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「美味いな、これは!すごく美味しい!」
「もっと落ち着いて食えよ」
「お姉ちゃん、何なの、この人。しかも、私、今日非番なんだけど」
「そうか」
「はぁ…。大会の料理も考えないといけないのに…」
「まだ考えてなかったのかよ。ていうか、いつなんだ」
「前日になったら分かるよ」
「どういうことだよ」
「通知が来るんだよ。明日ですよって。そしたら、余計な小細工は出来ないでしょ?持参品は調理道具だけで、大会の制限時間には材料調達の時間も含まれてるって決まりはあるけどさ」
「ふぅん…。手紙が届かなかったらどうするんだよ」
「郵便とか飛脚じゃなくて、ルイカミナの本部から直接の速便で来るんだよ。それで、受け取りましたって署名をして。そしたら、帰ってこなかったり、渡してなかったりしたら、すぐに分かるでしょ」
「お前は、なんでそれを知ってるんだ?」
「その決まりだけは、予選通過者を集めて説明してたんだ、この前に」
「ふぅん…。面倒なことをするんだな」
「公平な競技をする上では大切なことなんでしょ。私も面倒くさいとは思うけどさ」
「人間って競い合うのが好きだね」
「えっ?何?」
「灯の料理はすごく美味い。な、凛」
「ん?なんだ、こーりゅーがわ」
「なんでもないよ。…それじゃ、ダメなのか?」
「ダメじゃないかもだけど、自分の料理の腕が他の誰よりも上だったら自信になるし、他の誰かが自分よりも上だったら腕をさらにあげようと努力する気になるでしょ。単純に順位を決めて一喜一憂するだけだったら、それは何の意味もないことだろうけど」
「そうかな。僕は、美味しいものを食べられたら、それで幸せだよ。一人一人、みんな違うんだから、誰の料理が一番かなんて決められない。そりゃ個人での美味い不味いはあるだろうけど、それでその人を推し量ろうなんてのは到底無理だと思う」
「練磨しないなら、翡翠だって屑石と変わらないんだよ。そういう指標や目標を持って、さらに前へ進まないと、いつまでも自己満足の領域で足踏みしてるってことになる。美味しいって言ってくれるのは嬉しいけどね、私は、その料理が私の全てだとは思いたくない」
「なるほど、努力者だね」
「全然努力者なんかじゃないよ。今の自分に満足出来てないだけ」
「僕は、灯の料理は好きだけどなぁ」
「ありがと」
翡翠は、だし巻きを口に入れて、味わうようにゆっくりと咀嚼する。
ときどき、凛が嫌いな玉ねぎを翡翠の皿に移してるけど、そんなのは気にしないで。
「やっぱり美味しいのになぁ。分からないよ。一番になりたいものなのか?」
「翡翠だって、私より美味しい料理を作る人がいたら、私のなんかより、その人の料理を食べたいって思うでしょ?」
「どうかな。今までいくらか人間の美味しい料理は食べたことがあるけど、そのどれにも優劣なんてつけられないよ。どういうのが美味しくて、どういうのが不味いっていう物差しがあるわけじゃないだろ?」
「そうだけどさぁ…」
「一番になることも大切だろうけど、それよりも大切なのは、そこで何を学ぶかということだろ。自分の長所や短所、自分に足りていない部分、知らなかったこと。料理大会ってのは、誰が一番なのかを決めるだけじゃなくて、お互いがお互いから何かを学んで、切磋琢磨し合う場なんだろ。まあ、それは料理大会に限ったことではないだろうけど」
「切磋琢磨し合う、ねぇ」
「そうだな」
「大会が終わったら、私の料理も一段と美味しくなってるかもね」
「ははは。それは楽しみだな」
「…ところで、翡翠」
「ん?」
「さっき、ところどころで人間がどうとか言ってたのは何なの?」
「翡翠は妖怪だ。それも、飛びっきり強力な」
「えっ?」
「買い被りすぎだよ。大和の方が力は強いし、その大和だって紅葉には負けるだろうし」
「えっ。お姉ちゃんって、やっぱり怪物だったんだ…」
「おい。信じるなよ」
「ていうか、妖怪?最近、朝に枕元にお母さんの幽霊が立つようになって、早起きもしないといけないとだし、ただでさえ大変だってのに!」
「早起きに妖怪は関係ないだろ。しかし、母さん、ちゃんと起こしてたんだな」
「お姉ちゃんがけしかけてたの?やめてよ!本当に睡眠不足なんだから!」
「早寝早起き。いいことだ」
「もう…。とりあえず、翡翠が何だろうと、お姉ちゃんが何だろうと、驚かなくなっちゃったよ。心臓に毛が生えちゃったよ、誰かさんのせいで!」
「よかったな。ちなみに、翡翠の本当の姿は、セトよりさらにひとつ半くらい大きい龍だ」
「えぇ…。今はツカサくらいじゃん…」
「変化しているんだ。美味しいごはんをご馳走してくれた灯になら、特別に姿を見せてもいいけど、ここじゃ狭すぎるし」
「いいよ、別に…。セトよりも大きいって、なんか食べられちゃいそうでイヤだ…」
「灯は気に入ったから食べないよ。灯の気に入らない人間を食べてあげてもいいけど」
「はぁ…。別にいいよ…」
「そう?残念」
「残念ってね…。人間って美味しいわけ?」
「妖力の強い人間は美味しいよ。紅葉とか、すごく美味しいんじゃないかな。でも、僕はもとの姿のときは大概丸呑みにしちゃうから、あんまり分からないで食べてるかな」
「えぇ…。蛇みたい…」
「んー、そうだね。蛇みたいに絞めることはあんまりないけど」
「じゃあ、生きたまま消化されるの?イヤだな…」
「窒息する方が早いだろ」
「そういう意味じゃないよ…」
「そういえば、大和は食は不浄だとか言ってたけど、お前はどうなんだよ」
「えぇ?まあ、食べないと生きていけないしね。不浄だとは思わないよ」
「ふぅん…」
「あぁ、大きな獲物は、絞めて骨を砕いておかないとつっかえるかな。そこは蛇と同じかも」
「…誰も聞いてないけどな」
「えぇ…。灯は聞いてたよね?」
「お腹の中で暴れたりしないの?」
「してるときもあるけど、食べちゃったものは仕方ないじゃない。しばらくしたら静かになるし。ていうか、僕の質問は…」
「私のお腹の中で、食べたものが暴れてたらイヤだなぁ…」
「………」
「な、聞いてないだろ」
「うぅ…」
灯は、自分の腹をさすって、暴れるのを感じられるほど大きな獲物を丸呑みにするという、まず有り得ない妄想をして嫌な顔をしている。
その隣で、凛が黙々と玉ねぎを翡翠の皿に移す作業をしていて。
…おかしな内容の話はしているが、これはこれで、いつもの厨房の風景のように思える。
それが、なんだか不思議に感じて。
でも、この不思議が、日常なのかもしれないと思う。