海の子――私は、死ぬなら海がいい。
海は危険だ。彼らがいるから。戦争が始まったあの日を境に、 彼らは突然現れた。軍艦も漁船も、それどころか手漕ぎボートでさえも、彼らの獲物だった。海には彼らがいる。そして隙あらば私たちを喰らおうと、そこここに潜んでいる。
彼らが何で、どこから来たのかはわからない。明確に分かっているのは、私たちの敵だということくらい。一説には海の深淵から現れたとか――与太話だと最初は笑っていたものだ。
水面は眩しく、海底は闇の中。私はくるりと仰向けになり、水の向こうの空に手を伸ばした。揺れる光は手のひらの内側で砕け、泡になり、そしてやがて、私の手は水の抵抗を突き破る。空中に突き出された腕に引っ張られるようにして、私の顔が水の中から脱出した。空になった肺の内側に、塩辛い空気が流れ込んでくる。
海に漂う生命の死の匂いは、昔から私を取り巻いていた。しかし、慣れることはできなかった。この匂いは、いつだって新鮮なのだ。あまりにも多くの命が、この海で失われすぎた。いや、今もなお、失われ続けている。彼らによって――。
だからこそ、私のような存在が必要なのだ。
水平線のすぐ上のあたりに灰色の軍艦が見えた。
先月の頭に損傷して、命からがらこの湾に逃げ込んできた艦だ。応急修理が終わって、今日出て行くことになっていたはずだ。
陽光を受けたその姿は、さながら蜃気楼のようにじりじりと揺らめいていた。艦の名前なんて知らない。だけどそれはまるで山のように大きくて、都市が丸ごと一つ乗っかってるんじゃないかって、そんな風にさえ思ってしまった。
だけどそんな軍艦の力をもってしても彼らとは戦えない。軍艦は軍艦とは戦える。だけど、水の底から這い寄ってくる彼らに攻撃を加える術がないのだ。せいぜいが逃げながら爆雷を一斉投下するくらいしか――。
私たち、通称「海の子」たちは、彼らに対抗するための秘密兵器だった。海と高い親和性を持ち、そしてまた彼らが強く興味を持つ存在、それが私たち「海の子」なのだ。
執拗に頭を焼こうとする太陽に目を細め、私はまた軍艦をじっと見る。彼らの存在は感じられない。このままこの湾を離れてくれればいいのだが。私がいま海に潜っているのも、索敵のため――そして万が一彼らがいた場合に撒き餌となるためだ。
「今日みたいな日がいいな」
明るくて、眩しくて、あったかくて、海が気持ちよくて。
ハナもミチもソラも、みんな荒れた海で逝った。私たちの亡骸は誰にも拾えない。トトツートト、トトツートトのト連送だけを残して私たちは消えるのだ。ああ、いや、ミチの時だけは腕を一本拾えたっけ。
「私も死ぬなら海がいい」
戦争に駆り出されているのは若い男の人ばかりじゃなかった。戦争が始まったあの日、私は十一歳だった。この日はまだよかった。しかし、開戦から一年と少しが経過したころに出現した彼らによって、戦況はひっくり返る――大本営発表では順調に勝ち進んでいることになっていたが、誰もそんなものは信じてはいなかった。だって、彼らがまぎれもなく存在していたから。
彼らが現れた理由は知らない。なぜ戦争が始まるのを待っていたかのように、現れ始めたのか。考えたくなんてなかったけれど、どこかで誰かが彼らを作り出した――そんな気がしてならなかった。実際に島に来ていた将校たちが、そんな話をしていたのを聞いたことがあった。新聞では一切報じられていない、だからこそ、本当かもしれないなとは思った記憶がある。
あれは私が十三歳になったその日だ。私は初めて「爆弾」を抱えて海に潜った。彼らは人間の気配に寄ってくるが、とりわけ若い女に貪欲だった。幼子の頃から海に親しんできた私たちは、特に国家によって重宝されていた――人間爆弾として。幸いその日には会敵はなく、命拾いしたわけだけど。
そんな「海の子」も島にはもう私しかいない。若い男も、若い女も、もういないのだ。友達も、先輩も、後輩も、みんなもう逝ってしまった。この島の周囲で、輸送中に、あるいは遠い南の海で。
私たちは彼らと遭遇したらもう生還はない。彼らもろともに海の藻屑になるほかにないからだ。
私は運が良かったのだろうか。今日まで生き延びてしまったことを、喜ぶべきなんだろうか。私は撒き餌としての魅力に劣るのかもしれないなと思ったりもする。
私はボートに辿り着く。おじいちゃんが操る、大好きな小船だった。お父さんもお母さんも戦地に行ってしまって、もう二年も音沙汰がない。島に残っているのは子供と老人だけだった。今やお医者さんも先生もみんな最前線だ。
「ヒカル」
私を引き上げながら、おじいちゃんは震える声で言った。驚いてその顔を見ると、おじいちゃんは泣いていた。おじいちゃんの涙なんて、初めて見た。お母さんが徴兵された時でさえ、泣かなかったのに。
「ど、どうしたの?」
「昨夜、これがな」
おじいちゃんはズボンのポケットから赤い紙を引っ張り出した。それはしわくちゃだった。それが何を意味するものなのかは一目で理解できた。お父さんとお母さんにも届いた臨時召集令状。普通の暮らしをする普通の人々を殺し合いに強制参加させるための文書だった。兵の価値は一銭五厘だなんて揶揄されることもあるけど、実際のところは郵送なんてされないものだから、それ以下の価値しかない。
「十六。お前もとうとう十六になってしまったんだなぁ」
「――うん」
私は頷いた。今日でちょうど十六歳。そして十六歳になると撒き餌としての魅力はないものだと判断されて、最前線へと送られる。知っていた。わかっていた。理解していた。覚悟していたことだ。
「何もかも奪われてしまう。この国は、もう終わりだ」
「大丈夫だよ、おじいちゃん」
私は言った。
「私は鉄砲なんかじゃ、きっと死なないんだから」
その時だ。私の背中の方――軍艦がいる方向――から、大きな音が聞こえた。
「爆雷!?」
いくつもの水柱が立ち上り、軍艦は湾内を逃げまどっている。あの巨大な艦影が、必死に逃げている。
「戦ってる……」
実際に軍艦が戦っているのを見るのは初めてだった。だけど、このままだと軍艦は彼らに取りつかれ、沈められてしまうだろう。駆逐艦でもいればよかったんだろうけど、そんな護衛艦をつける余力はもうこの国にはないのだ。
「帰るぞ、ヒカル」
おじいちゃんが発動機を始動させる。ボートはくるりと向きを変えて、陸地へと向かっていく。
「おじいちゃん!?」
「お前はもう、海の子ではない」
「でも!」
「何も起きてはおらん。俺らにできることは何もないんだ」
ボートは軍艦からどんどん離れていく。
私はボートにくくりつけられている、巨大な水中航行爆弾を見た。黒光りするボディが私を呼ぶ。これは私たちが抱いて彼らの只中で起爆させる機動兵器だ。
「ごめん、おじいちゃん。私はあの軍艦に載ってる何百人を見捨てるのは無理」
私はこの海が好きだ。生命の死の匂いに満ちたこの海だけど、それでもここは私の大切な海だ。この海を穢す彼らを許したくなんてない。理不尽に死を与えようとしてくる彼らに容赦なんてしない。
私とおじいちゃんの無言のやり取りが続き、そしてやがて、おじいちゃんはボートを止めた。穏やかな潮騒が私たちを揺らし、時々鳴り響く雷鳴のような爆雷の音が私たちを現実に引き戻す。
生きたい――。
私は竦む心に気が付いた。私は死にたくなんてなかった。誰だってそうだ。誰だってそうなのだ。だけど、私は死ななきゃならなかった。私が行かなきゃ、みんなが死んでしまう。私が死ねば、生き延びる人もいるかもしれない――そんな理屈に、私は縋りつくしかなかった。
そもそもこの十死零生――そんな馬鹿げた現状から、私はどうやっても逃げられないのだ。
彼らさえいなければ、この上なく平和で静かで美しかったであろう海が、私たちの前に茫洋と広がっている。
「ヒカル、だが」
「私は死ぬなら海がいい」
「……わかった」
おじいちゃんはそう言うと、ポケットにしまい込んでいた赤い紙を取り出した。そして、精いっぱいの憎しみを込めた表情で、それをびりびりに破いて捨てた。
おじいちゃんの顔は影になっていてよく見えなかった。だけど、その唇は激しく戦慄いていた。それだけで、私は胸が鋭く痛んだ。
私は水中航行爆弾に両手を固定した。黒い爆弾を抱きしめるように。
そしてボートから解き放たれ、少しずつ加速していく。
彼らが私に気が付いた――本能が警鐘を鳴らす。
一番近くにいるのは、手足を多数持つ巨大な影。人の顔と人の腕と人の足を持つが、決して人間だとは思えないもの――。
数は数十、いや、百に迫るかもしれない。
それだけの視線が私を捕らえていた。
まとめて始末するしかない。
私は最後の酸素を胸いっぱいに吸い込んでから、海の中に潜る。
水圧が私を押し潰そうとする。肺の中の空気が着実に消耗していく。辺りはすっかり暗い。でも、視線を上げれば水面は輝いていた。
胸が苦しい。呼吸ができないからだ。使い捨ての私たちに、水中航行爆弾以外の装備は与えられていない。でも、それでよかったのかもしれない。意識が朦朧としていた方が、最期はきっと楽だろうから。
透明度の高い美しい海。その向こうに彼らが見えた。醜悪な、蛸と人と、ほかの何かを適当に混ぜ合わせたかのような、名状し難い何か。関節は自由自在に折れ曲がり、顔はまるでどろどろに焼け落ちた人間のそれのようだった。人間の顔だとわかるだけに、その不気味さはひとしおだった。
私とそれの視線が確かに交錯する。全身が粟立ったのを感じる。半ば溶け落ちた眼球の奥で、歪んだ光彩が私を見つめていた。
皮膚がチリチリする。彼らの興味が軍艦から私へと切り替わっていくのが、気配でわかる。純粋な殺気が私へと向かって降り注いでくるのだ。
いいぞ、この調子だ。
最多撃破数更新は間違いない。
そう思おう。そう信じよう。
そして軍艦の人たちはみんな助かって、自分たちを救った「海の子」の存在をどこかで語ってくれる。そう願おう。
あと何メートルか。
彼らの真っただ中で起爆する。たとえ私が途中で食われても絶対にボタンは押し切る……!
みんなどんな気持ちで、この最期の瞬間を迎えたんだろうな――。
私は固定された左手の親指で発信機のボタンを押す。トトツートト、トトツートト――「我、是ヨリ突入ス」のト連送。何度も聞いてきた、何度も聞かされてきた、最期の言葉だ。とはいっても、打ってる私にはその音は聞こえない。水音がすべてを遮ってしまうからだ。
そして最後に、私はボタンを押し続けた。「ツー」という信号が本部には届いただろう。電信室にいる誰かが、きっと聞き届けてくれるだろう。そう信じたかった。
彼らが迫ってきて、私を何度も引っ搔いた。噛みついた。血が噴き出し、痛みで視界が揺らいだ。殴りつけられて、たぶん肋骨がまとめて折れた。左足の肉が噛み千切られた。顔を爪のようなものが抉っていった。
……。
両手は固定されている。大丈夫、右手の親指さえ動けばいい。
まだ、まだ――。
周囲を埋め尽くすほどの彼らを見て、私は赤黒い視界の中で微笑んだ。痛みも苦しみもない。自然と私は笑っていた。
どろどろの顔の彼らが私に向かって殺到してくる。
ああ……。
水面が、キラキラと輝いていた。
私は、死ぬなら海がいい――。
「さよなら、おじいちゃん……」
右手の親指によって、赤いボタンが押し込まれる。
瞬間、私は確信した――彼らもまた作られた存在なのだということを。
そして、私が最期に見たのは光だった。
太陽よりも眩しくて、温かい――。