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「お香ねぇ」
「どうだ。お薦めはあるか?」
「私はあまり使わないからね」
「ふぅん」
「服に匂いが染み付くことなんてないから。染み付くとすれば、毎日ここに来る男どもに汗臭さを移されるくらいだし」
「涼さんに匂いを移すなんて、そんな…」
「お、俺たちも焚き染めようかな…」
「あくせく働きな。汗臭くないやつは出入り禁止だからね」
「は、はいっ!」
男衆が勢いよく返事するのを見て、涼は大笑いしている。
それを見て、光は首を傾げているけど。
「ところで、涼さんって妊娠してるんですか?」
「あ、そうだね。ナナヤちゃんは初めてか」
「はい」
「そういえば、腹、ちょっと張ってきたみたいだな」
「まあね。今度は女の子かな」
「分かるのか?」
「勘だよ、勘。そんなの、生まれるまでどんな子かなんて分からないし」
「まあ、そうだな。お楽しみだな」
「うん。すごく楽しみ」
「胎動とかはあるんですか?」
「はは、まだまだないさね。もうちょっと掛かるよ」
「へぇ…」
「風華ちゃんみたいな薬師さんでも、知らないことがあるんだね」
「私なんて、まだまだ卵ですよ。兄ちゃんにですら、全然追い付かないのに…」
「そんな顔しないの。大丈夫だって。風華ちゃんは立派な薬師だよ。私が保証する」
「涼さんの診察だって、ほとんどしてませんけど…」
「ははは。そんなの関係ないね。良い薬師さんは、すぐに分かるよ」
涼が風華の頭を撫でると、少し複雑な顔をする。
それを見て、涼は少し苦笑いして。
「素直に喜びなよ。老けるよ?」
「ふ、老ける?」
「そうさね。嬉しいことがあったら笑う。褒められたら喜ぶ。素直になることが、若さの秘訣だよ。暗い顔してたら、あっという間におばあさんだよ」
「えぇ…」
「だからね、素直になってちょうだい」
「…はい」
今度は、風華も笑顔で応えて。
そうだな。
その笑顔だ。
「そういえば、なんでお香を探しに来たのに、ここにいるの?お昼にはまだ早いよ?」
「腹が減ったら食べる。それでいいだろ」
「まあ、そうだけど」
「光がね、お腹空いたって言ったんですよ。この食堂の前を通ったとき」
「へぇ、ちょうどいいときにお腹が空いてくれたね」
「このきつねうどんを食べたかったんじゃないのか?」
「そうなの?」
「……?」
「ちょっと違うみたいね」
「そうだな」
光の頭を撫でると、ニッコリ笑ってくれた。
まあ何にせよ、涼の様子を見ることも出来たし、それでいい。
…どうせここに来るつもりだったし。
「で、なんだっけ。五十鈴屋?」
「ああ。お香を買いに」
「あそこは、品揃えはいいけど、安物しか売ってないよ。まあ、庶民的なんだね。ちょっと高級なのが欲しいなら、丸鷹屋に行けばいいよ」
「なんだ、さっきは知らないって言ってたのに」
「うん。今思い出した」
「ふぅん…」
「まあまあ。裏通りのお香屋さんはそのふたつしかないから、両方覗いてみたらいいんじゃないかな。すぐ横同士だし」
「ほぅ。じゃあ、すぐに分かりそうだな」
「あはは、そうだね。紅葉ちゃんは耐えられないかもね」
「そういえば、五十鈴屋は焚き染めの無料奉仕でもしてるのか?」
「んー、たまに宣伝のためにやってるみたいだよ。特に、見掛けない人が前を通り掛かったりしたときには」
「ふぅん…」
「ごちそうさまでした」
「あ、光ちゃん。美味しかった?」
「うん!」
「そりゃよかった」
「ごちそうさまでした、涼さん」
「はい、どうも。裏通りに出るなら、勝手を通っていきなよ。すぐ繋がってるから」
「ありがとう」
「じゃあね。また来てよ?」
「分かってる」
「それならいいよ」
涼は椅子から立ち上がると、勝手口へと先行した。
風華とナナヤは必死で止めるけど、全然聞かない。
いつも通り、カラカラと笑って。
裏通りを歩いていると、風向きの具合で良い匂いが漂ってきたり、立ち消えたり。
それが次第に強くなってくると、三人も分かってきたようで。
「この辺かな」
「どうなんだろうね」
辻に出たところで、ナナヤは空気の匂いを嗅ぐ。
光も真似をして。
しかし、これだけ強くなれば、もうどこから来た匂いかも分からないらしく。
「お手上げだね。お姉ちゃん、よろしく」
「仕方ないな…」
風の向き、匂いの濃淡、その他に勘なんかも交えて。
うん。
あっちだな。
「分かった?」
「まあな」
「どっち?」
「こっちだ」
匂いの方向へ進んでいく。
辻を曲がってすぐの路地に入って、さらに曲がる。
そして、ひとつ裏の道に出てすぐに、目当ての看板が見えた。
「五十鈴屋って書いてあるね」
「ああ」
「丸鷹屋もあるよ。風華、どっちにするの?」
「えっ?えっと…五十鈴屋かな、まずは」
「そうだな」
「いきなり高級なのは難しいよね」
「そ、そうだね…」
「ん?どうしたの?」
「風華は、オレに気を遣ってるんだよ」
「あぁ、お姉ちゃんが財布なんだったね」
「オレを誘うくせに、オレが金を払うと畏縮するんだよ」
「あはは。まあ、風華らしくていいじゃない」
「うぅ…」
「まあ、とりあえず入ろう」
「うん」
まずは五十鈴屋から。
風華の気に入るお香が見つかればいいけどな。
…匂いに少し驚いている光の背中をそっと押して。
五十鈴屋に入った。