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「だから、何なの、それ」
「式神だと言ってるだろ」
「意味が分からないよ」
「式神は式神だ。妖怪やそういう類のものを封じて使役させるものだ」
「妖怪?もう…。姉ちゃん、またそんなこと言って…」
「ほら、お前の肩に…」
「えっ!な、何っ!」
「カナブンが」
「な、なんだ…。ビックリさせないでよ…」
風華は、カナブンを摘まんで地面に置いて。
それから、またため息をつく。
「変な紙~」
「粗末に扱うなよ、りる。その紙に、妖怪が封じられてるからな」
「どんな妖怪?」
「さあな。強力な封印だけど、封じられてる妖怪が強力とは限らないし」
「出したり出来ないの?」
「まあ、出来るだろうな」
「ふぅん…」
「出さないの?」
「出してほしいのか?」
「えっ?うーん…」
「まあ、見ておく必要はあるだろうしな」
「えぇ…。やっぱりやめようよ…」
「出てきても害を加えることはないだろうし、たぶんお前には見えないんだからいいじゃないか。確認するだけだよ」
「えぇ…」
「………」
例の妖怪とも幽霊ともつかない女の子も、りるが持ってる式神を、横から興味津々といった風に覗き込んでいる。
…自分が封じられる可能性もあったんだけどな。
女の子に話し掛けるりるを、見えない風華は訝しげに見ていて。
「姉ちゃん。まだ何かいるの?」
「何かって何だよ」
「だって、りる、独り言言ってるよね?」
「いや。まあ、会話はしていないが」
「やっぱり、何かいるんじゃない!」
「大声を出すな。言っただろ。害はない」
「怖いじゃない…。自分に見えない何かが近くにいるなんて…」
「そういうものだよ。世の中は分からないことだらけだ」
「姉ちゃんが言うと、変に現実味を帯びて嫌なんだけど…」
「まあ、そういうわけで、りる。ちょっと呼び出してみろ」
「えっ!ホントにやるの?」
「妖怪もこんな狭いところに閉じ込められてたら嫌だろ」
「で、でもさぁ…」
「どうやって、出してあげるの?」
「ん?さあな。オレは封術師でも祓い人でもないし」
「………」
「あ、やってくれるの?」
「わっ!式神が浮いた!」
「しばらく黙ってろ、風華は…」
女の子は、りるから式神を受け取ると、式神を縦になぞるようにして、それから何かを唱えるように口を動かす。
でも、声は出ていない。
一番下までなぞり終えると、またりるに渡して。
「うん、分かった。りるがやるんだね」
「………」
「なんて言うの?」
「………」
女の子は指で地面をなぞって、何かの文章を書いていく。
文章といってもたった一行だし、ごく簡単なものだったけど。
…地面に勝手に書かれる文章を見て、風華はすっかり畏縮して固まってしまっている。
「お母さん、なんて読むの?」
「我が呼び掛けに応えたまえ」
「我が呼び掛けに応えたまえ?」
「そうだ。ほら、やってみろ」
「うん。…我が呼び掛けに応えたまえ」
さっき女の子がやってたように、式神を縦になぞりながら、呪文らしきものを唱える。
最後までなぞり終えると、式神の紙が上の方からなぞった通りに破けていって。
一番下まで破けると、何かが破裂したような音がして、紙が舞い上がる。
「な、何か出た…?」
「ああ、出たな」
「ど、どこに…?」
「お前の後ろだ」
「ま、また姉ちゃんは…」
「疑うなら見てみろよ。見えるかどうかは分からないけど」
「………」
ゆっくりと後ろを振り返る。
そして、最後まで振り返ると、そこで固まってしまって。
…風華の後ろに出たのは、ところどころに隈取りのような模様が見られる、犬や狼に似た白くてかなり大きい妖怪だった。
「お前にも見えるのか。やっぱり、相当な力を持つ妖怪のようだな」
「………」
「ふむ、参ったな。私としたことが。少し油断した隙に封印されてしまった。もう歳だということだろうか…」
「とりあえず、お前の名前を聞いておこうか」
「ん?封印を施したのは御主か?」
「いや。オレの弟子だが。厄除けの人形を作ったつもりが、式神を作ってしまったらしい」
「ふむ。才のある者のようだな。好きだよ、そういうおっちょこちょいなのは。しかし、名義人は御主のようだが」
「九十九神の話をしたら、心配してオレのために作ってくれたんだよ」
「九十九神?あのような小さき者のために、厄除けを作ったと?御主は、どんな出任せを吹き込んだのだ?」
「持ち主に厄が迫ったときに、それを報せるために走り回るとか」
「なるほど。人間がよく言っている話だな」
「実際のところは知らないと言っておいたんだが、どうしてもと言ってな」
「そうか。まあ、事情と弟子の純粋さは分かった。それで、名前だったな。さすがに、才ある者を弟子に取るだけのことはある。御主は妖怪の扱いに慣れているようだ」
「小さい頃からずっと見えてたからな」
「ほぅ」
「ただ、そっちのやつは、妖怪を見るのはお前が初めてらしいから、丁重にな」
「ふむ…。そうか。悪いことをしたな。どうやら私の妖気に当てられてしまったようだ。金縛りを起こしている」
「解いてやれよ」
「言われなくとも、もうやっとるよ」
大妖怪の漆黒の目が赤く光ったかと思うと、風華はそのまま尻餅をついて。
それからすぐに体勢を立て直して、私の後ろまで大慌てで逃げてくる。
「な、何あれ…!」
「かなり強力な妖怪だろうな。貫禄といい、発する妖気といい」
「こ、こんなのが、周りにたくさんいるの…?」
「こいつみたいなやつは極々稀だよ。ほとんどは、なんでもない小さいやつらばかりだ」
「うぅ…。それも嫌だな…」
「何も害はないんだから」
「そんなこと言っても…」
「臆病なのだな、娘子よ」
「うっ…」
「まあ、理解出来ないものを理解せよとは言わない。…それで、名前であるが。従者の立場ではあるが、何のために使うのか聞いておきたい」
「お前を縛る気はないが、いちおうな。お前なら、厄でもなんでも喰ってくれそうだから。大噛みだろ、お前」
「…ふふふ。いかにも。しかし、面白いやつだ。私を見ても物怖じひとつせずに、涼しい顔で洗濯を続けている。それでいて、隙ひとつ見せず、交渉までしてくる。間抜けな主人ならば喰らってやってもいいと思っていたが、どうやら御主は無理そうだ」
「どうも。まあ、昔から慣れているとは言ったと思うが。お前たちと互角以上に渡り合う術は、充分に知っている」
「ふふ、そうだな。…いいだろう。御主の頼みとあらば、災禍でも厄でも喰ろうてやろうぞ。ただ、美味とは言えんから、普段はよいものを喰わせてはくれないか」
「お前の言ういいものって何だよ」
「若い頃であれば、毎日馬一頭などと要求したのだがな。まあ、一日に一度だけでよいから、御主の食べる料理の一部を戴こう。人間の食べるものは、なかなかに美味だ」
「分かった。約束しよう」
「すまないな。…では、私の名を預けよう」
小さな光の玉が目の前に現れて、すぐに弾けてしまう。
それだけでよかった。
…トムラ。
それが、この妖怪の真名。
「いい名だな」
「そう言ってもらえると嬉しい。…それでだ。今のは私の真名であるから、世を渡るための仮名が欲しいのだが」
「ああ。…りる。何か付けてやってくれないか?」
「りるが付けてもいいの?」
「御主が望むのであれば、私は構わないよ」
「うん、分かった。じゃあ…」
りるは腕組みをして考え始めた。
…その間に、舞い散った紙を回収して女の子に渡す。
「封印の解き方は分かるか?」
「………」
「えっ、解いちゃうの?」
「私はこいつの真名を押さえている。封印をしようがしまいが、もう関係ないよ」
「えぇ…。全然意味分かんないけど…」
「分かるか?」
「………」
女の子は地面に何か陣を書き始めて。
手早く書き終えると、真ん中に紙を置いて、何かを念じ始める。
しばらくは何も起きなかったが、急に紙が燃え出して、あっという間に灰になってしまった。
そして、女の子はその灰を掻き集めて、小さな手の平で押し固めるようにして。
次に手を開いたときには、秋華の書いた字だけが消えた、もとの人形に戻っていた。
「な、何が起こったの?」
「式神の封印が解けたな。しかし、あれだけ強力な封印をいとも容易く解くとは、御主は…」
「………」
女の子はニコニコしながら、私に人形を差し出して。
そこには、いつの間にか新しい字が書いてあった。
「…何か見えるの?」
「ん?いや、気のせいだった」
「ふぅん…?」
風華には、字は見えてないらしい。
そして、その不思議な字によると、この子の真名はヒトヨというようだ。
ということは、この子も妖怪なんだな。
…しかし、一日に二人も、これだけ強い力を持った妖怪に出逢うのはさすがに初めてだ。
しかも、二人ともに名前を貰うのも、もちろん初めてだ。
九十九神が報せたかったのは、もしかしたらこれだったのかもしれないな。
まあ、真実は九十九神にしか分からないことだけど。