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「なるほど。あの本を読んだのですか」
「ああ。あれは、お前が書いたのか?」
「ええ、まあ。しかし、二十年以上も前の話です」
「そうなのか?」
「はい。私も若かったですな、あの頃は」
「まあ、そうだろうな」
「ろくべー。おなかすいた」
「こら、凛。失礼ですよ」
「ははは。大丈夫だよ、秋華ちゃん。それに、お昼の準備もちゃんとしているから」
「あ、えっと…」
「すまないな、わざわざ」
「いえいえ。久しぶりのお客さまですしねぇ。それに、あの本を読んでくださった方となれば、なおのこと」
「そうか?すまないな」
「ははは。衛士長は、さっきからすまないすまないとばかりですな」
「実際、迷惑を掛けてるからな」
分厚い座布団を何枚も重ねて、その上で飛び跳ねる凛を押さえながら。
まったく、こいつは落ち着きがないな…。
「いいのですよ、そんなこと。子供は元気が一番です」
「そうは言ってもだな…」
「ろくべー。あれはなんだ?」
「おい、こら!」
凛はまた私の腕からすり抜けて、部屋を走り回り始める。
私の前を通ったときに捕まえ直すと、楽しそうに笑って。
「おねーちゃん!もっかい!」
「ダメだ。ジッとしてろ、お前も」
「あはは、ジッとしてろー!」
なぜか、秋華を指差しながら笑う。
それから、私の膝に飛び乗って、足をブラブラさせて。
「この部屋には壊れて困るようなものもありません。存分に走らせてやってはどうですかな」
「それでは落ち着かないのでな。私が」
「ははは。まあ、それもそうですか。…凛ちゃん。もうすぐごはんが来るからね。静かに待っているんだよ」
「ろくべーもな」
「そうだね。私も静かに待っているとしよう」
「うむ」
「それでだ、六兵衛」
「はい」
「図鑑を気に入った子がいてな、話をしてやってほしいんだ。まさか、二十年やそこいらで、あの熱情が薄まるわけはないだろ?」
「そうですな。むしろ、あのときよりも燃え上がっているほどですよ。この熱は、墓に入っても冷めそうにないですな。はっはっはっ」
「はっはっはっ。ろくべーは、よくわらうな」
「笑う門には福来る。笑いは昔から、邪気を払い、福を呼び込むとされてきたんだ。哀しいことがあっても、辛いことがあっても、いつも笑っている。そしたら、いつか、幸せは来てくれるんだよ。絶対にね」
「いつくるんだ?」
「それは分からない。明日かもしれないし、明後日かもしれない。一年後かもしれないし、十年後かもしれない。でも、いつか、必ず」
「凛、じゅうまでかぞえられるぞ。いち、まん、おく、ちょう、けい、がい、じょ、じょう、こう、じゅう!」
「私の知らない数が勘定された気がします…」
「大きな数の単位だよ。一、万、億、兆、京、垓、杼、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数」
「望、すごいのですっ!何だかよく分かりませんでしたが、すごいのですっ!」
「そ、そんなことないよ…」
「ははは。望ちゃんは物知りなんだね。じゃあ、小さい数の方も知ってるかい?」
「…分、厘、毛、糸、忽、微、繊、沙、塵、埃、渺、漠、模糊、逡巡、須臾、瞬息、弾指、刹那、六徳、虚空、清浄、阿頼耶、阿摩羅、涅槃寂靜」
「ははは。すごいね。さすがだね」
「ろ、六兵衛さん。合っているのですか?」
「合ってるよ、確かに」
「望、すごいのですっ!」
「………」
望は顔を真っ赤にさせて俯いている。
…まあ、正直、私も驚いた。
望がそこまできちんと覚えているとはな。
「凛もいえるぞ!」
「言ってましたね、確かに…」
「いち、まん、おく、ちょう、けい、がい、じょ、じょう、こう、かん、せい、さい、ごく、ごうがしゃ、あそうぎ、なゆた、ふかしぎ、むりょうたいすう!」
「おぉ、確かに。今覚えたのかい?」
「ふん。どーだ!」
「では、小さい数の方はどうですか?」
「むっ。うたぐりぶかいな、あきかは。しかたのないやつだ」
「えぇ…」
「ぶ、りん、もう、し、こつ、び、せん、しゃ、じん、あい、びょう、ばく、もこ、しゅんじゅん、しゅゆ、しゅんそく、だんし、せつな、りっとく、こくう、せいじょう、あらや、あまら、ねはんじゃくじょう!」
「驚きましたね…。この子は、瞬間記憶の能力でも持っているのですか?」
「いや、私も驚いているところだ…」
「どーだ、あきか。まいったか!」
「は、はい…。参りました…」
「私も、参りましたよ。失礼いたします」
と、応接間の後ろの襖が開いて。
何人かの女中と与助が、食膳を運んでくる。
そして、手際よく私たちの前に、昼ごはんを並べると、丁寧にお辞儀をしてまた出ていった。
…熟練の早業だな。
「おねーちゃん!ごはん!」
「そうだな。でも、そのままじゃ、膳を引っくり返すから、もう少し落ち着け」
「うん」
すると、すぐにバタバタするのをやめる。
えらく聞き分けがいいなと思っていると、十秒と保たずにまた暴れだして。
「凛。そんなんじゃ、いつまでも食べられないぞ」
「うーっ!」
「よいではないですか。引っくり返したとしても、すぐに代わりを用意させますから」
「甘やかすな、六兵衛。しっかり言い聞かせておかないと」
「おねーちゃんのバカ!」
「…凛」
「うっ…」
しっかりと目を見る。
すると、今までとは違うと察したのか、あるいは、バカと言ったのを反省したのか、凛は急に静かになって。
「大人しくしてるんだ」
「………」
「返事は」
「はい…」
「それでいい」
それから、隣の座椅子に座らせる。
今のが効いたのか、凛はもう暴れ出すこともなく。
「ダメですよ、凛。ごはんのときは、静かにしましょう、です」
「………」
「じゃあ、いただきますをするよ」
「あぁ、そうですな。いただきます」
「いただきます!」
今さっきまでの落ち込み具合は吹き飛んで、また急に元気になる凛。
本当に、感情の浮き沈みが激しいやつだな…。
六兵衛も、そんな凛の様子を見て笑っている。
…と、いきなり、今度は廊下の方が騒がしくなって。
「じーちゃん、じーちゃん!」
「お、お待ちください、アセナさま!家に上がるときは、ちゃんと足を拭いてからと…!」
「ん?なんだ?」
「あぁ、あれは…」
「じーちゃん!」
襖が一枚、勢いよく弾き飛ばされると、小さな狼が一匹、転がりこんできて。
それはいいのだけど、勢い余って反対側の襖も突き飛ばし、また廊下の方へ消えていった。
…凛は全身の毛を逆立てて、カチコチに固まっている。
「あぁ…。また襖を吹き飛ばして…」
「ご苦労だな。すまない、与助」
「いえいえ。これくらい、なんともないのですが…」
「えへへ。またやっちったー」
「アセナ。よく来たな」
「じーちゃん!」
廊下から駆けてきて六兵衛に抱きついたのは、喋る狼…ではなく、やんちゃ盛りの女の子。
…アセナだ。
「あとね、いー匂いがするー。この匂いはねー」
ゆっくりと、こっちに振り向いて。
そして、ニッコリと笑う。
「紅葉おねーちゃん!」
食膳を飛び越えてやってきた小さな狼の首根っこを引っ捕まえて。
目の前にぶら下げる。
「早速だが、怒るところから始めようと思う」
「ヤだ!」
文句を言う狼の鼻面を指で弾く。
さて、このイタズラ娘をどうしてやろうかな。
…とりあえず、生意気な目をするので、もう一度、鼻面を指で弾いておく。