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望は、もう手伝いはいらないらしい。
セトに大きな水桶を持たせて、自分は柄杓で水を撒いている。
…すっかり尻に敷かれてるな、あいつは本当に。
「あっ、やっぱりここにいた」
「ん?なんだ、ナナヤ。何か用か?」
「さっきさぁ、誰か来てたよね?」
「ああ。来てたけど」
「誰なの?」
「勲のところで働いてる千秋ってやつだよ。聞かなかったのか?」
「うん、まあ。ちょっと廊下ですれ違っただけだし。知らない人だなってくらいで」
「ふぅん」
「可愛い子だったなぁ。何歳くらいなの?」
「十六とか言ってたかな。お前より歳上だぞ、いちおうは。あと、あいつの前で可愛いとか言うなよ。怒るから」
「えっ?なんで?」
「あいつは男だからな。心は」
「え、何それ?オナベってこと?」
「…平たく言えばな」
「ふぅん…。そうなんだ…」
「まあ、仲良くしてやってくれ」
「うん、分かってるけど」
「分かってるならいい」
「あ、それで、リュウが千秋に気に入られたみたいでさ。なんか言ってたよ」
「何を言ってたんだよ…」
「知らないよ。風華と話してたのを聞いただけだし」
「盗み聞きか」
「人聞きの悪いことを言わないでよ。医療室の前を通ったときに聞いたんだよ」
「盗み聞きには変わりないな」
「もう…。いいじゃん、別に…」
「それで?なんで、リュウが言ってるやつが千秋だと分かったんだ」
「いや。リュウが、千秋がどうとかって言ってたからってだけなんだけど」
「ふぅん…」
どんな話をしてたんだろうか。
リュウは、千秋とどこで会ったんだろ。
風華と同じかな。
それより、気に入られたってどういうことなんだろうか。
妹分としてか?
まあ、なんにせよ、また今度会ったときにでも聞けばいいか。
「それで、千秋はどこに行ったの?」
「もう帰った」
「えっ、そうなの?」
「なんだ。何か用があったのか?」
「別にないけど。せっかく来てたんなら、何か話しときたいじゃない」
「そうか?」
「そうだよ。お姉ちゃんはどうか知らないけど…」
「まあ、それは残念だったな。でも、そのうちにまた来るだろうし。そのときにでもゆっくり話せばいいじゃないか」
「そうだけどさ」
私は、夜中に起こされたし…。
話すこともあまりないというか…。
まあ、会えば何かしら話すことはあるんだろうけど…。
「はぁ…。それにしても、望さ、もう手伝いはいいんだね」
「そうみたいだな。今は水を遣ってるだけみたいだし」
「花屋さんとかに、世話の仕方をちゃんと聞いといた方がいいんじゃないの?」
「そうだな。前にオレもそれを思ってたんだけど、すっかり忘れていた」
「じゃあ、昼にでも行ったら?」
「今日か?昨日も市場に行ったところなんだが…」
「いいじゃない。市場に行くくらい。暇なんでしょ?」
「確かに暇だけど…。衛士長が毎日遊び歩くのも…」
「どのみち、ここでボーっとしてるだけなんでしょ。市場に行くのも変わらないよ」
「お前もそういうことを言うのかよ…」
「嫌なら、何か仕事を見つけてきなさいよ」
「はぁ…。見つけられたら苦労しないっての…」
「役立たずの隊長だね」
「そりゃどうも…」
「それで?市場に行くの?」
「行かないよ…」
「なぁんだ。つまんないの」
「つまらなくて結構だ…」
本当に…。
なんで、こうも暇人暇人と責められないといけないんだよ…。
事実ではあるが…。
「あ、そうだ」
「なんだ」
「市場に行かないなら、久しぶりに稽古をつけてよ。しばらくやってなかったからさ」
「今更なかんじもするけど…」
「いいじゃん。お姉ちゃんも、たまには身体を動かさないと太っちゃうよ」
「余計なお世話だ…。まあ、悪くはない案だな。早速行こうか」
「痛くしないでね」
「お前次第だな」
「えぇ…。せめて、防具を着けさせてよ…」
「必要と思うなら、自分で取ってこい。倉庫にあるから」
「えぇ~…」
「じゃあ、防具なしだ」
「えぇ~…」
「五月蝿いやつだな、お前は。文句を言うなら中止だ」
「はぁ…。分かったよ…。取ってくりゃいいんでしょ、取ってくりゃ…。木刀って、かなり痛いんだよね…」
「訓練だから木刀だけど、実戦では真剣になったりもする。それに、オレはある程度手加減をしているけど、実際はそうもいかない。そうなれば、痛い痛くないの問題じゃなくなるぞ。一撃を貰わないように立ち回るのが鉄則だ」
「戦場では臆病であれ。それが、唯一生き残る方法だ…ってやつ?」
「そうだな。だが、臆病なだけでは敵は倒せない。臆病でありながら、勇気を持って前へ進まなければ、勝利は得られない」
「難しいことを言わないでよ…」
「まあ、とりあえず、基礎訓練から始めて、それから、攻撃を受けたり避けたりする訓練だな。あと、間が開きすぎてるから、ほとんど最初からやり直しだ」
「うへぇ…。下手なこと言うんじゃなかったな…」
「何言ってるんだ。そら、行くぞ」
「はぁい…」
訓練を提案した以上、真剣にやってもらわないと困る。
私も手加減をするとはいえ、怪我をしない保証もない。
しっかり、油断なく。
訓練でも実戦でも同じだ。
ナナヤはどうも緊張感に欠けるからな。
そうやって説教をしてから始めたいんだけど…。
いや、やっぱり、先に言っておくべきだな。
うん。
準備が出来たら、まずはそこからだな。