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「師匠!師匠!大変ですっ!」
「うん…?」
まだ薄ら明るくなってきたくらい。
太陽は、まだまだ山の向こうだ。
そんな時間に、こんな元気よく私を起こすやつは、一人しか考えられない。
目を瞑りながら柔らかい頬を探し出して、引っ張ってやる。
「ひ、ひひょー?」
「何が大変か知らないが、時間を考えろ。みんな、まだ寝てるだろ?」
「うっ…。ふいはへん…」
「まったく…」
秋華の頬を離し、身体を起こす。
やっぱり、まだ夜も明けてない。
暗いのは、それだけの理由じゃないみたいだけど。
でもまあ、仕方ないから、布団を抜け出して。
「師匠っ」
「お前の声はよく通る。場所を変えよう」
「あ…。すみません…。五月蝿かったですか…?」
「五月蝿いな」
「うぅ…」
「それより、ほら。寒いだろ」
「あ、どうもありがとうございます」
薄い道着一枚の秋華に羽織を着せてやって、一緒に部屋を出る。
そして暗い廊下を歩いていき、階段に差し掛かって。
「あ」
「ん?」
「上は、姉さまの部屋ですよね?」
「ああ。行ってみるか?」
「あ、いえ…。起こしても悪いですし…」
「兄妹なんだから、そんなこと、気にすることもないだろ?」
「気にしますよ…」
「ふぅん」
「あっ!師匠!」
適当に相槌を打ちながら、階段を上がっていって。
突き当たった屋根板を横へ動かす。
「師匠!ダメですよっ!」
「いいじゃないか。千秋の寝顔を見るいい機会だぞ?」
「姉さまの寝顔なんて、見ちゃダメですっ!」
階段の下で何か言ってる秋華を置いて、屋根裏を覗いてみる。
…しかし、千秋は起きていた。
布団から起き上がり、何事だという風に首を傾げて。
だから、寝たフリをしろと合図を送っておく。
「秋華。ほら、来てみろ」
「ダ、ダメですよ、師匠…」
とか言いながら、結局階段を上がってくる。
愛しい姉の寝顔は、やはり気になるんだろうか。
先に屋根裏に上がり、秋華の手を引いてやる。
「す、すみません…」
「ほら。見てみろよ」
「………」
千秋の姿を確認すると、何も言わずトテトテと千秋に近付いていく。
そして、そっと顔の前にしゃがみこみ、千秋の頬に口付けをする。
狸寝入りが上手いと思っていたが、さすがの千秋もかなり火照っているようだ。
…しかし、秋華のその行動には、どういう意味があるんだろうか。
まあ、好きな人に口付けをしたいという気持ちは分からんでもないが…。
「………」
「あまつさえ、一緒に寝たい…とか考えてないよな?」
「か、考えてないですっ!」
「そうか」
千秋は薄目を開けて、秋華に気付かれないように、小さく首を横に振る。
…まあ、二人に宛てた質問に、二人とも期待通りの反応をして。
やっぱり楽しいな、こいつらは。
「秋華。前にも言ったがな、睡眠を充分に取らないと大きくもなれないし、強くもなれないぞ。何が大変なのかは知らないが、今はもう一度ゆっくり寝ておけ」
「あっ、そうですっ!大変なんですっ!」
「シーッ。千秋が起きるだろ?」
「あっ…」
まあ、もう起きてるんだけど。
とりあえず、秋華を千秋の横に寝るよう促して。
案外すんなりと横になってくれた。
「お休み、秋華」
「師匠…」
頭を撫でてやると、すぐにウトウトし始めて。
途中から、千秋に変わってやる。
…お休み、秋華。
大変なことっていうのは雨が降ってることだろうが、まあ、また起きてから聞いてやるよ。
光は射し込まない。
雲が太陽を隠しているからだけど。
ひとつ伸びをして、りるの髪を撫でる。
いつの間にか来ていたらしい。
私の膝の上に座るようにして眠っていた。
「………」
頬を突ついてみると、寝惚けているのか、その指を齧りだす。
…こいつはまだ、生え変わってない歯があるな。
まあ、りるくらいの歳なら当たり前か。
そのまましばらく齧っていたが、また眠りに落ちて。
「………」
さて、どうするかな。
とりあえず、りるを千秋と秋華の間に入れて、川の字にしてみる。
…うん、いいかんじだな。
三人ともぐっすり眠っている。
そのまま、起こさないように、階段を降りていって。
「………」
今日はどうだろうな。
厨房に誰かいるだろうか。
いたらいいんだけど。
いろいろ考えているうちに、厨房の近くまで来る。
すると、いい匂いがしていて。
珍しいな、なんて思いながら、厨房に入る。
「おはよう」
「あ、おはよ、お姉ちゃん」
「今日はお前が当番なのか?」
「ん?違うけど」
「何作ってるんだ?」
「明日の肉じゃがの試作と、ついでに朝ごはんも」
「いつから作ってるんだよ」
「大丈夫だって。ちゃんとしっかり睡眠は取ったから。本当に、さっき起きてきたんだよ」
「そうか」
「あ、起きてきたっていうのは間違いかな。美希に起こしてもらったんだ」
「ふぅん…。相変わらず、あいつは早起きだな」
「裏の山とかに行ってるみたいだよ。みんなのために、新鮮な山の幸を採ってくるとか言ってたかな、たしか」
「みんなって誰だろうな」
「まあ、主に葛葉とサンとりるでしょ」
「………」
「いいじゃない、別に。好きでお世話してくれてる分には」
「そうなんだけどな…」
「偏重するのはよくないって?」
「そういうわけでもない。まあ、あいつはしっかりやってくれてるからいいが…」
「一歩間違えたら、甘やかしすぎってことになっちゃうしね」
「ああ。甘やかす節度は弁えてるだろうが…」
「大丈夫大丈夫。美希ならね」
「…そうだな」
まあ、心配しても仕方ないことだな。
美希なら大丈夫。
灯の言う通りだ。
「それよりさ、肉じゃが、食べてみてくれない?」
「朝からか?」
「え?うん」
「…まあ、いいけど」
「大丈夫だって。朝ごはんを肉じゃがだけで済まそうなんて思ってないからさ。まあ、朝からガッツリ食べちゃってよ」
「いいけどな、別に…」
ガッツリ食べたところで、今日は雨だ。
こんな日に外に行く用事もないし、運動する予定もない。
胃もたれしないか、今から心配だな…。
「雨だからって浮かない顔しないの。もうすぐ出来るからさ、遠慮なくどうぞ」
「はぁ…」
試作だからって、いろんな種類の皿が鍋の横に並んでいる。
あのひとつひとつに違う肉じゃがが山盛り入れられることを思うと、憂鬱にならなくもない。
灯は楽しそうだけど、自分自身も食べるんだろうな…。