第十二話 綺麗な世界
遠い記憶の中、わたしは彼の手を引いて歩いていた。
ローネリアの庭園、草花が彩る箱庭を、二人手を繋いで歩いていた。
わたしはアルノーンと一緒に庭を探検するのが楽しくて、アルノーンの手を引いてぐんぐんと先に歩いていく。
――――ハナ……! もうちょっとゆっくり……! 転んで怪我したら危ないよ……!
――――大丈夫よ。こんな所で転んだりしないわ。ほら、あっちの方に行きましょう
わたしはアルノーンより二歳年上。
この頃は背もわたしの方が大きくて、歩幅もわたしの方が広くて、わたしの方がずっとお姉さんだと思っていた。
わたしはアルノーンの手を握って歩く。
彼はわたしの歩幅に合わるように大股で歩いて、地面に躓いた。
――――わっ
彼が地面に倒れる。その拍子にわたしの手は彼の手を離れ、アルノーンは頭から地面に倒れ込んだ。
見事な転倒だったが、土が柔らかいおかげで傷は無い。
――――もう、アルノーンはドジなんだから
違う。転んだのはアルノーンのせいじゃない。
わたしの歩幅に合わせようとしたから、地面に躓いてしまったのだ。
本当はわたしのせいなのに、馬鹿なわたしは少しも気付かずに――――
――――えへへ、転んじゃった
彼の優しい言葉に騙されてしまうのだ。
転んだアルノーンは儚い笑顔を浮かべている。
その天使のような微笑みに魅せられて、わたしはいつも、彼の手を取ってしまう。
――――ほら、立ってアルノーン。あっちに綺麗な花があるのよ
転んだ彼に手を差し出す。わたしの手を取って、アルノーンは立ち上がった。
アルノーンはいつも、無邪気にわたしの手を握る。
わたしの我儘に応えるように、いつも手を繋いでいてくれるのだ。
わたしはずっとアルノーンと一緒にいたくて、彼をわたしのものにしたくて、強く彼の手を握る。
彼の小さな手が軋みを上げているのにも気付かずに、強く強く力いっぱい握るのだ。
――――早く早く。すごい綺麗な花なのよ。アルノーンもきっと気に入るわ
――――う、うん……!
壊れそうなほど強く彼の手を握って、わたしは歩いていく。
いつかアルノーンの手を握りつぶす、その日まで。
***
閉め切った部屋。わたしはベッドの中で身を丸くして、現実から逃げるように惰眠を貪っていた。
何も考えたくない。考えてしまえば、わたしの中の何かが壊れてしまう。
そんな気がして、ベッドの中で蹲っていた。
「ハナ、お昼パンとご飯どっちが良い?」
毛布越しに聞こえてきたのはレナの声。
「……どっちでも良い」
「じゃあ、パンにするね。一緒に食べよ。メアリーさーん! パンでお願いしまーす!」
わたしはずっと素っ気ない返事しかしていないのに、レナは一向にわたしの側を離れない。
ずっとベッドに座って、何かと話題を振ってくる。
閉め切ったこの部屋を狙撃なんてできっこない。別にずっとわたしの側に張り付いていなくたって良いだろうに、彼女はずっとここにいる。
「ねえ、レナ」
胸の中から込み上げる何かに突き動かされて、わたしは彼女の名前を呼んでいた。
「ん、何?」
ベッドに座って私を見下ろすレナの瞳と目が合った。
両目で色の違う瞳は吸い込まれてしまいそうなほど美しくて、その煌めきにどうしようもないほど焦がれてしまう。
身分なんて関係無い、正真正銘の強さと才能に、狂いそうなほど憧れてしまう。
わたしもそうであったらと、思ってしまう。
「レナは騎士さんのことが好きなの?」
そんな羨望を覆い隠すように、少し意地悪な質問をしてみた。
「へ!? え、いや、あー、それはね、もちろん大事な仲間だから。そりゃそれなりの絆はあるっていうか、別に特別な感じではあるというかないというか……」
予想外の質問だったのか、レナは両手を激しく振ってあたふたする。
なんて可愛らしい人なのだろう。まるで、穢れの無いお姫様みたい。
純粋で透明で美しく、きっと誰も彼女を穢せない。
「シェイルとも会ったばっかりだし。別に、好きとかそんなんじゃ……」
レナは両手の人差し指を突き合わせて、モジモジと身をよじっている。
薄っすらと赤く染まった頬は恋する乙女そのもの、なんて言ったら、彼女はどんな顔をするだろうか。
「この護衛任務で初対面だったの? もっと前から付き合いがあると思ってたわ。二人共すごい仲良しだったから」
「あー、うん。初対面っていうか、一回だけ会ったことあるんだけど。多分、シェイルは覚えてないかな」
そう語る彼女の顔はどこか寂しそうだった。
夜空の下で背伸びして、掴めやしない星に手を伸ばすような、そんな複雑な顔だった。
レナが思い起こす記憶の中で、あの騎士はどんな顔をしているのだろう。
騎士さんの思い出の中で、この魔術師はどんな姿をしているだろう。
きっと、どちらも負けず劣らず美しい。釣り合いの取れた美しい色彩を二人共纏っているのだろう。
「だからって、別に全然特別なアレでは全くないですけどね。他意無しの百パーセント友愛みたいなアレだから……」
鈴の音が鳴るような呟きに、胸を裂かれる。
騎士さんとレナが惹かれ合っているのは、何となく分かってはいる。
昔から、こういう勘は外さないのだ。わたしの勘がどうこう以前に、レナは流石に分かりやすすぎるけれど。
どうあれ、二人は互いのことを求めていて、対等な立場で手を伸ばし合っている。
お互いに望んだ通りに、願った通りに願われて、求める未来への道は透き通っている。
それは、なんて、羨ましい。
「綺麗ね。――――本当に綺麗」
人は自分の願いを叶えるために生きている。
だから、普通の世界なら、人は願った人と結ばれる。
結ばれたいと願った人達が結ばれるのだ。それが世界の理で真理。
そういう当然の理や真理を捻じ曲げるサーガハルトとかいう外道には、天罰が下ってしまえば良いのに。
「わたし、レナみたいには……」
アルノーンの願いなんて関係無く、彼はわたしのものになる。
それがたまらなく嬉しくて、嬉しいと感じる自分が醜く思えて仕方ない。
いっそ罪悪感に浸って婚約を破談にしてしまえれば良かった。多分、それは許されるから。
でも、わたしはそうできない。そうしない。
欲しいのだ、彼が。
白く透き通る肌を、宝石のような瞳を、細く引き締まった肢体を、彼の全てをわたしのものにしてしまいたい。純白の彼をわたしの手で穢したい。
あの時、わたしに向けて放たれた矢がアルノーンの肩を抉った時、罪悪感よりも先にわたしの脳髄を満たしたのは、途方も無い快感。
アルノーンがわたしを庇ってくれた。わたしを助けてくれた。尽くしてくれた。
その言い表しようも無い快感を誤魔化すように、わたしは自罰の言葉を吐き続けた。
わたしは彼の負傷を悲しんでいると、彼の傷を喜んでなどいないと、自分自身に言い聞かせるように。
そんな醜くて度し難い欲望こそが――――
「綺麗だよ」
坩堝に嵌った思考を断ち切るように、レナの声が響いた。
揺れる風鈴のような声音が頭蓋の中でキーンと響く。
冷えたグラスを優しく指で弾いたみたいだ。
「ハナも綺麗だから」
レナが言ったのはたったそれだけ。
たったそれだけの月並みな言葉に、なんだか心が洗われる気がした。
優しく頭を撫でるレナの指先がくすぐったくて、わたしは寝返りをうった。
レナーテット・リーレン、痛い所を突かれると早口になる癖があります。




