゃなくて玉虫だ」
「タマムシ?」
「羽根の色が、玉…まあ、つまり、宝石みたいに綺麗だろ?だから、玉虫だ」
「ふぅん」
「玉虫はなかなか見られないからな。よく見つけたな」
「うん。じゃあ、澪にあげる」
「えっ、あ、ありがと…」
「えへへ」
りるはニッコリと笑って、また駆けていった。
澪はというと、またぼんやりとしていて。
「お前、何を呆けているんだ」
「えっ。えっと…」
「りるのことが気に入ったのか?」
「そういうわけじゃないけど…」
「そうか」
「………」
まあ、何かしら思うところがあるのは確実だろうな。
玉虫を、まだ柵の上にいたカナブンの横に並べて。
「…似てるんだ」
「何にだよ」
「前の主の、上の娘に。種族は違うけど」
「ふぅん」
「私を一番可愛がってくれたんだ。もちろん、他のみんなも可愛がってくれたけど」
「そうか」
「嫁いで家を出てからも、よく手紙を送ってくれたりして」
「お前、字が読めるのか?」
「奥方に少しずつ教えてもらってな。まあ、最初の頃は、読み聞かせてもらってたけど」
「ふぅん」
「主が死んで、家を出てからは、一度だけ挨拶のために会ったきりだった。今は何をしてるのか、消息も分からない。まあ、もうこの世にはいないだろうな。人の一生は短く儚い」
「………」
そして、寂しそうな笑顔を見せて。
…人はどうして関わり合うんだろうか。
一人孤独に生きていれば、こんなに寂しい思いをすることも、させることもないのに。
美希は、人間は群れる動物だと言っていたが。
「別れがあるということは、同じだけの出会いがある。それ以上の思い出がある」
「えっ…?」
「そうだろ?お前は、前の主や、関わり合いになった人たちを失ったかもしれないが、失ったもの以上に、得たものもあるだろう」
「でも…。主は、帰ってきてはくれない…」
「死ねば全てが終わるわけじゃないんだ。お前も言ってただろ。主は、今もお前と共にあるんだと。そうじゃないのか?」
「………」
「話すことも、触れることも出来ないかもしれない。だけど、確かに生き続けているんだよ。お前の心の中でな」
「生き続けている…」
「そう考えたら、寂しくないだろ?」
「だけど、それは考えでしかない…。主はやはり、死んでしまったんだ…」
「…お前がさっき寝ていたとき、美希が、ある話の中で、人間は群れる動物だと言っていた。じゃあ、なぜ群れるんだ?いつかは哀しい思いをすると分かっているのに」
「………」
「…生き続けるためだよ。群れることで、誰かと出会い、関わって、そして、いつかは別れる。でも、別れたとしても、誰かの中で生きている限り、その者は生き続ける。誰の記憶の中からもいなくなったとしても、子供、孫、あるいは、ずっと先の子孫の中で生き続けている。私たちが遺せるのは、記憶だけじゃないからな。私たちは、私たちに繋がる全ての人たちの、生きている証なんだ」
「………」
「…お前は、お前と繋がり、生きている人たちを、死なせてしまうのか?」
「………」
フルフルと首を横に振ると、私の腕にしがみついて。
そして、静かに泣いていた。
…そんな雰囲気で、入ってくるのが憚られるのか、りるとアセナが部屋の入口のところでウロウロしていたけど。
「紅葉…。主は、私の中で生き続けているのか…?」
「ああ。お前が、忘れてしまおうと思わない限りな」
「そんなの、忘れられない…。主と過ごした日々は…」
「そうだな」
それは、私たちが、本能的に生きてほしいと願うからかもしれない。
だから、忘れられない。
…柵の上で休んでいたカナブンは羽根を広げてどこかへ飛んでいき、玉虫はそっと空に想いを馳せているようだった。