婚約を破棄した第一王子に起こる事・リアル編
自分勝手な婚約破棄は、大きな代償を伴うものです。
ざまぁされる側の第1王子の状況と心情に絞って追いかけてみました。
鬱状態の記述があります。しんどい話になっていると思いますので、気になる方は回れ右をお願いします。
婚約を破棄された令嬢に起こる事・リアル編
https://ncode.syosetu.com/n0103jk/
婚約を破棄された令嬢の父に起こる事・リアル編
https://ncode.syosetu.com/n4298kx/
の裏話になります。
「婚約を破棄する」
私は、国立学園の卒業記念舞踏会の会場すべてに聞こえるように声を張った。
シャンデリアの放つ明かりが、磨き上げられた大理石の床に反射して輝いている。
私が発した声も眩い明かりと同じように床にや壁に反射して、会場内に響き渡った。
楽団が奏でていた優雅な音楽は、その声とともに沈黙し、会場内の人の意識が私に集中するのが感じられた。
思えば、この時が私の絶頂期だったのだと思う。
父である国王陛下がご臨席される前に、既成事実を作っておきたかった。
私の側には、深紅のドレスに身を包んだリアーナが、興奮しているのか、紅潮した顔に得意げな笑みを隠すことなく、私と一緒ににレティシアを見下ろしている。
私は、その興奮に巻き込まれないように、落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせながら、次にレティシアを貶める話の内容を組み立てていた。
私の婚約者である公爵令嬢のレティシアは、ただ私を見つめたまま、立ち尽くしている。
まるで時間が止まったかのように、彼女だけがこの豪華絢爛な世界から切り離されているようだ。
何を言われているのか解らないようだが、今日でこの冷たく堅苦しい関係から解き放たれると思うと、とてもすがすがしい気分がする。
彼女の立ち竦む様子は、今の私には勝利の証と感じられた。
リアーナ嬢との出会いは、1年前の9月、学園の入学式だった。
入学式なので、学園までの道のりは、貴族たちの馬車で混雑しているだろうと少し早めに出立したのだが、予想していたよりも早く到着してしまった。
すこし時間があるならと、私は人目を避けるようにして、学園の温室に寄って行こうと足を運んだ。
まだまだ暑い時期なので、温室とはいっても大きな窓は開け放たれていて、まるで手入れの行き届いた小さな公園のようだ。
そこには休憩用のベンチやガゼボなども配置されている。
私は時々その場所を訪れる。できれば、人のいない時間が望ましいのだが、なかなかそのような機会は来ない。
今日は、入学式の前ということもあり、静寂が保たれており、絶好の機会かもしれないと思えた。
私は、温室の硬い木製ベンチに腰を下ろす。周囲の植物の青臭い匂いと、土の匂いが混じり合う。
しばらくすると、ふわふわした毛玉のような三毛猫が、警戒心なく私にすり寄ってきた。
足元にすり寄ってくる三毛猫は、とても人懐っこく、だれでもベンチに座っているとどこからともなく現れる。
猫好きの学生にとっては人気の場所なのである。
私ははっきり言って猫が好きだ。大好きだ。
しかし、私は立場上猫と戯れる事は難しい。
猫といると、どうしても顔が緩んでしまう。そんな姿を他の学生に見られて侮られるわけにはいかない。
私は第1王子なのだから。
そんなときに、背中側の生い茂っている植物の間から、ガサガサッと不自然に葉を踏み分ける音がして、女子生徒が葉を制服や髪にまとわりつかせながら現れた。
私は、音がした時にはベンチから立ち上がり、格闘術の構えを取ったが、見えたのが女子生徒なので、体から力を抜いた。
足元にまとわりついていた三毛猫は、立ち上がった時にさっと離れて行ってしまった。
「ごっごきげんよう」
女子生徒は、私がいたことにも驚いた様子で、頬を赤らめながら、学生同士がしている挨拶を私にしてきた。
その女子生徒の手には、小さな毛玉のような真っ白な子猫が抱えられていて、見るからに具合が悪そうだった。
私の猫を見る目が厳しくなったことを感じたのか、その女子生徒はなぜだか言い訳を始めた。
「ちょっと迷子になりまして、入学式の会場を探していて、この温室にさまよいこんでしまったんです。
そうしたら、みーみーというかぼそい鳴き声が聞こえて、探してみるととても具合の悪そうなこの子を見つけてしまったんです」
その子猫をよく見てみると、生まれてからさほど日がたっていないように感じた。
猫好きとしては、もちろん、この小さな命を見捨てることなんかできるはずがない。
私はすぐに温室の作業小屋へ、その女子生徒と急ぎ、温室の管理者にその子猫を預けることができた。
作業小屋には、数匹の猫がおり、温室の管理者はしっかり面倒を見ると約束してくれた。
温室の管理者は、私の事を知っていたようで、私が訪ねると慌てて直立不動になって、「何か御用でしょうか、アレクシル殿下」と応答した。
その呼び方で、隣にいた女子生徒も私が誰だかわかったようだ。彼女の顔色はさっと青ざめた。
その後は、先ほどまでの勢いは消え失せ、とても緊張した様子で、私と視線を合わせることもなく、言葉も交わせない感じになっていたが、
私はあえて、普段公務で使うよりも少しだけ柔らかい声色で、「ありがとう、君のおかげで可愛い子猫の命が助かる。私はとても感謝している」と伝えた。
彼女は驚いた表情になり、その後に安堵と喜びの入り混じった笑顔で、「殿下のおかげです。私はどうしていいか解らなかったのです。こちらこそ、ありがとうございました」と答えた。
その瞬間、彼女の笑顔の裏に、私が普段接する貴族令嬢たちとは違う、打算のない純粋な光を見たような気がした。
入学式には問題なく間に合った。
その入学式で第1王子としての形式的な挨拶を終えると、他の用事は無かったので、頭の中で引っ掛かっていた朝の子猫の様子を見に、再び温室の作業小屋へと足を運んだ。
小屋の古びた木の扉を開ける。そこには、思いがけない光景が広がっていた。
朝の女子生徒が、丸太を加工した簡素な椅子にもたれかかるようにして、穏やかに眠っていたのだ。
彼女の膝の上には、朝はぐったりしていた白い子猫が、すっかり落ち着いた様子で丸まって、すやすやと寝息を立てている。
開け放たれた窓からは心地よい風が吹き込んできており、影を落とした椅子のところは暑さを感じずに済むようだ。
まるで一枚の絵画のような、平和で、おだやかな光景だった。
私は少しの間、その様子を見つめていたが、起こさないようにそっと近くにあった別の椅子に腰を下ろす。
猫が好きなのだろう、彼女の制服のスカートには、よく見ると猫の毛が微かに付着していた。
その無防備な姿と、小さな命に寄り添う優しさに、私の心の氷のような部分が少し溶けた気がした。
どれくらい時間が経っただろうか。子猫が「みゃあ」と小さく鳴き、身じろぎしたことで、彼女はゆっくりと目を開けた。
眠たげな目で私を認めると、一瞬で「殿下!」と飛び起きそうになったが、膝の上の猫を見て動きを止めた。
「……ごきげんよう、殿下。申し訳ありません、うたた寝をしてしまって……」
「構わない。子猫の様子を見に来ただけだ」私はそう答え、膝の上で再び眠りについた子猫を指し示した。
「もう大丈夫そうだ。君のおかげだな」
彼女はほっとしたように微笑んだ。
朝とは違い、少しだけ緊張が和らいだ空気が流れる。
私は、彼女の純粋な笑顔にもう一度触れたいと思い、自然な流れで尋ねた。
「そういえば、まだ名前を聞いていなかったな。私はアレクシル。アレクシル・アンジュ―だ」
「えっ、えっと!私は、リアーナ・ベルンハルトと申します」
リアーナ嬢。その名前が、私の記憶に深く刻み込まれた瞬間だった。
私たちは子猫の話題を中心に、他愛のない会話を交わした。
猫の種類、好きな仕草、王宮では猫を飼うのが難しいこと……
普段は決して話すことのない、個人的な話題ばかりだった。
温室の静かな時間は、私にとって何よりも貴重なものになった。
この日以来、私たちは温室で落ち合うことが自然な習慣となった。
婚約者である公爵令嬢のレティシアは、猫が嫌いのようだった。
彼女との会話は常に、政治、社交界のルール、未来の王妃としての務めといった、堅苦しい話題ばかりだ。
決まったことはしっかりこなすが、全く隙を見せない。
完璧すぎて、暖かさを感じることができない。私はいつも彼女の前では仮面を被っていた。
それよりは、リアーナとの時間に心惹かれていた。彼女といると、第一王子ではない「一人の男」に戻れる気がした。
いつしか、温室でリアーナ嬢の屈託のない笑顔を見るたびに、私は真剣に考えるようになっていた。
この暖かく、純粋な心を持つ女性を、自分の隣に立たせるにはどうすればいいか。リアーナを婚約者にするにはどうすればいいか、と。
完璧なレティシアは、学園の生徒会の一員でもある。
生徒会長は私なのだが、実質的な仕事はほとんど彼女、レティシア・アーロントン公爵令嬢が片付けている。
書類仕事、予算管理、教師陣との折衝……
私がこなさなければならない事など、形ばかりの署名ぐらいしかない。
その完璧さが、今の私には耐え難い。
欠点のない氷の彫刻のような彼女の存在が、リアーナの隣で感じた温もりを、ますます恋しくさせた。
私は、この完璧な婚約者を「罠」にはめるために、策を練り始めた。
狙うは学園最大のイベント、学園祭だ。
レティシアの家、アーロントン公爵家は、王都でも指折りの大貴族であり、お抱えの商会がいくつもある。
学園祭の納入業者を、生徒会長権限でアーロントン公爵家のお抱え商会に変更しよう。
学生が主体で行う学園祭とはいえ、王立で最高峰のこの学園だ。経費も膨大なものになるだろう。
そこでの細かいお金のやり取りは、きっといい加減になるに違いない。
年に一度の祭事の混乱に乗じれば、外部監査も行き届かない。
良く調べることもできないだろうから、その混乱の中で帳簿を操作し、公爵家が「私腹を肥やした」という虚偽の証拠を作り上げて断罪できないか?
私の脳裏には、策略が次々と浮かんだ。
第一王子の婚約者の座から引きずり下ろされ、憔悴しきったレティシアの顔を想像すると、胸のすくような思いがした。
一方で、リアーナに対して、レティシアは何か心ない言葉を浴びせたようだ。
レティシアは私に、細かい日常の出来事は話さないが、温室でリアーナが涙を浮かべて泣きついてきたことは、1回や2回ではない。
私が見ていないところで、レティシアはリアーナを傷つけている。その確信が、私の復讐心をさらに燃え上がらせた。
私はこの国の第一王子だ。
この計画が多少甘く、強引であったとしても、王家の権威を盾にすれば、レティシアと強引に別れることはできるだろう。
私は自分の身分と権力を利用することを厭わなかった。
別れさえすれば、純粋で温かいリアーナと一緒になる未来が、すぐそこに見えてくる。
その未来だけが、今の私の全てだった。
そして、卒業記念舞踏会、断罪の日は、予定通りにやってきた。
「婚約者として、アーロントン公爵令嬢レティシアを私は許せぬ」
私は、列席する貴族たちの前で、高らかに宣言した。
「リアーナ嬢に対する、身分を笠に着たいやがらせの数々のみならず、学園祭の費用を個人の都合で融通し、私腹を肥やすなど、到底許せるものではない」
会場の視線は、すべてレティシア一点に集中していた。目論見通り、彼女は反論の余地がないはずだ。
「反論があるなら申してみよ」
私は優越感と共に言葉を続けた。
しかし、公爵令嬢レティシア様は何も言わずに、ただ静かに佇んだままだ。
その沈黙は、彼女の罪を認めているようにしか見えなかった。勝利を確信した、その時だった。
「兄上、そこまでになさってください」
場の空気を切り裂いたのは、第三王子、ヴィンセントの声だった。
私は驚き、彼の方を向いた。ヴィンセントは、いつもの柔和な笑みを完全に消し去り、真剣な眼差しを私に向けていた。
「このような場で、公爵令嬢に声をかけたこと、お覚悟と重要さは、周りの方々にしっかり伝わったことでしょう」
彼はそう言うと、レティシアの方へ視線を移した。
「その公爵令嬢は、体調が悪そうだ。」
確かに、レティシアの顔は紙のように青ざめている。ヴィンセントは周囲にいた生徒たちの一人に目配せした。
「そこの君、公爵令嬢を控えの間に案内して差し上げろ」
突然のヴィンセントの介入により、私の断罪劇は中断された。
レティシアは、まるで操り人形のように力なく頷き、支えられながら会場を後にする。
私は怒りに震えたが、ヴィンセントの正当な介入を公衆の面前で拒否することはできなかった。
計画は狂い始めたのだ。
静寂が支配する舞踏会場に、重々しい足音が響き渡った。
「国王陛下、ご臨場!」
その声に、張り詰めていた空気はさらに凍りついた。
父である国王陛下が、近衛兵を引き連れて最前列に進み出る。
私は胸を張り、陛下に一礼した。
計画通り、陛下が到着される前に婚約破棄を宣言したが、事後報告として改めて伝える必要がある。
「父上、このアレクシル、公の場で申し上げます」私は声を張り上げた。
「アーロントン公爵令嬢レティシアとの婚約を、本日をもって破棄いたします」
国王の眼差しが私に注がれる。
それは冷たく、感情の読めないものだった。
私は長々と、レティシアの不正やリアーナへの嫌がらせについての言い訳を話し始めようとしたが、その途中で遮られた。
「余は、この場での議論は望まぬ」国王の声は低く、しかし会場の隅々まで響き渡った。
「アレクシル。貴様の軽率な行動は、王家の品位を貶めた。貴様は直ちに自室へ戻り、余の沙汰を待て。それまで、一切の外出を禁ずる」
それは事実上の蟄居命令だった。
私の計算は、父の威厳の前では無意味だった。
悔しさに歯を食いしばりながら、私はその場から退散するしかなかった。リアーナの心配そうな視線が、背中に突き刺さる。
翌朝。
自室で待機させられている私は、思ったようにならなかった昨日を思い、絶望的な気分だった。
そんな中扉が開き、父である国王と、アーロントン公爵が入ってきた。
公爵の顔は怒りで歪んでいた。
「昨日は、大変な真似をしてくれたな、アレクシル」国王が冷ややかに言い放った。
「申し訳ありません、父上。ですが、レティシアの非行は目に余るものが……」
「非行だと?」公爵が低い声で唸るように言った。「我が娘が、不正など働くはずがない! 王子殿下の身勝手な妄言だ!」
「証拠ならあります!」私は内心の焦りを隠そうと必死だった。
「学園祭の納入業者を公爵家お抱えの商会に変更し、そこで私腹を肥やしたことは明白です!」
実は、帳簿の捏造などはしていない。
どうせ王家直属の調査でも入らなければ、学生主体の杜撰な予算管理では調べられるものではないと思ったからだ。
口だけで「私腹を肥やした」といえば、確かに身内の商会が利益を上げているのだから、嘘ではないと思った。
「明白だと?」国王の目が細められる。「では、その証拠を出せ」
「証拠などなくとも、状況からして明白でしょう!」私は感情的になっていた。
公爵家の商会が学園祭で大きな利益を上げたのは事実だ。それが何よりの証拠だ。
国王は私を睨みつけた。「では、調べてみろ」
彼の合図とともに、部屋の外から次々と大勢の人間が入ってきた。
彼らが抱えていたのは、山のような申請書、物品の購入記録、そして分厚い帳簿の束だった。
それらは無慈悲にも私の目の前に積み上げられていく。
「婚約は、余が決めたこと。国家の未来に関わる重要な政だ」国王の声が部屋に響き渡る。
「なんの証拠もなく、勝手に国王の意思を翻すなど、この王国の運営にあってはならない事だ。第一王子の自覚があるなら、きっちり証拠を出すがよい」
「父上……」
「いつまでに証拠を出せる?」公爵が冷笑を浮かべて問い詰めた。
「い、一週間後には……」
私の声は震えていた。
この膨大な資料の中から、でっち上げた不正の証拠を見つける? 不可能だ。
だが、引き下がる選択肢もなかった。
帳簿の捏造などはしていないので証拠は見つからないと思う。
だが、私の知らない所で誰かが本当に不正をしているかもしれない。とりあえず、不正の確認をしている所を見せよう。リアーナをいじめた件もある。1週間だけ我慢すれば、国王も話を聞いてくれるに違いない。
その日から、私の地獄のような日々が始まった。
部屋には次から次へと書類が運び込まれてくる。
学園の書類だけではない。商会側の書類もどんどん運ばれてくる。とても一人で見るのが間に合う量ではない。
時々、公爵やその部下がやってきて、進捗を確認されるので手が抜けない。
ちょっとうとうとしていると、「証拠は出ましたか、殿下?」と問われる。
申請書などの資料と、物品の購入記録と帳簿を擦り合わせる作業が続く。
だんだん目が痛くなってくる。頭痛でこめかみがズキズキと痛み、世界は書類の色に染まっていた。
どんなに疲れても、休む理由は思いつけない。
この屈辱的な状況から逃れることもできず、私はひたすら書類と格闘する日々を送った。
だが、そもそも、今まで生徒会業務の全てをレティシア任せにしていた私だ。
書類に目を通しても、専門用語や会計処理がまるで理解できない。
申請書が何を意味し、帳簿の数字が何を指し示しているのか、その意味を理解するところから始めなければならなかった。
一向に進まない確認作業。焦燥感が私の喉を締め付ける。
あっという間に1週間が過ぎた。
「間違いは見つかりませんでした」と国王に報告したところ、
「見つかりませんでしたでは済まない。すべての書類を確認してから再度報告せよ」と言われ、
終わりの見えない作業を続けることになった。
そんな地獄のような日々の中、日付が変わる頃になると、唯一の光のようにリアーナが訪ねて来てくれる。
「アレクシル様……」
彼女は今、レティシアに代わり、受けることになった王太子妃教育の重圧に晒されているようだった。
最初は、これで晴れて彼女が私の隣に立てる、と明るい未来を夢見ていたのだが、彼女の表情は日を追うごとに翳っていく。
王族としての振る舞い、歴史、政治、そして複雑な王宮のしきたり。
それらは、温室で猫と戯れていた純粋な彼女にはあまりに過酷なものだったようだ。
訪ねてくるたびに、彼女の口から出るのは教育係の厳しい指導に対する愚痴と、弱音ばかりになった。
「私には無理かもしれない」と呟く彼女を見るたび、私は苛立ちと同時に、自分もまた無力であることを痛感していた。
夜中ではあるが、二時間は一緒にいれる。
だが、常に厳しい目をした護衛騎士が同席しているため、あの温室のような甘やかな雰囲気にはできない。
形式的な会話しか交わせず、彼女の頬を伝う涙を拭うことさえ許されない。
私の部屋は、膨大な書類の山と、リアーナの弱音、そして私の無力感によって、息苦しい空気に満たされていた。
私はこの状況を打破しなければならない。レティシアを断罪し、すべてを元通りにする以外に道はないのだ。
絶望的な書類との格闘が続く中、私の疲労困憊した姿は隠しきれなかった。
そんな様子を見ていた、公爵が私の執務室に現れた。
「殿下、部屋に籠ってばかりいては、体力が落ちるのではないでしょうか?」
公爵は感情の乗らない声でそう言うと、形式的な提案をした。
「どうでしょう、騎士団の朝の訓練に参加されては。今まで通りの騎士団の訓練も必要ですよね。
昼間は執務としての時間が必要なら、訓練は早朝に行うしかないのではないですか?」
それは提案という名の命令だった。反論の余地はない。
こうして、私は毎朝、太陽が昇る頃から騎士団の訓練に参加させられることになった。
日が昇り、窓の外が白み始める頃になると、決まって騎士団の若手たちが遠慮なく私の部屋まで起こしに来た。
彼らは騎士団長から「へなへなな王子はこの国には必要ない。朝からシャキッとさせよ」と厳命されていたようで、一切の遠慮がなかった。
「殿下、時間です!」
彼らは私をベッドから文字通り「担ぎ出し」、問答無用で訓練場へ連行した。
私の第一王子としての威厳は、もはや微塵も残っていなかった。
朝露が降りた訓練場で、私は連日、限界まで追い込まれた。
騎士団長の目は常に私を監視しており、少しでも手を抜けば、厳しい叱責が飛んでくる。
汗と泥にまみれ、筋肉の痛みで歩けなくなるほどだったが、書類に向かう精神的な苦痛から一時的に解放される、唯一の時間でもあった。
そんな状況が、一ヶ月続いた。
書類の山は未だ片付かず、肉体的な疲労は極限に達していた。
私の計画は完全に頓挫し、未来は闇の中だ。
夜明け前から始まる騎士団の朝練。
その後、深夜まで続く書類との果てしない格闘。
そして、日付が変わる頃に訪れるリアーナの愚痴を聞く時間。
そんな生活が続くにつれ、私の心身は限界を超えていた。
なぜだか、一日に確認できる書類の量が、日に日に少なくなってきた。
脳が情報を処理することを拒否しているようだ。
目の前にはまだ膨大な山が積み上がっており、終わりは全く見通せない。
書類は、確認すればするほど、驚くほど正確に処理されていて、一部の隙も無い。
レティシアという女は、これほどまで完璧に業務をこなしていたのか。
今更ながら、学園時代の自分の愚かさ、彼女への無関心さに気が付き、激しい自責の念に駆られる。
私はこの状況を終わらせるために、自分の中で「一日分の書類」という作業ノルマを決めていた。
書類の山を大雑把に等分し、三〇日くらいで全て確認できると踏んでいたのだが、そのノルマがだんだんこなせなくなってきた。
このままではいつ終わるか解らない。
自分で決めたはずのノルマすらこなせないという無力感が、私を深く打ちのめす。
こんなはずではなかった。いつまでこの状況が続くのか。
いつ、私は間違えた? もっと違うやり方は無かったか?
渦巻く後悔と不安が、私の精神を蝕んでいく。
睡眠不足は限界に達し、頭痛と吐き気に悩まされるようになった。
そんな折、夜になると現れるリアーナの愚痴が、うっとおしく感じられるようになっていた。
なぜリアーナは、私がこんなに疲れているのに寝かせてくれないんだ。
なぜ夜中に来る。私のことを考えてくれてもいいのに。
私の能力が落ち、自分で決めたノルマすらこなせないという惨めな話は、彼女にはできない。
見放されたくない。しかし、会いたくない。彼女の声すら、今の私には騒音に聞こえる。
朝もそうだ。騎士団の朝練についていけなくなってきた。
足手まといになっているのは明らかだ。騎士団員に馬鹿にされている気がする。
彼らの視線が怖い。私は自分の部屋に閉じこもりたい。
書類も訓練も、リアーナにも会いたくない。人との接触そのものが、今は恐怖でしかなかった。
公爵からの進捗確認は、1日数回やってくるが時間は決まっていない。
私は、頭痛と吐き気を堪え、その時にはまだまだ元気な風を装わなければならない。
「順調に進んでいる」と嘘をつき、形式的な笑顔すら貼り付ける。
公爵は、何も悪い事は出てこないと分かりきっているだろうに、私に確認させるのは不敬ではないか?
彼もまた、私を追い詰めることを楽しんでいるのか? 疑心暗鬼が募る。
私はまだできる。こんなところで、みじめに躓いたりはしない。
書類の確認を終わらせて、問題が無かったとしても、その先にはリアーナとの未来があるんだ。
あの温室の温もりを、私は手放せない。それが、唯一の希望の光だった。
だが、体は正直だった。
リアーナが退室するのは、毎日夜の2時くらい。
前までは張り詰めていた緊張が解け、すぐに眠れていたのだが、最近は寝付けなくなった。
頭の中を後悔と不安の言葉がグルグルと駆け巡り、一睡もできない夜が続く。
うとうとしているうちに、窓の外が白み始め、騎士団の若手が起こしにやってくる足音が聞こえる。
その足音にも恐怖を感じる。これから始まる1日を思うと、辛い。
朝練後の朝食も、喉を通らない。食欲そのものが失われていた。
無理やり食べようとすると、胃が拒絶反応を起こし、戻しそうになる。
そして、一ヶ月と少しが過ぎた、ある朝。
私は、動けなくなった。
いつものように、騎士団の若手が起こしに来た時に、私の異常に気が付いたようだ。
彼らが私を揺り起こすが、全く体が言う事を聞かない。
意識はあるのに、手足に力が入らない。ベッドから引っ張り出されても、脱力したまま起き上がることができない。
まるで魂だけが抜け落ちてしまったかのようだ。
「……離せ……」
蚊の鳴くような声しか出ない。彼らの焦った顔が見えたが、どうでもよかった。
もう、私なんてこの世から消えていなくなっても、誰も困らない。
第一王子だなんて担がれても、私は何もできない。
愚かで、無力な私には、生きている価値なんてない。
騒ぎを聞きつけた侍従たちが慌てふためき、王室御用達の典医が呼ばれることになった。
私は虚ろな目で天井を見つめながら、これでようやく、すべてから解放されるのだと思った。
呼ばれた王室典医は、私の青白い顔色と、動かなくなった体を見て、詳しく診察した結果……
「これは、極度の心労による「気鬱の病」でございます。心身ともに限界を超えておられます。絶対的な休養が必要です」
医師の言葉に、公爵、そして国王も、沈痛な面持ちになった。
彼らは私を責め立てるどころか、静かに状況を受け入れた。
私は、書類の山から解放される安堵と、第一王子としての役目を果たせなかった絶望感に襲われた。
その日のうちに、私は王城の喧騒から離れた、静かな離宮へと移されることになった。
同時に、私の策略の「共犯者」であったリアーナの処分も検討された。
彼女は、第一王子の道を誤らせた「悪女」として、何らかの罰を受けるはずだった。
しかし、事態は以外な方向に転がる。
「殿下をお一人になんてできません! 私が殿下のお世話をさせていただきます!」
リアーナは涙ながらにそう訴え、自ら望んで離宮で私を支えることが許されたのだ。
こうして始まった離宮での療養生活。
日差しは穏やかで、静寂が広がっている。
私は極力休むことを指示され、ただ窓の外の庭園を眺めるだけの日々。
そんな中、リアーナは献身的に私の世話を焼いてくれた。
朝から晩まで付きっきりで、体調を気遣ってくれる。
当初は、彼女の存在が唯一の癒しだと思えた。
しかし、今となっては、私は彼女との時間に息苦しさを感じていた。
リアーナは、今の状況を「二人だけの時間」として前向きに捉えているようだが、私には彼女の笑顔が、私をこの場所に閉じ込めている鎖のように感じられた。
私が国王の後継者の座から転落したことで、彼女は望まぬ王太子妃教育から解放されたのだ。
彼女は本当に、私のことを純粋に愛してくれているのだろうか?
私は、動かない体を横たえながら、窓の外の青空を見上げていた。
この療養生活は、いつまで続くのだろうか。そして、これは本当に「休養」なのだろうか。
療養生活が始まってしばらく経った頃、私は窓の外の庭園に、見覚えのある白い影を見つけた。
あの学園の温室にいた、真っ白な子猫ではないか?
どうやってここに来たのかは分からないが、彼は気まぐれに離宮の庭を散策していた。
私は、傍らで献身的に世話を焼いているリアーナに、その猫のことを伝えた。
「リアーナ、あの猫、温室の子だ」
リアーナも驚いた様子だったが、すぐに表情を和らげた。
「不思議ですね。もしかしたら、殿下のことを心配してついてきてくれたのかもしれません」
私は重い体を起こし、窓辺に腰掛けた。
リアーナが庭に出て、猫に手招きする。警戒しながらも近づいてきた猫は、すぐに彼女の足元にすり寄っていった。
その様子を眺めているうちに、私の凍りついた心が微かに解けていくのを感じた。
「……私も、触ってもいいだろうか」
掠れた声で私が言うと、リアーナは嬉しそうに頷いた。私は震える足で庭へ降り、ベンチに腰を下ろした。
膝に乗せられた猫の温もりは、何よりも柔らかく、私を深く安堵させた。
猫との触れ合いは、私にとって最高の特効薬となった。
私は毎日、日がな一日、庭園のベンチで猫と戯れるようになった。
猫は私を第一王子として扱うこともなく、ただそこにいる人間として接してくれた。
その無垢な瞳と、喉を鳴らして甘える仕草が、私の心を深く癒していく。
次第に、胃のつかえが取れ、食事が喉を通るようになった。
夜も、猫を抱いて眠ることで、久しぶりに深い眠りにつくことができた。
私の顔色は徐々に回復していき、やつれていた頬も少しずつふっくらとしてきた。
体力が戻り、私は離宮の庭園を少しずつ散歩するようになった。
猫との穏やかな日々は、私から第一王子の重圧を取り除き、本来の自分を取り戻させてくれた。
私は、人間にとって本当に大切なものは何だったのか、そして、自分が何をしたかったのかを、ようやく静かに考え始めることができたのだ。
ぱぱの話を書いた後、アレクシル殿下が落ちぶれていく話を考え続けたのですが、
いやーここまで物事を考えないで実行に移す第一王子だったとは、書いてる最中に気が付きました。
レティシア&コートニーで元気になっていく過程の話は次回




