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「師匠、すみません」
「何がだよ」
「起こしてしまった上に、ここまでついてきていただいて」
「ついてきたわけじゃないよ。さっきも言ったが、散歩だ。今日は目が冴えてるしな」
「そ、そうですか」
「…どうなんだ、道場では」
「はい。なかなか上達してきたように思います。師匠には、まだまだ足下にも及びませんが」
「そんなことないよ。まあ、精進することだな」
「はいっ」
私のゆったりとした歩幅に合わせて、一所懸命に小走りをしている小さな秋華を見ていると、なぜだか笑いが込み上げてくる。
せかせかと冬支度をする栗鼠に似ていると思った。
「あっ、ミケですよ、師匠!」
「ん?あぁ、そうだな」
「ミケ、ミケ」
「………」
塀の上を、ミケがのそのそと歩いていた。
そういえば、どこまでも続くこの塀は、六兵衛の屋敷のものだったと思い出して。
「小娘」
「えっ?」
「小生の名を気安く呼ぶでない」
「ご、ごめんなさい…」
「………。分かればよい」
「あ、あの…」
「なんだ」
「ミケが、喋っているのですか…?」
「私は腹話術人形ではない」
「で、ですよね…」
「猫が喋るのが、そんなに珍しいか」
「い、いえ。そんなこと…ありますが…」
「………」
ミケは、秋華の方にちゃんと向き直ると、どっしりと座って。
よく吟味するように、秋華を見つめる。
「…小娘。名は何と言う?」
「あ、あの…。秋華です…」
「ふむ。六兵衛がよく話している秋華か?近所の豪族の娘、だったか」
「は、はい…」
「面と向かって話すのは初めてだな」
「は、はい…。すみません…」
「…なるほどな。六兵衛が孫娘と同じように愛でるわけだ」
「えっ…?」
「ときに秋華。狐に取り憑かれているようだが。匂いがする」
「き、狐ですか?えっと…」
「祓っておいてやろうか」
「あっ、撫子ですっ。そうですっ。祓っちゃダメですよっ!」
「…ふむ。まあ、秋華がそう言うのであれば、仕方あるまい」
「………」
「秋華と紅葉はどういった関係なのだ?」
「えっと、師弟関係です」
「ほぅ。妖術師志願であるのか?」
「あ、いえ。今は、武士修行の真っ最中でして。妖術師は、師匠や他の方のお力に少しでもなれればと思い、つい先日なろうと決めたのですが、まだ撫子と一緒にやっていくと決まっただけでして…。あと、師匠は妖術師ではありません」
「妖術師で人助けか。人間は、相応しくない力を持つと頭に乗るものだが。どうだ。世界征服でも目論んでみないか。そこの紅葉と組めば、赤子の手を捻るように成し遂げられるぞ」
「あ、あの…。世界中の人たちを守れるほど、私の間合いは広くありません。私の周りにいる方々だけで精一杯です。世界中の人たちのお役に立てるのであれば、それは素敵なことではありますが、私には到底無理そうなので。師匠も、さすがに世界中は無理だと思いますし」
「ふむ…」
世界征服の意味を取り違えているな。
秋華のは、どちらかと言えば、世界貢献だろう。
まあ、秋華らしいと言えば秋華らしい。
「まあ、早起きはしてみるものだな。楽しい話が出来た。ありがとう、秋華」
「あ、いえ。どうもです」
「…秋華を贔屓するのもいいが、澪とも仲良くしてやってくれよ」
「ふん。鱗のある獣は好かん」
「ミケは、お魚さんは嫌いですか?」
「魚は、獣ではなく魚だからな。あれは別だ」
「は、はぁ…」
「それに、生意気な小僧も好かんな。ああいうガキどもは、小生のことを面白可笑しい玩具としてしか見ていない。関われば、この美しい毛並みを乱されたり、大事な尻尾を引っ張られたりするのが落ちだ」
「そ、そうなのですか…」
「ああ」
「澪なら、確かにやりかねないな」
「だから、関わり合いになるのは嫌なのだ」
「でも、あのとき何をしたのか知らないけど、あいつ、かなり怒ってたぞ」
「簡単な呪術を二つ掛けておいただけだ。掛けられたことに気付かない方が悪いだろう」
「まったく…。妖怪同士で歪み合わないでくれないか」
「小生は、自分のこの美しい姿を、自らの力で守っただけだ」
「自尊心が強いのは別にいいけどな、面倒なことだけはしてくれるな」
「ふむ」
「分かっているのか?」
「小生に説教をする気か。いい度胸だな」
「五月蝿い」
「うぐっ…」
「し、師匠…」
一発殴っておいてやる。
相手は塀の上だから、上手く力を込められなかったが、充分だろう。
「お前…。また小生を殴ったな…」
「生意気なことを言うからだ」
「こんな乱暴な人間は、レオナとアセナ以来だな…」
「そりゃどうも。二回目だし。口応えせずに、素直に頷いていればいいんだよ」
「澪に掛けたものよりも遥かに強力な呪いを掛けてやる…」
「まったく…」
澪の目で見ると、こちらにのろのろと何かが飛んできているのが見えた。
懐から紙を取り出してそれを受け止め、ミケの額に貼り付けてやる。
「なっ…。お前、札を扱えるのか…」
「いや。これは、秋華に貰ったものだ」
「わ、私ですか?…あっ、それって、もしかして、昨日の夜の落書きですか?」
「大和が、強力な封印が施されていると言ってたからな。お前は、どうやら、無意識に呪術を使っているらしい。しかも、かなり強力なものを」
「は、はぁ…」
「まあ、この前の式神にしても、今回の札にしても、随分と役立てさせてもらったよ」
「わ、私の落書きが、お役に立てましたか」
「ああ。秋華の目指す妖術師に、一歩前進だな」
「は、はいっ!ありがとうございますっ!」
「い、紅葉…。終わったのなら、これを剥がしてくれないか…」
「似合ってるぞ」
澪の場合は足だけだったが、こんどは全身が痺れるようにしたらしい。
ミケは、塀の上で身を強張らせて、小刻みに震えている。
「ご自慢の呪術とやらで剥がしたらどうなんだ」
「そんな術はない…!」
「そうか。残念だったな。秋華、稽古に遅れるから、もう行こうか」
「えっ、で、でも…」
「何か問題でもあるのか?」
「い、いえ…」
「そうか。じゃあ、行こう」
「は、はい…」
私が先へ進むと、秋華は一所懸命に背伸びをして、ミケの御札を剥がしていた。
それから、それを自分の懐に入れて。
…まあ、対抗手段はないとタカをくくっていたミケの完敗というところだな。
とりあえず、秋華の書いた御札はまだ数枚あるから、しばらくは大丈夫だろう。
塀の上でため息をついているミケに見送られながら、道場へと向かう。