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「よぅ、紅葉。久しぶりだな」
「ん?なんだ、リュカか」
「なんだはねぇだろ。…じーさんはどうした?」
「市場に行ってる。夕飯の買い出しだとさ。アセナと、うちの子たちも連れてな」
「ふぅん…。うちの子たち…?しっかし、相変わらず、何のためにお手伝いさんを雇ってるのか分からねぇな」
「いつもこうなのか?」
「そうだよ、まったく…」
「そうか。それで?お前は何しに来たんだ?」
「何しに来たはないだろ。そいつらだよ」
昼寝をしているテュルクを指差す。
迎えに来た、ということだろう。
「まあ、寝てるんならしゃーねぇよ。起きるまで待つさ」
「そうか。…そういえば、レオナが教師を始めたらしいな」
「まあな。チビどもの相手をするのが楽しいらしい。最近、よく貸本屋に行って勉強してるよ。夢中になりすぎて、夜遅くになるときもあるけどな」
「ふぅん…。そうか、なるほどな」
「なんだ。一人で納得して」
「レオナとお前が喧嘩したと聞いてな」
「ちっ…。アセナか?」
「いや、テュルクだよ」
「はぁ…。まったく、こいつは…。それで、何か言ってたか?」
「すごかったとか、レオナが優勢だったとか言ってたな。一刀が止めたとも」
「レオナが優勢だったんじゃねぇよ。お前も知ってるだろうが、あいつは頭に血が上りやすいから、すぐに狼になりやがるんだ。俺は、この姿のまま普通に応戦するから、不利な闘いになるんだよ。…怪我させちまったらいけねぇしな」
「そうか」
「早く帰ってこいって言ってるだけなのによ。まったく、女ってのは分からねぇな」
「オレも、いちおう女だが」
「ふん。冗談はやめろ。お前が女らしくしてるところなんて見たことがない」
「そうだろうな」
「………」
リュカはテュルクに目を移して、また私を見る。
それから、なぜか半分だけ狼に変化して。
「はぁ…。しかし、お前も変わってるけど、俺らも相当変わってるな」
「そうか?オレは、別にそうは思わないけど」
「ふん…。まったく、なんのためにあるんだろうな、この力は」
目を細めて、毛深くなった手を見る。
それから、またもとの手に戻して。
「生きにくいよ。こいつらは知らねぇけどな。他の人間と違うってのは、容易に人を遠ざけることが出来る。肩身が狭いよ」
「…お前は、何の仕事をしてるんだ?」
「なんでもいいだろ」
「………」
「…いろんな職を転々としてるんだよ。俺の居場所なんて、どこにもないけどな。レオナは上手く見つけてくれた。子供は、ありのままを受け止めてくれるから。たとえ、そいつがどんな変なやつでもな。ケラケラ笑って、次の瞬間には友達だ」
「………」
「大人はいけねぇや。掛けちまった色眼鏡は、もう一生外すことは出来ねぇ。ははは。そういう意味では、紅葉と知り合えてよかったよ。お前みたいなやつがいるって思うだけで、どんな辛いことも耐えられる。何歳になったとしても、こんな俺たちでも、受け入れてくれるやつがいるんだってな。まあ、親父との付き合いがあったってのもあるかもしれねぇが。少なくとも、紅葉の前では、肩身の狭い思いをしなくて済む。秘密を秘密にする必要もねぇんだ」
「………」
「こいつら…特に、アセナだが。相当騒いでただろ?じーちゃん家では、秘密にすることもないからな。あと、親父の道場でもだけど。こことあそこと…紅葉の前が、アセナの居場所だ。テュルクにとってもな。そこでは、誰もこの力を不気味に思ったりすることはない。まあ、道場はガキどもの親が見にくることもあるけど、上手くやってるみたいだ」
また半分だけ狼になる。
それから、そのままその手を伸ばして私の頬に触れる。
「怖いか?」
「何がだ」
「俺が」
「なぜ、そんなことを聞く」
「この半獣の姿を見て、顔色ひとつ変えないやつは、今ではお前だけだ。幼馴染みの中でもな。しかも、こうやって手を伸ばして触ろうとしても、尻尾の毛一本ですら逆立てないのも」
「ふん。一本だけ逆立てられる者がいるなら見てみたいものだ」
「ははは。確かにな」
頬から手を離すと、次は髪を撫でてくる。
相変わらず、半獣の姿のままで。
「覚えてるか、初めて会ったときのこと」
「ああ。お前は、一刀の陰に隠れて出てこようとしなかったな」
「ふん。レオナの方が積極的だったな。思えば、あのときから、今がもう決まってたんじゃないかと思うよ。ずっと陰に隠れてた俺は、今でも影に暮らして。少しでも前に進んでいたレオナは、寺子屋って居場所を見つけた」
「お前も、まだ二十じゃないか。これからまだまだ充分見つけられるだろ?」
「どうだろうな。俺は、レオナや紅葉のように強くはない」
「それは、お前の思い込みだろ。人間なんて、いくらでも強くなれる。心の持ちようによってな。お前はもう諦めてしまっているから、強くなれないままなんだ」
「そうかもな。…お前は、昔からそうだった。どこでどう見たのか知らないけど、いつも、俺の全く知らない観点から説教を垂れて、俺の目を覚まさせてくれる。俺を救ってくれる」
「今回もか?」
「ふん…。どうだろうな…」
哀しげな、群れを離れた一匹狼の目で、私の目を見つめる。
それから、狼のものとなっているその長い口吻をゆっくりと近付けてきて、私の頬へ寄せる。
…昔はよくやった、口付けの真似事。
いや、今のこれは、本当の口付けなんだろう。
「…すまないな」
「なぜ、謝るんだ」
「お前が、新しい王と結婚したという噂は聞いている」
「ふん。知ってたのか」
「…知ってるさ。お前のことは」
「………」
もう一度、口付けをして、リュカは離れる。
そのときには、もうもとの人間の姿に戻っていて。
「………」
「………」
…今ほど、人間というものが、ここまで他所他所しい生き物だと思ったことはないだろう。
それはなぜだろうか。
リュカが、哀しい顔をしているからだろうか。
分からない。
分からないけど…。
「リュカおにーちゃんの匂いがする!」
「あぁ、アセナさま!また、そんな泥だらけになられて…!」
「匂いは…こっちから!」
「ん。帰ってきたか」
「リュカおにーちゃん!」
襖が、また吹き飛ぶ。
ゴロゴロと部屋を転がりながら横断した小さな狼は、そのまま反対側に突き抜けて。
それから、ヒョコっと廊下から顔を出す。
「リュカおにーちゃん!ただいま!」
「お帰り。良い子にしてたか?」
「うん!」
「ふふ、そうか。また怒らないといけないかと思った」
「アセナ、良い子だったよ!」
「分かった分かった。良い子良い子」
「えへへ~」
泥の付いた足で家の中を走り回り、襖を吹き飛ばす行為が、果たして良い子のする行為と言えるかどうかだけど。
与助が、雑巾と桶を横に置いて襖を嵌め直すのを見ながら、そんなことを思う。
「リュカおにーちゃん~」
「甘えん坊だな、アセナは」
「えへへ。甘えん坊~」
「さあさあ、アセナさま。足を拭いてくださいね」
「うん、分かってる」
まあ、これくらいの騒動は、アセナにとっては当たり前なのかもな。
それを含めて、良い子だったということだろう。
遅れて、望たちも戻ってきて。
…リュカが言ってたこと。
私には、分からない。
リュカは、私の幼馴染みの一人だ。
それは変わらない。
奇妙な力があるからと言って、それはリュカたちを遠ざける理由にはならない。
そして、リュカの恐れるもの。
それは、なんとなく分かる。
失うことは、人間にとって、おそらく一番の恐怖だ。
リュカは恐れている。
不思議な力が、リュカから全てを奪ってしまうことを。
じゃあ、私は何をしてやれる?
リュカのために。
大切な、幼馴染み…家族のために。