417
月夜の廊下というのは新鮮だった。
今まで、あの赤い月の日以外は、絶対に見ることが出来なかったから。
澪の目は、意外なところで役に立ったな。
…ただ、澪の目しか見えないから、遠近感が掴めないのが難点だけど。
その辺は、長年住み慣れた城なんだから、なんとでも対処出来る。
まあ、そんなこんなで部屋に戻ると、翡翠が本来の姿で屋根縁のところに寝そべっていた。
ツカサは見当たらないが、さっき厠へ行くと言って廊下ですれ違ったから、翡翠の腹の中というわけではなさそうだ。
私も屋根縁に出て、夜風に当たることにする。
「…紅葉」
「なんだ」
「その目は何なんだ?」
「オレの目付きに不満があるのか」
「いや、そうじゃなくて…」
「冗談だ。この三つ目は、澪の目だ」
「澪?何、また新しいのが来たの?」
「お前も新しいのの一部に入るんだけど」
「まあ、それはそうかもしれないけど」
「そのうち来る。そのときに挨拶でもしておけ」
「ふぅん…」
「それよりだ。お前、ここに居座る気か?」
「えっ?まあ、川も近いし、料理も美味しいし」
「はぁ…。別にいいけどな…」
「お世話になります」
「ホントだよ…」
「えへへ」
「…ところで、お前、ツカサに変なお願いとかされてないか?」
「変なお願い?変なお願いねぇ…」
「されてないならいいんだ」
「されてないこともないかな。ほら、あれでしょ。食べてほしいとかいうの」
「そうだよ…」
「大丈夫大丈夫。空気がなくても息が出来る妖術とか、外部の害から完全に防護する妖術とか知ってるし。窒息も胃酸も心配ないよ」
「そういうことを吹き込んで、あいつの性癖を変に刺激しないでやってくれないか…」
「心配?」
「当たり前だろ」
「じゃあ、紅葉がまず体験してみればいいじゃないか。安全って確かめられれば安心だろ?それに、万が一の対策も万全だしさ」
「嫌だよ、喰われるなんて…」
「まあ、普通の人はそうだよね」
「何の話をしてるんだ?」
風呂から上がってきた澪が、屋根縁の入口に無防備に立っている。
…それを見て、即座に翡翠が何かを呟き始めた。
澪はそれに気付かず、こちらの方へ歩いてきて。
「やめておけ」
「実験だよ、実験」
「まったく…。どうなっても知らないからな」
「大丈夫大丈夫」
「……?」
翡翠の目が暗く光ったところで、澪が異常に気付いたらしく、足を止める。
そして、澪も何かを唱え始めて。
でも、遅かったのか、翡翠が動いたかと思うと、次の瞬間には澪の姿はどこにもなかった。
代わりに、翡翠の長い喉をゆっくりと何かが落ちていくのが見える。
「やっぱり、小さい子供は呑み込みやすいね」
「お前な…。どうなっても知らないぞ…」
「何か問題でも?」
「今のが、さっき言ってた、この目の持ち主だよ…」
「へぇ…。それは、ちょっと不味いかもね…」
そう言いながら、自分の腹を見ていた翡翠だったが、急に目を見開いてこちらを見る。
何か言おうと口を開くが、声が出なくて。
そして、ゆっくりと白い鱗が黒くなっていき、身体も大きくなっていく。
どうも、澪の姿に…いや、澪になっているようだった。
凛に褒めてもらった翡翠色の目が蜻蛉玉のような青い色に変わり、最後に額の金色の目が開くと、完全に澪になってしまって。
…喰ったと思ったら喰われてた、というのは、こういうことなんだな。
「…なんだ、今のやつは」
「吐き出してやれ。翡翠という、この城に一緒に住んでいる龍だ」
「いきなり攻撃してきたんだぞ?危険なやつは、さっさと始末しておくべきだ」
「手荒い歓迎だと思って見逃してやれ」
「ううむ…」
腹と私の顔を見比べていた澪だったが、困ったような表情を浮かべると、何回か咳き込んで、翡翠を吐き出した。
翡翠は人間の姿になっていて、でも、胃酸等は全く掛かっておらず、息も上がっていない。
「ほら、大丈夫だったでしょ。まさか実演することになるとは思わなかったけど」
「無茶をするなよ、まったく…」
「いやぁ、油断した油断した。チビっこたちの一人だと思ってたら、本物の龍だったなんて」
「本当にチビたちの誰かなら、たとえ安全でも絶対に阻止する」
「まあ、そうだろうね。…目が本気で怖いからやめて。睨み殺される」
「まったく…。二度とこんなことはするな」
「はぁい。でも、せっかくなら、力の抑制の妖術も掛けておくべきだったね」
「…紅葉。やっぱり、こいつ、喰ってもいいか?」
「やめておけ、澪。おそらく力では互角だから、より感情に流されず、知識や手札の多い翡翠が有利だ。今度は、お前が喰われる番だぞ」
「ふん。こいつに劣るなんて有り得ない」
「挑発をするな。ミケのときもそうだったが、お前は頭に血が上りやすいんだな」
「侵食なんて、小物妖怪じゃあるまいし、対策さえしておけば喰らわないんだよ。なまじ力を持っているから、調子に乗りやすいんだな」
「挑発するなというのが分からないのか。お前の方が少しは大人かと思ったが、澪と同等なんだな。オレの買い被りだったようだ」
「うっ…」
「バーカ」
「なんだと」
「騒がしいぞ。しばらく黙っていろ、翡翠、澪」
「なっ…。大和か…!」
「……!」
「まったく…」
屋根にでも登っていたんだろうか、大和が上から降りてきて。
翡翠は人間の姿のままだけど、龍の姿の澪と大和が屋根縁に集うだけでも、かなり狭苦しい。
…というか、大和と澪は初対面のはずだけど、名前を知っているということは、話を聞いていたんだろうか。
「狭いな。さっきの人間の姿に変化しろ、澪」
「うっ…」
さっきから、これは言霊というやつなんだろうか。
澪は仮名だと思っていたが、大和が命じた通りに身体がどんどん小さくなっていって、チビっこの姿に戻る。
何か文句を言おうと口をパクパクさせているが、さっきの言霊のせいか、声に出ないらしい。
悔しそうに地団駄を踏んでいる。
「む、紅葉。半日見ないうちに、何かいろいろと妖術が掛けられているな」
「澪が掛けたんだよ。オレは、どんな術かは知らないが」
「防護に反射、剛力、再生…。およそ人間とは思えない能力が備わっているな。物理的な攻撃は全てを無効化し、術での攻撃も跳ね返す。力を奮えば何万馬力と発揮し、万が一四肢が吹き飛ぶようなことがあったとしても、蜥蜴のように再生出来る。無駄がかなり多いが、それでも充分、人間が相手なら無敵だぞ」
「おいおい…。そんなものは必要ないし、解いておいてくれよ…。澪も、あんまり余計な術は掛けてくれるな…」
「まあ、今、粗方解いておいたが。焼尽…炎を発し、全てを焼き尽くす術は要らないのか?」
「いつ使うんだ、そんなもの」
「そうだな。竈に火を入れるときにでも。何、お前なら、すぐに制御出来るようになる」
「要らない」
「ふむ。では、瀑布…大水を引き起こし、全てを洗い流す術はどうだ」
「いつ使うんだよ…」
「洗濯のときとかにだな。あと、風呂を入れるときに、水を汲んでこなくてもよくなる。おぉ、そうだ。焼尽と合わせれば、どこでも風呂に入れるぞ」
「要らない」
「ふむ。澪の姿に変化出来る妖術はどうだ。気に入らないやつを一呑みにしたりだな」
「要らないよ…」
「………」
「そうか」
どんどん術を解かれてしまって、澪はかなり気を落としてしまったようだ。
特に、変化のときに。
イチオシだったんだろうか。
隅の方でいじけている。
…まったく、仕方ないな。
「他にはないのか」
「そうだな。あとは、その目と砂塵と零下だけだな」
「…なんかよく分からんが、それは残しておいてくれ」
「なるほどな。砂塵も零下も、便利な術だ」
「それは知らないけど…」
僅か三つではあるが、残すと聞いて、幾分気を取り戻したみたいだった。
私の方へ走ってきて、嬉しそうな顔で横へ座る。
「はぁ、やっと喋られる…。まったく、仮名で言霊を使えるなんて、やっぱり化物だな…」
「お前たちが未熟なだけだろう」
「………」
「砂塵と零下は、しっかりと組み直しておいた。まったく、術の組み方も順番も全くなっていないな。これでは、紅葉に負担を掛ける一方で、ほとんど力も発揮出来ないぞ」
「ごめんなさい…」
「分かればよいのだ。また今度、ゆっくりと教えてやろう」
「うん。ありがと」
「なんだよ、大和相手には急にしおらしくなってさ」
「お前と違って、大和からは紅葉の気配がする。紅葉に仕える者なら、信頼出来る」
「ふん」
翡翠はもう一度澪を睨み付けると、部屋へと戻っていった。
まったく…。
いきなり敵対関係を作ってくれるなよな…。
まあ、表面上は血気盛んな若者同士歪みあってるが、芯のところではちゃんとしようという雰囲気が感じられる気がする。
一緒にここに住む以上、嫌でもちゃんとしてもらうが。
「さて。改めて、初めましてだな、澪」
「初めまして、大和」
「あいつや撫子と共に、将来有望な若者だな」
「そ、そうかな…」
「まあ、精進しなさい」
「はい」
大和と話している様子を見ていると、澪もやっぱり子供なんだなと思えてくる。
掛けてくれていた術の数々も、たぶん、一所懸命に掛けてくれたものなんだろう。
そう考えると、よりいっそう可愛くなってきて。
頭を撫でてやると、無邪気な笑顔を見せてくれた。