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「す、すみません…。師匠…。風邪なんて引いてしまって…」
「今日は大人しく寝てろ。お前は、何かと無理をする傾向があるみたいだからな」
「武道に休みなんてないんです…。毎日鍛練しないと…」
「その心構えは立派だがな」
真っ赤になってる頬を引っ張る。
秋華は、熱で焦点の定まらない目を、こちらに向けて。
「自身を律すること。それは、無理をすることではない」
「よく分かりません…。自身を律し、鍛練に励む…。それは、いついかなるときでも、鍛練を怠るなということではないのですか…?」
「言葉は合っているが、お前の解釈は間違っている」
「何が…でしょうか…」
「それは、お前自身が考えることだ」
「師匠からの課題ということでしょうか…」
「課題ではない。この言葉を勘違いしている限り、お前は武道を極めることは出来ないだろうな、という警告だ」
「武道を極められない…」
「まあ、今は休め。熱が出ていては、纏まる考えも纏まらない」
「師匠…」
身体を起こしていた秋華の肩を押して、布団に寝かせる。
秋華はまだ何か言いたそうだったけど、ゆっくりと目を瞑って。
すぐに眠りに落ちたようだった。
…お前なら分かるよ。
きっと、いつかな。
「…紅葉」
「千秋か。洗濯物は終わったのか?」
「まあな。でも、秋華が風邪だなんて知らなくて。ちょっと減らしてもらった」
「そうか」
「どうなんだ?」
「さっきまで起きてたんだけど、今寝たところだ。高い熱が出てる」
「そうか…」
千秋は秋華の横に座って、頬に触れる。
そして、その熱を確認すると、眉をひそめて。
「大丈夫なのか?」
「犬千代が熱に効く薬を処方してくれてる。それも、さっき飲ませたところだ」
「ちゃんと治るのか?」
「薬を飲んで、安静にしていればな」
「…俺も看病するよ」
「そうだな」
「秋華…」
すっかり温くなった手拭いを取り替える。
吊るしてある氷嚢は、まだ大丈夫のようだったけど。
「なんで、風邪なんか引いたんだ?」
「今朝、冷えたんじゃないかって話だ」
「寒かったからな…。でも、秋華は寝相はいいぞ?布団を蹴るなんてことはないし…」
「布団を被っていても冷えるものは冷えるし、そうじゃないなら、何か別の要因があるんだろ。オレには、そこまでは分からないよ」
「んー…。あ、家には報せたのか?」
「いちおうな。ウォルクが行ってくれてる」
「ウォルクが…。俺に報せてくれたっていいのに…」
「朝が早かったからな。お前はまだ寝てたんだろ」
「秋華の一大事なのに、俺の睡眠時間なんてどうでもいい」
「まあいいじゃないか。あんまり騒がしくすると、秋華が起きるぞ」
「うぅ…」
それでも、納得いかないという風に。
心配なのは分かるけど。
「んーんー」
「ん?」
「あ、おかーさん」
「りるか」
ちょうど前を通り掛かったところらしい。
入口からこちらを覗いて、首を傾げている。
「今日は、美希のところには行かないのか?」
「んー」
「まあ、そのうち探しに来るか…。あ、お前、こっちに来るなよ」
「なんでー?」
「秋華が風邪を引いてるからな。咳はしてないけど、移るといけないから」
「ふぅん」
聞いているのかいないのか、そのまま中に入ってきて、秋華の横に座る。
それから、顔を覗き込んで。
「真っ赤だ」
「お前なぁ…」
「……?」
「ほら、出ろ」
「あっ!やぁの!」
暴れるりるを抱き上げて、部屋の外に連れ出す。
床に下ろすと、こっちを見上げてきて。
「りるも!」
「なんだ」
「りるも一緒に寝る!」
「一緒に寝てたら風邪が移るだろ」
「ヤだ!りるも!」
「紅葉に看病してもらいたいんじゃないのか、りるは。秋華が紅葉を独り占めするのは我慢ならないんだろ」
「そうだろうけど」
「秋華はしばらく起きないだろうし、俺に任せてくれたらいいよ。風華もそのうち来るし」
「しかしだな…」
「ちょっとくらい甘やかしてもいいじゃないか。りるは、そんなに我儘な子じゃないだろ。今日はちょっと特別だ」
「うーん…」
それはそうだけど、今は秋華の方が心配だし…。
でも、千秋は早く行けと言わんばかりだし、りるは服を引っ張ってるし…。
「はぁ…。仕方ないな…」
「うん。行ってらっしゃい」
「ああ…。任せたぞ」
「大丈夫大丈夫」
「目を覚ましたら、呼んでくれ」
「はいはい」
千秋に念を押してから、グイグイと服を引っ張るりるに連れられ、廊下を歩いていく。
どこに行くんだろうか。
まあ、私の部屋だろうけど…。
「ねぇ。お母さんは、りるのこと、好き?」
「ん?そりゃ、好きだけど」
「りるは、お母さんのこと、大好き」
「そうか」
「秋華も好き。お菓子くれる」
「そうだな」
「でも、お母さん取られるのはヤ」
「秋華は、私を取ったわけじゃない。風邪を引いてるんだよ。さっきも言ったけど」
「んー…」
「秋華のこと、好きなんだろ?」
「うん…」
「じゃあ、私の、秋華が風邪を引いて心配だって気持ちも分かるよな」
「うぅ…。ごめんなさい…」
「もういいよ。ちゃんと気付けたんだしな」
「………」
服を引っ張るのはやめて、トボトボと歩いている。
…怒るときは怒って、落ち込むときは落ち込む。
そういう純粋なところがあるな、りるは。
まあ、それはいいことなんだけど、ときどき、こうやって失敗したりする。
でも、それは悪いことではない。
失敗は誰にでもあることだし、次に失敗しなければいいんだから。
「おかーさん、秋華のところに帰っていいよ…。りるは、元気だもん…」
「何言ってるんだ。こんなしょぼくれたりるを放って、秋華のところには帰られないよ」
「りるは、風邪引いてないよ…?」
「そうだな。風邪は引いてない。でも、今は心がちょっと萎んでる。これは、ちゃんと治しておかないとな」
「………」
りるの頭を撫でると、少し笑ってくれた。
…そうだな。
こんなりるを放っておいて、秋華のところには行けない。
秋華が起きたとき、怒られてしまうからな。