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一刻ほど寝たか、スッキリした面持ちで澪はまた縁側に腰掛けて、楽しそうに足をブラブラさせたりなんかしている。
と、廊下の向こうの方から、ノシノシと貫禄たっぷりに歩いてくる猫が一匹。
「紅葉、見ろ。三毛猫だ」
「そうだな」
「あれは、うちで飼っている猫です。雄なんですよ」
「ほぅ。珍しいな」
「いつぞやの頃から、ここに住み着いたのです。野良だったようなんですが、今ではすっかり家猫で。外に出るといっても、たまに庭を散歩してるくらいですかね。お陰さまで、鼠やゴキブリといったようなものを見掛けたことがありませんが、まあ、屋根裏の闘いで手に入れた戦利品を見せにくることもありますねぇ」
「そうか」
「来い、来い」
澪が手招きをすると、そちらをチラリとだけ見て、無視を決め込む。
そのまま、ノシノシと澪の後ろを通り過ぎて。
「おい」
「無視されているな」
「警戒してるのでしょう。結構人見知りですから」
「ふぅん」
「なんで来ないんだ」
「さあな」
後ろを通る猫の背を撫でる。
しかし、驚く様子も嫌がる様子もなく、なんとも澄ました顔でこちらを見て。
「小生に触れるのはよいが、まずは名を名乗れ」
「ん?まあ、そうだな。オレは紅葉だ。しかし、驚いたな。話せるのか、お前も」
「衛士長さんも、声が聞こえますか?レオナやアセナもそうなんですが、この猫はどうやら、人間の言葉が話せるようで。私には、猫の鳴き声しか聞こえないのですが」
「一部の人間にしか聞こえてないのか」
「力の弱い者と言葉を交わす気はない」
「そうかよ…」
「紅葉、私も触っていいか?」
「ふん。お前に触れられては、龍の鱗の匂いが付いてしまうではないか」
「むっ。生意気な猫だ。私とやる気か?」
「座敷わらしとはいえ、お前のような若造に遅れを取るような小生ではない。やるというのなら、受けて立とうではないか」
「なんだと!」
「…お前ら、下らない争いをするな」
「いたっ!」「ううむ…」
二人の頭を殴っておく。
…どうやらこいつも、猫又か何か、そういった妖怪の類らしいな。
ただ、自尊心が強いというか、そのあたりはしっかり猫のようだった。
「小生を殴ったのは、レオナとアセナに続いて三人目だ…。末代まで祟ってやるぞ…」
「下らないことを言ってるんじゃない」
「ははは。私も、この子の声を聞いてみたいものですなぁ。どうですか。この子はなかなかに我が強いでしょう」
「そうだな」
「………」
「まあ、話せなくともいいかもしれませんね。その方が、想像の幅も広がるというものです」
「そうかもしれないな」
「…用がないのであれば、もう行くぞ」
「私にも触らせろ、バカ猫!」
「バカにバカ呼ばわりされる謂われはないのでな」
「なんだと!」
「ふん」
バカにしたような目で澪を一瞥すると、クルリと背を向けて、またノシノシと歩いていった。
澪は興奮した様子で、何か呪詛か呪文のような言葉をブツブツと唱えていたが、あいつに何かをされたのだろう、どうも不発に終わってばかりのようだ。
そして、次は実力行使に出ようと立ち上がろうとしているのだけど、尻に根でも張っているのか、どれだけ踏ん張っても立ち上がれないようだった。
…術の扱いに関しては、あいつの方が遥かに上のようだな。
一人で奮闘している澪のことなど完璧に無視して、居間へと入っていった。
「あの猫は、なんて名前なんだ?」
「ミケです。まあ、そのままなんですが」
「分かりやすくていいな」
「そうかもしれません」
「紅葉!これ、なんとかしてくれ!」
「オレに言われても…」
「何かありましたか?」
「いや、なんでもない」
「そうですか」
なんとかしてくれと言われても、どうしようもないと思ったけど、少し持ち上げてやると簡単に根は抜けたようだった。
そもそも、根など張っていない。
澪を立たせてみると、足腰に力が入らないのか、そのままヘナヘナと座り込んでしまった。
それをまた抱き上げて、縁側に座らせる。
「うぅ…。あのバカ猫め…」
「どうされました?」
「いや、なんでもない。ちょっと足が痺れたようだな」
「それは大変ですね。まあ、痺れが取れるまで動かない方がいいでしょう」
「そうだな」
本当に痺れているのかどうかは分からないけど、立てない状態なのは確かだな。
何を言ったところで、今は負け犬の遠吠えでしかない。
座敷わらしの強大な力も、歳の功には勝てないということか。
「…日もずいぶん傾いてきましたな」
「そうだな。結局、話もあまり聞けなくて申し訳ない」
「いえいえ。一番言いたいことは言えましたし、それに、子供たちの元気な姿も見られて嬉しかったですよ」
「そうか」
「お夕飯はどうしますか?用意させますが」
「いや、帰って食べるよ」
「そうですか。お城の板前さんは、腕利きばかりでしょうな」
「まあな。でも、ここの昼も美味かったぞ」
「ありがとうございます。与助もきっと喜びますよ」
「与助が作ってるのか?」
「今日はそうです。二、三人で交代して作ってくれているのですが」
「ふぅん」
「与助も、久しぶりに腕を奮ったようです」
それから、ニッコリと笑って。
与助の作る料理に、主人として誇りを持っているんだろう。
手前味噌と思われるかもしれないが、上に立つ者が部下を誇りに思わないで誰が思うんだということになる。
それは、私も同じことだ。
「バカ猫め…」
「おい、どこに行くんだ」
「うぅ…」
「正座なんかをして足が痺れたとき、きついと分かってはいても、あのビリビリとした感触がなんとも言い難くて、よく触ったりしてしまうんです。そんなことはないですか?」
「ん?まあ、分からんでもないな。こら、こっちに来い」
「むぅ…」
這いずっていこうとする澪を捕まえて、膝の上に乗せておく。
足を突つくと苦悶の表情を浮かべているから、確かに足が痺れているようだった。
…まあ、ミケには逆らうなということだ。
普通の猫の姿しか見ていないが、おそらく、大和並みの老妖怪なんだろう。
あの自信も、決してハッタリなんかではなく。
「そうしていると、まるで本当の姉妹のようですね」
「翼が邪魔だけどな」
「まあ、龍ですから、仕方のないことです」
「それはそうだけど」
邪魔だと言ったのを気にしたのか、翼を背中にピッタリとくっ付けるようにして折り畳む。
…だいぶ抱き締めやすくなったな。
華奢な身体は、羽毛のように軽かった。
「しかし、黒龍は獣龍の種族のはずですが、鱗龍の種族もいたのですね。この歳になって、初めての発見です。他の龍にも言えることなんでしょうか…」
「さあな。でも、黒龍だけ例外とは考えにくいだろ。他の龍もそうだと考えるべきだろうな」
「そうですね。どうやら、更なる研究が必要なようです」
「研究結果を、またあの図鑑に継ぎ足していってくれ」
「ははは。全くその通りですな」
六兵衛は子供のように無邪気に笑うと、もう一度、日の沈む方に目を向ける。
その横顔に夕日の影が落ちて、なんとも哀愁が漂うかんじだったが、ふと、一瞬だけ、少年の面影が見えたような気がした。
桜の木の下で遊ぶ、祐輔とテュルクのような。
…少年のように何かを追い求める心は、歳を取った今も失っていないということだろう。
老いてなお、そのような心を持ち続けるのは難しい。
私は持っているんだろうか。
失いたくないな。