形見分け
私の胸元で静かに揺れるのは、亡き祖母からもらった水晶のネックレス。
石の表面のカットされた部分に光が当たると、台形をした紫色の光が白い紙の上へ投射される。ダイヤモンドの輝きには劣るかもしれないが、私はこの薄紫色の水晶のネックレスが好きだ。
祖母は三年くらい前の夏に亡くなった。それも、自宅の介護用ベッドの上で寝たまま、いつの間にか死んでいたという。それは、祖母の二世帯住宅の二階に住むお嫁さんがそれを発見し、私の家へ連絡を寄越したことで分かったことだ。
まさか、祖母が死ぬとは思えなかった。と言うのも、亡くなる三日前に私は祖母の家を訪れていて、祖母はいつものように笑って、最近の出来事や、将来こうしたいねなどと先のことまでも話していたから。きっと、祖母にも自分が三日後に死ぬなど知らなかったはずだ。それくらい、祖母と自然に会話を楽しんでいたのだ。
その日、お嫁さんはちょうど出掛けていたため、祖母が息を引き取る瞬間を見ていない。だから、祖母が苦しんで亡くなったか、それとも安らかに亡くなったかどうかは、本当のところ分からない。けれど、私には祖母が昼寝をしようとして横たわって、そのまま眠るようにして死んだのだと思う。したがって、苦しまずに、安らかな最期を遂げたのではないかと思うのだ。
そんな祖母と私の関係は、至って普通な祖母と孫だ。祖母が間質性肺炎を患い、その間に祖父が亡くなり、自宅で寝起きの生活になるずっと前から、私は小さな子ども時代からこの祖母の家で過ごしたものだ。特別に何かを一緒にしたと言うよりは、お菓子やみかん、林檎を食べ、お茶を飲みながら、"大人の会話" を楽しむといったものだ。大人の会話と言うと語弊があるので、付け加えておくが、最近の時事ネタだったり、天気、健康、私の学校あるいは職場の事だったりあらゆる事を話し合うという意味だ。
小学生の時はよく、夏休みに祖母の家に泊まることがあったが、大人の会話に加えて、一人で物語を書いたり、絵を描いたり、人形遊びをしたりと、比較的地味に過ごすことが楽しかった。祖母の家は、日中でも日光があまり当たらず、部屋は暗くて、少し陰気な感じがしたけれど、その線香薫る暗めの部屋で、何かをやっているのが、とてもおもしろかったのを覚えている。大学を卒業して、就職しても、祖母の家へはたまに出掛けた。
だから、急に "おばあちゃんち" なるものが、この世界から消えてしまうとは考えられなかった。当たり前のようにそこに行くと、笑った顔のおばあちゃんが(時たまイライラしている時もあったが)いる。そんな毎日がなくなることが、こんなに寂しいことなのかと、しみじみと感じた。
生前に私にくれた、この薄紫水晶のネックレスは、祖母が若い頃に買ったのか、後年に買ったものなのか分からない。
ただ、私にくれるときに「本物なのよ。つけると、おしゃれだよ」と言っていたような気がする。とにかく、私にとっては大切な品であることに変わりがない。
亡き祖母との会話の中でも、私が特に気にしているやり取りがある。祖母が私が小説を書いていることを知っていて、それを「出来たら読ませて」と言ってくれたとき、私は恥ずかしがりながらも、「出来たら、読んでよ」と言ったこと。結局、それは果たされなかったけれど。
祖母は小説を読むのが好きで、特に病床にあった時、暇潰しのために、たくさんの小説を少しずつ読んでいたようだ。祖父が本屋から、大量の小説本を紙袋にいれて買ってきたことも何度もあったようだ。祖母は『角田光代』さんや、『水上勉』さんの本は面白いよと言っていた。私は当時まだ、読んだことがなかったし、特別読むつもりもなかったので、「そうなんだー」とだけ返した。
祖父も祖母もいなくなった家は、本当に暗くなってしまった気がする。遺品整理のために母と亡くなった後に初めて来た時にそう感じた。がらんどうの部屋に、かつて愛用していた茶飲みや、祖父の好きなウイスキーのグラス、そして壺やテレビ、ラジカセ、電話、木彫りの棚などの物たちが、ひっそりと佇んでいるように見えて、余計にもの悲しかった。遺品整理のために捨てるものと、もらうものとを母と叔父さんとでやっていたとき、祖母の小説本を見ていた私に、叔父さんは「それ、いるなら持っていってよ」と言った。誰も読まなくなった小説たちは、私が引き取ることになった。
私は紫水晶のネックレスを付け、手には祖母の読んだ小説を握っている。鰯雲棚引く空の下、爽やかな秋の陽光を浴びて、私は木陰の芝生に座る。手垢のついたページを同じく捲れば、必ず祖母の優しい笑顔をそこに見出だすのである。
そうだ。祖母がくれたもの。それは、紫水晶と小説に違いない。
でも、特別に私に残されたのは、祖母が読んで私のまだ読まない小説たちを読み続けることと、祖母さえ読んでいない小説を書くということなのだ。
【The End】