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「撫子、ごはんですよ」
「………」
「いいですよ、そんなの。私も好きでやってるんですし」
「………」
撫子は少し恥ずかしそうに笑う。
そして、布団からゆっくりと起き上がると、後ろの大和を背もたれにして座る。
「大丈夫ですか、撫子?」
「………」
「そうですか。では、あーんしてください」
「……!」
「どうしたんですか?」
「……!」
顔を真っ赤にさせて、手をパタパタさせている。
…恥ずかしいから、自分で食べるということだろう。
でも、こういうことにはとんと疎い秋華は、首を傾げるばかりで。
「撫子。好き嫌いはいけませんよ。弱っているときこそ、しっかり栄養を取らないと」
「……!」
「お粥が嫌いな人なんて初めて見ました。ダメですよ。美希さんに特別に作っていただいたんです。食べてもらいますよ」
「……!」
「力が弱くなると声が出なくなるとは不便だな、撫子よ」
「……!」
後ろの大和に肘鉄砲をかましたりするが、まったく効いていないようだ。
むしろ、秋華の方へ押しやられている。
「せっかくお粥を作ってもらったのに、美希さんに申し訳ないです…。ね、撫子。一口だけでも、食べてくれませんか?」
「………」
「恥ずかしがらずに食べてやれ。どうせ、今のお前の姿なぞ、ほとんどの人間には見えていないのだからな」
「……!」
「まあ、確かに、ここにいる者には見えているだろうが。もはや、そんなことを気にする仲でもないだろうに」
「……!」
「私が、妖術でもなんでも使って、口をこじ開けてやってもよいのだが?」
「………」
「早くしないと、みんなここに帰ってくるぞ?」
「………」
「わっ、なんだ、これ。毛皮?」
「ほれ、帰ってきた」
「うわっ!毛皮が喋った!」
「ツカサ。とりあえず、こっちに来い」
「あ、姉さん。やっぱりここにいたんだ。ちょっと待って…」
入口を塞ぐ形になっていた大和の横から回ってきて、ツカサが姿を見せる。
物珍しそうに大和を観察していて、途中で目が合ってかなり驚いたようだ。
「な、何?」
「妖怪だ。大噛みっていう」
「狼…?そんな妖怪いるんだ…」
「ツカサよ」
「は、はいっ!」
「そう固くなるな。…お前は、ここにいる者が見えるか?」
「えっ…?秋華と、誰…?」
「ふむ…。見えるのか…。それでは意味がないな…」
「ツカサは、幽霊の声までだったら聞こえるらしい。妖怪なら姿も見えるのかもな」
「ふむ。まあ、妖怪は幽霊よりははっきりした存在だから、幽霊の声が聞こえるのであれば、ある程度は見えるだろうな」
「それにしても、大きいなぁ…」
「ふふふ。お前を一呑みにしてやろうか?」
大きく口を開けて、ツカサの目の前まで迫る。
しかし、ツカサは全く動じることもなく、鋭い歯を触ったりなんかしていて。
「…何をしているのだ」
「格好いいなって思って」
「お前は、捕食者に対する恐怖をもっと知るべきであるな」
「捕食者は、獲物を目の前にして、一呑みにしてやろうかなんて言わないよ。瞬時に捕縛するか、断末魔を上げる隙も与えずに胃袋へ入れてしまうか。それに、こんな風に目の前で止まってくれることもない」
「それはどうかな」
大和はもう少し首を伸ばして、ツカサを咥える。
それから、完全に口内へ入れ、そのまま嚥下して腹に収めてしまった。
「あっ!ツ、ツカサさん!」
「………」
「や、大和さんっ!すぐに吐き出してくださいっ!」
「………」
「大和さんっ!」
秋華はお粥の器を置いて素早く立ち上がり、大和の腹に掌底を加える。
…私は、当たる寸前でその手を止めて。
まったく、手間の掛かるやつらだ。
「師匠!ツカサさんが食べられちゃったんですよっ!」
「そうだな」
「そうだなって、師匠っ!」
「でもな、秋華。お前の掌底を喰らえば、確かにツカサを吐き出させることも出来るだろうが、大和も撫子の横でお粥を食べることになるぞ」
「し、しかし…」
「大和。お前も、悪ふざけはいいが、あまり秋華を驚かせてやるな。秋華の性格くらい、この半日で充分に分かってるだろ?」
「…そうだな。悪かった」
大和はチラリと秋華の方を見てから、何回か咳き込み、ツカサを吐き出した。
体液だらけになったツカサは、多少苦しそうに深呼吸をしていたりもしていたが、すぐにケロリとした顔をしていて。
秋華が駆け寄り、心配そうに様子を窺う。
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫。俺、結構息長いし」
「意味は分かりませんが、よかったです…」
「あーあ、ベタベタだよ。みんなが帰ってくる前に片付けておかないと」
「…本当に肝が据わっているのだな、ツカサは。多少なりとも抵抗するかと思ったが」
「喰われてから抵抗したって意味ないだろ。腹の中で暴れてどうするんだよ。それで下痢でも起こして出してくれるのか?」
「それはないと思うが…」
「それに、丸呑みされるなんて貴重な体験も出来たし。俺は満足だよ」
「ツカサさんっ!私は、すごく心配したのですよっ!」
「あはは、そっか。ごめんな」
「もう…」
「でも、俺は信じてたしさ。姉さんが信じてるんだから、こいつは信じられるって分かってたし。まあ、あのまま消化されても悪くないなって思ったりもしたけど」
「何言ってるんですかっ!消化されたら、死んじゃうんですよっ!」
「生きるってそういうことだろ?誰かの生を、自分の生の中に取り込んで。そしたら、その誰かは自分の中で生きていて。そんな輪の中に、自分も入ってるんだって思えたから」
「全然意味が分かりませんっ!とにかく、もう絶対にあんなことはしないでくださいっ!これ、手拭いですっ!」
「ん、ありがと」
秋華から手拭いを受け取ると、それで身体を拭いていく。
その間も、秋華は小言を続けていて。
…ふと、横を見てみれば、撫子はすでにお粥を全部食べてしまっていた。
何か喉のところを触って首を傾げているが、声は戻ったんだろうか。
とりあえず、今のことについては、全く無関心を決め込んでいるようだ。
「…まったく、あいつの神経はどうなっているのだ」
「さあな」
「腹の中であんなことを考える人間なぞ、見たことがない。百戦錬磨の兵と名乗る者を昔に喰ったことがあるが、さっきのように口を開いて見せただけでさえ、赤子のように泣き叫んだものだが。まあ、それが余計に捕食者としての嗜虐心を擽るのだがな。じっくりといたぶって、楽しみながら喰ってやったものだ」
「お前の性癖なんて知らないけどな」
「でも、ツカサは違った。仏教でいうところの悟りを開いてるのではないか、あいつは」
「ふん。そんな大層なものじゃないだろうよ。幼子のような好奇心を、今も持ち合わせてるんだろう。それでいて、大人の聡明さも持っている。だから、食べられたらどうなるんだろう、このまま消化されたらどうなるんだろう…と、純粋に楽しむことが出来る」
「なるほどな」
「…しかし、お前は人間を喰い慣れているんだな」
「言ったであろう。力も持たぬ愚か者は、即座に喰ってしまうと。山奥には、そういう輩がよく入ってくるのだよ。腕試しとか言って、封印の式だけは強力なのを持ってきてな」
「ふぅん」
「ただ、そういうやつらは、決まって吐き出したくなるくらいに不味いのだ。しかし、ツカサは非常に美味であった。あの味は久々だ。本当に、幽霊の声までしか感じ取れないのか?」
「ツカサによればな」
「そうか。そういうこともあるか」
「はぁ…。まったく…」
「私が怖くなったか?」
「むしろ想像通りで安心したよ。今のは、そんなことを自慢気に話すお前に呆れただけだ」
「食は不浄。しかも、身勝手な理由で殺生を働いているのだからな」
「そうだな」
「普段ならば嫌厭するところではあるが、なぜだろうな、紅葉になら話してもいいように思ってしまうのだよ」
「…そうか」
大和の首元を掻いてやると、気持ち良さそうに目を細めて。
なぜだろうか、私も、大和のそんな話を聞いても、腹の中に今まで何十、何百人と収めてきたとしても、それが大和なんだと受け止められる。
不思議ではあったが、不思議ではなかった。
…秋華の説教はまだ続いていたが、ツカサはいつの間にか綺麗さっぱりになっていて、布団を敷き始めていた。
撫子はもうぐっすりと眠っている。
「…寝る準備をしようか」
「そうだな」
妖怪で始まった一日は、そのまま妖怪で幕を閉じようとしている。
母さんはあれきり出てこなかったけど。
今日ほど異質な日は、もうしばらくないだろうな。
…いや、毎日が異質なものか。
同じ一日なんてないんだからな。