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「読まないの?」
「ん?あぁ、またあとでな…」
「もう…。さっきは読むって言ってたくせに」
「それはそうだけど…」
やはり、いざ読む段階になると、腰が引けてしまう。
本当に好き嫌いをなくす本なら、いくらでも読むんだけど…。
「せっかくの良い機会なのにね~」
「そうは言うけど…」
風華は、お腹いっぱいになって眠っている葛葉の尻尾をいじって。
私もサンの頬を引っ張ったりしてみるけど、あまり気は紛れなかった。
「んぅ…」
「そういえば、サンも金髪で赤目だよね」
「そうだな」
「葛葉と仲良くしてくれると嬉しいな」
「それは大丈夫だろ。うちの子たちは、みんな仲良しだ」
「ふふふ」
「なんだよ」
「いや、さっき読んだところにも同じことが書いてあったなって」
「仲良くしてほしいって?」
「うん。考えることは同じなんだなって思った」
「親っていうのはそういうものなんだろ。良い子になってほしい、みんな仲良くなってほしい。子供に理想を掲げているんだ」
「うん。でも、たいてい、その理想とはかけ離れてるよね、みんな」
「理想通りの人間なんていないよ。着せ替え人形じゃないんだ。いくら理想の服を用意されても、身体に合わないんじゃ着られないし、着る必要もない。理想の服を用意するのも大切だけど、着る服がないのでは困る」
「理想は、あくまでも理想ってこと?」
「そうだな。まずは、身の丈に合った服を探して、それから理想を追いかける。努力していれば、いつかは理想の服が身の丈に合った服になるかもしれない」
「ふぅん。それで、姉ちゃんが葛葉やサンに着せたい理想の服って何なの?」
「無病息災、家庭円満。たくさん遊んで、たくさん食べて、たくさん寝て。のびのびとした子になりますように」
「んー、そうだね。身近な理想が一番かもね」
「高望みは理想とは言わない。結局、身の丈に合った服が、理想の服なんだ」
「あっ、そうまとめるの?」
「別にどうまとめてもいいだろ」
「そうだけどね。ということは、みんな、私たちの理想の服を着てくれてるんだ」
「ああ。良い子たちだ」
理想らしい理想なんて必要ない。
今あるこの自然体が理想なんだから。
…サンの頬にそっと触れて。
お母さんも、同じことを考えてたのかな。
私や灯に。
もしかしたら、この日記に書いてあるのかもしれない。
そう考えると、自然と手が伸びて。
八月四日、晴れ。
紅葉が熱中症で倒れた。
長介によれば、非常に軽度であるとのことだけど、私との鍛練の途中で倒れたせいもあり、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
今は穏やかに眠っている。
灯は料理に興味を持ち始めたらしく、厨房にいる時間が長くなった。
そのせいか、好き嫌いも少なくなってきたから嬉しい限りだ。
この本も、もう書く必要はないのかもしれない。
「ん?あぁ、もうこんなに読んだのかぁ」
「ああ、そうだな。…それがどうしたんだ?」
「いや、速いなって思って」
「そうか?」
「うん。もうすぐ終わりじゃない」
「そうだな」
「姉ちゃんのお母さん、面白いこと書くよね~」
「そうだな」
「毎日欠かさず付けて…。マメなんだね」
「ああ。マメだ」
次をめくる。
そこにも、毎日のことが記されていて。
このあたりから、もうほとんど日記だった。
「もう書くことがなくなっちゃったんだね」
「好き嫌いをなくす方法についてはな」
「うん。それでも、書くことは毎日あるんだね。一言ずつでも、ちゃんと書いてある」
「何もない日なんてないからな」
また次をめくる。
…どうやら、次かその次あたりで終わりらしい。
「字が変わったね」
「ああ」
「どうしたのかな…」
「どうしたんだろうな」
字は格段に汚くなって、読みにくいことこの上ない。
十月二十四日、曇り。
代筆によるもの。
今日は、二人がお見舞いに来てくれた。
二人が摘んできてくれたフムルの花は、私の心の支えになってくれる。
紅葉によると、灯がゴボウを食べてくれたらしい。
これで、二人とも、私が思いつくものは全て食べられるようになった。
とても嬉しい。
字が汚い上に、ところどころ滲んでいたりして、読むのにも一苦労だ。
「………」
「次、行くぞ」
「…うん」
次をめくる。
どうやら、ここで最後らしい。
十一月五日、快晴。
代筆によるもの。
なんとか灯の誕生日に間に合った。
前々から欲しがっていた私の櫛をあげると、すごく喜んでくれた。
そして紅葉は、必ずこの国を守ってみせるから、と言ってくれた。
でも、せっかく格好良いことを言ってくれたのに、灯が横で泣いてたら意味ないよね。
涙は心の血。
私が付けてしまったこの傷は、きっと二人が支え合って治していくから。
だから、大丈夫。
そこで、日記は終わっていた。
でも、続きはあるらしく、次をめくった。
お前が死んでから一年経ち、娘たちもすっかり逞しく成長してくれた。
改めて、この本は私が持っているより、娘たちに託す方がいいだろうと思うんだが。
灯は調理班に入り、紅葉も立派に衛士長として働いてくれている。
私は衛士を辞め、下町で雑貨屋を営んでいるんだけど。
似合わないと思うかもしれないが、これはこれで楽しくやってる。
この本を通じて、あの子たちの近くで見守ってやってくれ。
私は、照れくさくてダメだから。
よろしく頼んだ。
…我が愛しの妻、一葉へ。
さらに、綺麗にまとまった字が続く。
私は今、調理班としてみんなのごはんを作ってるんだよ。
この本を読んでたらね、懐かしい気持ちでいっぱいになった。
最後の日を読むのは辛いかと思ったんだけど、意外と大丈夫だったよ。
気持ちの整理がついたからかな。
お墓参りに行ってなくてごめんね。
お姉ちゃんが、
墓にあるのは骨だけだ。
死んだ人は、私たちの心の中で生きてるから。
とか言って、行かないんだ。
でも、また今度、縄を掛けてでも連れていくから。
待っててね。
大好きなお母さんへ、灯から。
そして、白紙が一枚入って、"第一巻、了"と記されていた。
「第一巻…?」
「この本に手紙を書き込んだ日から、灯が第二巻以降を書き継いでいるんだろうな」
「そっか。でも、この白紙のところって…」
「私のために空けてくれているんだろう」
「じゃあ、書かないと」
「そう…だな」
止める間もなく、風華は墨と筆を取りに走って。
…お母さんへの手紙か。
初めて書くかもな。
「それで、本当にオレのために空けているのか?」
「そうだよ」
よっぽど急いでたのか、風華は気付かなかったらしい。
灯がそっと部屋に入ってくる。
「たまには、お母さんに手紙くらい書いてあげなさいよ」
「ここにも書いてあるじゃないか。私たちの心の中で、母さんは生きているんだ。手紙なんて書かなくてもいいだろ」
「ダメ。絶対に書いてもらうよ。それに、お姉ちゃんの手紙が入らないと、この本は完成しないんだから」
「はぁ…。仕方ないな…。それで、オレはこれを美希に借りたわけだが、どうしてオレには見せなかったんだ?」
「え?えっと…。あはは…。忘れてた…」
「そんなことだろうと思ったよ」
「ごめん…」
「…いいよ、もう。形はどうであれ、ちゃんと読ませてもらった。それで充分だ」
「…うん。ごめんね」
また謝る灯の頬を引っ張る。
お母さん譲りの綺麗な顔が台無しになって。
「ふふふ」
「もう、何が可笑しいのよ!」
「お前の顔」
「お姉ちゃん!」
最初は読むのが怖かったけど。
でも、今は嬉しい。
あの日、あの時に、お母さんが考えていたこと、思っていたことに触れられたから。
この本が役立つような、手強い子供たちも増えた。
でも、灯たちが続巻を書いてるみたいだから大丈夫だよ。
…じゃあ、最後になったけど。
今までありがとう。
これからもよろしく。
大好きなお母さんへ、紅葉より。
追伸。
お墓参りは、また必ず行きます。
そのときには、お母さんが好きなユヌトの花を持っていくから。
では、また。
"第一巻、了"