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凛が落ち着き、りるの目が完全に覚めたところで、また図鑑の読み聞かせを再開する。
読み聞かせる美希の横で、秋華が密かに練習をしていて。
「伝承の中の龍は、我々の味方ばかりではなかった。ときには、絶対的な力を持つ存在として、我々に絶望を与える役割も担っていた。しかし、それは本当に絶望だったのだろうか。たとえば、ヤムタカの英雄という話の中で、兵士を薙ぎ倒し、ヤムタカの英雄を苦しめた龍は、しかし、人間の集落を襲ったとか、人間を殺したなどという記述はどこにも見られない。その強大な力を示す対象は、あくまでも、脆弱な力を振りかざして和を乱そうとする愚か者に限られていたのだ。単に記述していないだけだと主張する、学者気取りの愚か者もいるが、人間は執念深く、脚色好きな動物であることを考慮に入れ、それでもそういった記述がないということは、そんなことなど一切なかったという何よりの証拠であり、かつて伝承を書き記した人間たちが如何に龍を厚く信仰していたかという表れであろう。この場合の信仰は、人間の作った粗末で下品な宗教を崇め奉ることなどではなく、多大な信用と信頼から来る尊敬や畏敬の念、という意味である。…秋華、ちょっと水をくれないか」
「あ、はい。どうぞ、美希さん」
「ありがとう」
「いえいえ」
「…それは、最後にはヤムタカの英雄が勝ち、龍が倒れるところにも表れている。最も原典に近いと言われる伝承集、古今口伝記から、その部分を忠実に現代語訳し、抜粋してみる。…私たちを苦しめた龍はついに倒れ、長き戦いは終わった。弱々しく私を見上げる龍の目は、しかし、まだ闘志に溢れていた。この者は、最期まで、何かを必死に訴えているのだ。戦いを越えた今、私たちの間には敵も味方もない。今になってやっと、私たちは龍の願うところを知るに至った。武器を捨て、兜を脱ぎ、龍の前に膝を折ると、目の中に燃えていた闘志は深き慈愛と変わり、龍は静かに息を引き取った。愚かな私たちを、龍は最期に赦してくれたのだ。その寛大な心に、遠い昔となった今でも、私たちは頭を上げることが出来ない…。この通り、古今口伝記のヤムタカの英雄の話に於いて、正しかったのは龍であり、人間であるヤムタカの英雄は、自分は愚かであったとはっきり記述している。それを、ろくな研究もせず、脚色ばかりが加えられた資料価値の全くない紙や木簡の束を信じて、これにはこう書いてあるとしたり顔で語り、数分後には、私の指摘や訂正を受け、反論も出来ずに尻尾を巻いて逃げるのである」
「ヤムタカの英雄といえば、童話で有名だな。童話では、ヤムタカの英雄が龍に勝ったところで終わってるけど」
「まあ、これを読む限り、子供には難しい内容だろ。この学者は納得しないかもしれないが」
「そうだな」
「…とにかく、記述していないだけだという愚か者は、龍に関する全ての文献を余すところなく研究し、証拠を見つけたと言うのなら、私に研究成果を報告すればよい。私はいつでも、私の龍に対する愛情と熱情を越える者が現れるのを待っている。…って、これ、住んでるところまで書いてあるぞ」
「ふぅん。本当に好きなんだな、龍のことが」
「好きというか、もう酔狂を通り越してるぞ…」
「いいじゃないか。一生を捧げられる何かがあるというのは、幸せなことだ」
「そうだろうけど…」
「この住所、うちの近くですよ?」
「えっ?わ、本当だな…。城下町の中だ…」
「まあ、そうだろうな」
「えっ?どうしてですか?」
「こういう本は、大抵一冊しか作られない。手間が掛かるしな。自分で書くにしても、原稿を渡して書いてもらうにしても、これだけ大量の文章をどこか別の場所に運んで、別の場所で製本して、また運んでくるとなると、さらに手間が掛かるだろ?現地で作って、現地の図書館に置くなりなんなりした方がいいじゃないか」
「なるほど…。確かにそうですね」
「しかし、こんな図鑑を書くやつは、かなり変なやつなんじゃないのか?」
「行ってみるか?」
「いや、いいよ、私は…」
「そうか。こういうやつと話すと、結構楽しいものなんだけど」
「この人、面白い人?」
「ん?そうだな、面白い人だと思うぞ」
「ふぅん…」
「りるは、会ってみたいか?」
「うん。面白い人なら、会ってみたい」
「そうか。じゃあ、また今度行ってみよう。今日は無理だろうが」
「うん」
手近にあった紙と筆を取って、訪ね先を書き留めておく。
…しかし、勢い余って書いてしまったんだろうか。
こいつの龍に対する愛情と熱情は、確かによっぽどであっても越えることは出来なさそうだ。
「秋華は知ってるのか、この著者のこと?近くだって言ったけど」
「えっと、住所が近いというのは分かるのですが、これがどこの家かということまでは分かりません…。すみません…」
「そうか。近くに、変なやつが住んでるとかいうところはないか?」
「いえ。ないと思うのですが…」
「美希。変なやつと決めて掛かるのはどうかと思うが」
「それはそうかもしれないけど…。きっと変なやつに違いない」
「お前、今度一緒に会いにいこう」
「えぇ…」
「秋華と凛はどうする?」
「私も、興味があります。行ってもよろしいですか?」
「ああ。行こう」
「凛も!凛もいく!」
「そうだな。まあ、お前は、まずどこに行くのかを知る必要があるだろうが」
「ん?」
凛の頭を軽く撫でると、嬉しそうに笑って。
…本当に、みんなで遠足に行くような感覚なんだろうな。
それはそれでいいかもしれないが。
「まあ、今度、約束を取り付けてくるよ」
「そうだな。向こうの都合もあるだろうし」
「みんなと一緒に、お前も行くんだぞ」
「分かってるよ…」
「なんか、ちょっと楽しみです。学者さんの方には会ったことがないので。ゆっくりお話し出来たらいいのですが」
「まあ、そのあたりも聞いてこようかな」
「はい。せっかく会うのでしたら、ゆっくりお話ししたいですもんね」
「そうだな」
「どんな方なんでしょうね」
「さあな。気になるなら、一緒に行くか?」
「約束しに、ですか?」
「ああ」
「そうですね…。いつでしょうか」
「明日にでも行こうか?」
「そうですか。では、お供させていただいてもよろしいでしょうか」
「ああ。一緒に行こう。美希はどうだ?」
「いいよ、私は…」
「そうか」
まあ、秋華と二人で行ってくるか。
私自身も、その学者がどんな人間なのか、興味がある。
さて、どんな話が聞けるだろうな。