227
お面がなくなったことで光も香りを楽しめるようになり、一緒にお香選びに没頭していた。
そして、三人の好きなお香が決まりかけた頃。
「………」
「あ。兄貴。どうしたんだよ」
「…客か」
「見りゃ分かるだろ?」
「そうか。よく来てくれた」
「で、どうしたんだよ」
「…相変わらず、充分な間を開けずに試し焚きをしてるんだな」
「そうしないと、時間が足りないだろ?」
そう言って、竜哉は次のお香に火を点ける。
しかし、竜哉の兄は何を気にすることもなく、こちらへ歩いてくる。
「竜哉。官九郎さんの診断書を貸してくれ」
「うん。勝手に取っていって」
「ああ」
「診断書の貸し借りなんてするものなのか?」
「ん?ああ。うちは香の種類は置いてないから、匂いに関しての情報が少ないんだよ。だから、こっちの診断書を頼りにすることもある」
「ふぅん」
「そうそう。こちらの風華さんが、芳香療法に興味があるんだって」
「………」
竜哉の兄は風華の方を一瞬だけ見て、また診断書探しに戻る。
…ていうか、こいつの名前は何なんだ。
「ごめんね、無愛想な兄貴で」
「いえ…」
「兄貴。自己紹介くらいしなよ。嫌われるよ?」
「…知己。こいつの兄だ」
「ともみ?」
「…己を知ると書いて知己だ」
「ふむ。なるほど」
「女の子みたいな名前だね」
「…よく言われる」
「あはは、そうだよね~」
「………」
「兄貴、その名前、結構気に入ってるよね」
「………」
黙々と探し続ける。
話はいちおう聞いてるみたいだけど。
「どう?このお香は」
「そうですね…」
「私はさっきの方がいいかな。桜花だっけ?」
「そうだね。なんか、ナナヤにピッタリくる気がするよ」
「えっ、なんで?」
「久方の光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ」
「え?何それ、お姉ちゃん?」
「光がのどかに降り注ぐ春の日だというのに、落ち着きなく桜は散っていく…という意味だったかな。まあ、桜花はお前の騒がしい性格を反映してるんじゃないか?」
「えぇ…」
「わたしは、菫畑が、いいかな」
「なるほど。大人しい光ちゃんにはピッタリかもね」
「そ、そうかな…」
「うん。あのお面を怖がっちゃうくらいだしね」
「うぅ…」
「…お前。またあのお面を出していたのか」
「いいじゃないか、別に」
「子供には、すこぶる評判が悪いぞ。どれだけ俺のところに来させたら気が済むんだ」
「子供、嫌いじゃないだろ?それに、躾にちょうどいいって、お母さん方には評判は良いよ」
「………」
「分かったって。そう睨むなよ」
「………」
もう一度、知己は竜哉をきつく睨み付けて、また探しに掛かる。
…ていうか、そんなに見つけにくいものなのか?
「オレも探そうか?」
「…いや、大丈夫だ」
「えらく時間が掛かってるみたいだが」
「竜哉は全く整理しないからな。どこに誰の診断書があるか分からない」
「兄貴が分からないだけで、僕は分かるんだよ」
「じゃあ、お前が出してやればいいだろ」
「いいのいいの。ああやって無関心を装ってるけど、実際は、僕とお客さんの会話を盗み聞きして楽しんでるんだ。な、兄貴?」
「………」
「だから、ゆっくり探さしてやって」
「まあ…そうかもな。さっきから、同じところを行ったり来たりしてるだけだし」
「………」
忠告すると、別の棚に移ったりしてみる。
面白いやつだな、こいつも。
「話を聞きたいなら、こっちに座って、一緒に話せばいいのにね?」
「お前のように、口先から生まれたわけじゃないんだろう」
「ははは。手厳しいねぇ、紅葉さんは」
「紅葉さん…?」
「ん?」
ゆっくりと、かつ、確実に、こちらを振り返る知己。
そして、完全にこっちを向くと、しばらくジッと見て、それから瞬時に顔を赤くさせた。
「どうしたんだ」
「あぁ。兄貴、ずっと衛士長さんに憧れてたんですよ。先代の一葉さんから。まあ、僕たちは一葉さんと紅葉さんしか知らないわけなんですが」
「………」
「一葉さんはねぇ、昔、よくこの店に来てくれてたみたいですよ。親父から聞いた話なんですがね。僕らは覚えてないんですが」
「ふぅん…」
そういえば、昔、なぜか眠れなかった夜に、母さんが良い匂いのするお香を焚いてくれたことがあったな。
私はすぐに安心して眠れたと思うんだけど。
そうか。
もしかしたら、あのときのお香は、ここのお香だったのかもしれない。
「あ、そうだ。一葉さんの診断書もあるんだ。見てみたら?」
「そうだな…」
「兄貴。出してあげて」
「は、はいっ!」
「…兄貴、緊張しすぎな」
知己は迅速かつ正確に、たくさんある診断書の中からひとつの診断書を取り出す。
そして、震える手でそれを差し出して。
「ど、どうぞ!」
「どうも」
「ご用があれば、何なりと!」
「ああ。ありがとう」
とりあえず、読み始める。
すっかり日に焼けた診断書は、それでもしっかりとした字で書かれていて、読みやすかった。
…どうやら、母さんは常連だったらしい。
来店回数の正の字は、追加の紙ですら何枚も埋めていた。
次に、性格の欄を見てみる。
天真爛漫。
猪突猛進。
一意専心。
うむ、よく見てるな。
次は、香りの欄。
いろんな種類を買っていたようだが、どうやら白檀に落ち着いたらしい。
白檀のところに丸印を打ってある。
その他、ずっと斜め読みをしていく。
診断書というだけあって、本当にいろんな情報が詰め込まれていた。
「あ、あの…」
「ん?」
「その白檀、まだあるんです」
「そうなのか?」
「はい」
「兄貴の店だよ。行ってきたら?」
「そうするか」
「うん」
「じゃあ、姉ちゃん。私たちは決めておくから」
「ああ。ありがとう」
礼を言って、腰を上げる。
知己は緊張し通しだったけど。
…私も、何か緊張してきた。
お母さんが好きだった匂いか。
白檀の匂い。
どんなのだろう…。