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怒りため壺

 私がこの前、とある骨董品店で買ったのは一つの(つぼ)だった。見た目は何の変哲もない壺だ。


 私には骨董品の良し悪しを見定める能はないから、たいした評価はできないが、丸く膨らんだ底の部分から、ぎゅうっと細くなるくびれまでのカーブが美しく(なまめ)かしく感じたのは確かだ。一目見たとき、私は恋に落ちたみたいに全身の血が騒いだ。これでも一応、恋をしたことはあるから私でも分かる。


 私が探し求めていたのはこれだったのだと思えた。


 誤解を与えないように一つ言っておくと、私は壺が欲しかったわけではない。次の日からまた始まる仕事のことを考えると、考えが堂々巡りになってきて嫌な気持ちになってしまうのだ。貴重な休みの日に、家に一人でいるなんて耐えられなかった。それで、気晴らしに商店街を歩くことにしただけなのだ。



 商店街のさびれたアーケードを歩きながら、「あの店、もうシャッターをおろしたんだな。」などと一人ぶつくさ言いながら行くと、古いが立派な看板を掲げた骨董品店が目に入った。


 木の看板は、(ふち)が金のフレームで囲われていて、彫られた店名は "いぶかし骨董品店" だった。長年の風雨により、彫られた文字が所々えぐれていたり、墨が剥がれていたりして読みづらかったけれど、私は一文字ずつきちんと読み取った。


 私は大学に通うために、ずいぶん昔にこの町にやって来た。就職してからもずっと住み続けている。両親と姉はずいぶん前に私が去っていったふるさとに住んでいて、姉は結婚して二人の子どもを育てている。


 実家と姉の家とはそれほど離れておらず、休みの日は小さい子どもたちを連れて実家にやって来る。子どもたちはおばあちゃんちに行くのが大好きである。だけど、実家に毎週のように行くのは、単に子どもたちのためだけではないと私は知っている。


 いくら、我が子がかわいくて、夫を愛していても、毎日顔を見合わせていれば、必ず "イライラ"、"ムカムカ" が生じるはずである。いわゆる "育児ストレス" と(気を使えない)"夫へのイライラ" を、母親に愚痴ってストレスを吐き出しているのだ。そうしてしばしの間、羽を休めた姉は再び、まだ帰りたくないと駄々をこねる子どもたちを車に乗せてストレスの(やかた)へ帰るのである。


 姉が帰ると、母親はきまって私に電話をかけてくる。


「ねえ、今日ねぇ、あきちゃんたちが来たんだけど、ナオキさんと上手く行っていないのかしらねぇ。」


 明子は姉の名前で、ナオキさんとは夫の名前だ。


「ちいちゃんもめいちゃんもまだ、小さいから色々手がかかって大変なのは分かるんだけど、こうして、毎週のようにうちに来られちゃね……。わたしだって、フラダンスの練習とか、歌の練習とかがあるでしょ。けっこう忙しいのよ。


 ……それでね、恵一。あきちゃんにちょっと言ってほしいのよ。」


「何を。」


「ほら……。」


 最後まで言わなくても、分かるでしょというような顔が、電話口の向こうにありありと見えたが、私はわざとらしく、母親の言葉を待つことにした。


「恵一。だからね、あきちゃんに少し考えてほしいって……。」


「考えるって何を。」


「……。」


「はぁ……。お母さんは毎週のように姉ちゃんの愚痴を聞いたり、うるさい子どもが部屋中走り回るのがたまらなく嫌だ。ストレスがたまってしょうがないから、もう来るなってことでしょ。」


「そこまで言ってないでしょうよ。」


「けど、本当に言いたいことって、そういうことなんじゃないの?」



 私は母親とのこういうやり取りにうんざりしていた。姉が実家に帰ってくる度に、母親からの愚痴を聞かされる羽目になるのがストレスだった。姉が自分の家庭で拵え(こしら)たストレスが、母親に伝播(でんぱ)し、そして私に伝播する。では、私はそのストレスをどこへ吐き出したらいいのだろう?


 悶々(もんもん)とした気持ちを抱えて、休日商店街やら公園やら図書館やらに足を運ぶのだ。それで気晴らしになっているかといえば、多少はなるが、私にだって抱えるストレスに限度はある。人が良く温厚な私でも、この日はプスプスと怒りが心の底で煮え立っていたのだ。



 "いぶかし骨董品店" に片足を踏み入れ、店内をぐるりと見ると、私は無意識にハッと息を吸い込んだ。店内はそれほど広くはないが、天井まで届きそうなほど高い棚に、置ききれないくらいの皿や小鉢、茶碗に壺がたくさんあって、小豆(あずき)色の布が敷かれた台の上には、動物や植物、人の形にかたどった置物などがずらりと並べられていて、その景観足るや、今にもこちらへ迫ってくるようで、圧巻であった。


 その時、店の奥の隅で小さくうずくまっているように見えた壺に私の視線は向かった。



 まるで吸い込まれるかのように。


 その壺を手に取り、口から中を覗いたり、くるくる回してじっくりと観察してみた。そこで、私が感じたのは前述の通りである。



「お客さん。それ、興味あるの?」


 山ヤギみたいなひょろひょろした白ひげを()でながら近づいてきたのは、ここの店主だった。ウールのニット帽を被って、金縁(きんぶち)眼鏡をかけたお爺さん。一目見たら、私はなるほどねと思う。何百年も生きてきた、まさに "歩く辞書" と形容すべき賢人なのだ。こういうタイプの老人には少し注意をする必要がある。一見温厚そうに見えて、急に怒り出すこともあるからだ。私はそういう人を沢山目にしてきた。


「勝手に触ってすみません。」


 丁寧に元あった場所に戻そうとすると、その店主は優しく、


「いえ、いいんですよ。是非、ゆっくり見てやってください。」と言った。


 さらに、「どうです? その壺は?」と聞いた。


「ええ。目が偶然、この壺に留まったんですがね。私は、骨董品にまるで目利きが駄目でして、素人目で言いますけど、このカーブがとても美しくて品があって陶器の(つや)やかな感じが素敵です。なにより、この自然に出来たようにみえるシミが面白いですね。」


「シミですか?」


「ええ、ここの。」


 笑みを浮かべていた店主の顔は一瞬にして、いかにも(いぶか)しいといった表情に変わった。


「ちょっと見せてください。」


 そう言うと、店主は長年日に焼けて黒くなった腕を伸ばして壺を受け取った。机の引き出しから、虫眼鏡を取り出して、目がくっつきそうなくらいの近さで壺のシミを観察しだした。


「ほほう……。

 私はこの店を長年やっていましてね。店にある品物は全て頭に入っている積もりですがね……。

 いやぁ、こりゃ驚きました。この壺は初めて見ましたよ。」


「はぁ。」


「いゃあねぇ、こういうのに似た壺なら奥にもまだ沢山あるんですけどね。こんな形のシミはうちにはないんでね。」


「はぁ。」


「それで、お客さんはこれを買いますか?」



 虫眼鏡を目に近づけたまま、店主は私の顔を覗いた。店主の目玉が大きく拡大されて不気味だった。


「えっ? いやぁ、私、今日はお金をあまり持っていなくて、決してこんな高価な壺なんて買えませんよ。」


 単に不気味で恐ろしくなったから、買いたくなくなったとは言えず、私は母親と同じように自分の本音を圧し殺した。


 店主はいやに機嫌が良くなった様子で、


「その壺、ただで差し上げますよ。長年この店の主人として、何でも知っている気でいたのがいけなかったんですね。今日はお客さんから大切なことを教わりましたよ。


 まさに "初心を忘れるべからず" ですね。


 ありがとう。


 だからこの壺は僕からのお礼です。どうか、受け取ってやってください。」と言った。


 ますます断れなくなってしまった。結局私は、壺を抱えて店を出ようとしたとき、店主が声をかけた。



「お客さん。怒りは溜め込んじゃなりませんよ。吐き出すんですよ。」



 ふんっ。何だ。あんたのせいで不気味な壺を持って帰る羽目になったじゃないか。それこそストレスだ。


 どこへもやれない悶々とした怒りを抱えて家に帰ってきたのだ。



 私はよく、通販雑誌に載っているストレス解消グッズを買うことがある。家には何個もそういうのがあるが、いつかは物置に入る運命だ。その中で、小さな壺みたいな形をして、壺に口をあてて大声を出すようなグッズがあったなと、私は日本酒をちびりちびりやりながら、思い出した。


 風呂からあがって2時間経って、汗もとっくに引いて、次第に酒の酔いも回り、眠気を感じ始めた時だった。私はおもむろに壺を手に取り、口に当てた。


 あーーーー。


 不思議と音は陶器の内側だけに留まって、外へは少しも漏れなかった。


 こりゃいい。


 味を占めて、


「母親ーーーー!! 

 毎回、俺に姉ちゃんの愚痴を電話してくんなーーー!!」と精一杯の大声で叫んだ。



 すると、体の中の毒素が抜けたようにすっきり良い気持ちがした。


「ねえちゃーーーん!! 

 毎週のように実家に帰ってきて母親に愚痴言うなーーーー!!

 そのせいで、俺が迷惑してんだよーーー!! 

 愚痴を言うんなら、もっと沢山の人に小間切(こまぎ)れにしろーーー!」


 今度は、体が軽くなった。首や肩にかけて、重石(おもし)が載ってるような不快感が消えたのだ。


 私の中の怒りが消えたのだ。


 私はその時ピンと来た。ストレスという川のもっと上流で怒りを止めれば、下流にまで流れてこないと。

 

 私は早速次の日、壺を持って姉の家へ行った。



「何、これ? 気持ち悪い壺だね。あんた、昔からこういう変なのが好きだよね。」



 姉は汚いものでも見るような目で壺を見た。


「そんなことは今はどうでも良いんだ。ね、この壺に何か日々のイライラを叫んでみてよ。」


「はっ?」


「いいからさ。」


 姉はめんどくさそうに壺に口をあてると、


「あーーー! むかつくーーー! 夫!!」と叫んだ。


「ん???」


 姉はきょとんとした顔をした後、再び壺に向かって、


「ちっくしょーーー! 子ども! 

 遊んだらおもちゃ片付けろーーー! 

 あのとんがったブロック、踏むとめちゃくちゃ痛いんだからぁぁぁーーー!!」と叫んだ。


「ん~??? なんだかすっきりしたよ。何これ、すごいね。」


「でしょ?」


「うん。ねぇ、これしばらくあたしに貸してよ。」


 姉も壺の効果に味を占めたのか、あれほど気味悪がっていた壺をもう、日常使いにしようとしている。もともと、"ストレス河川" の上流にいる人間に使ってもらうのが賢いやり方だと思っていたので、私は、


「いいよ。これで存分に怒りを吐き出してくれ。」と言って渡した。


 これで、私はストレスから解放されるんだと思うと、身も心も軽くなった。


 読者の方はこの時点で、すでに簡単に予想されているかもしれない。


 まさにその通りだ。


 あれから、私の元へ母親からの愚痴の電話がなくなると思っていた私の考えは、それから一月(ひとつき)も経たないうちに、詰めの甘さが露呈したのである。


 再び私のケータイに、母親からの愚痴が以前よりも勢いを増してかかってくるようになったのだ。


「ちょっと聞いてよ、恵一。またあきちゃんが来てねー、今度はナオキさんと離婚するなんて言っているのよー。もう、あたし、どうしようって思ってねー。ちぃちゃんがね、学校で他の子と喧嘩して、怪我させちゃったんだって。大した怪我じゃなかったんだけどね。このことで、ちぃちゃんは学校に行きたくないって言うのよねー、困ったわよー。どうしたらいいんでしょう。それとね、今まで習っていたフラダンスの先生が今度辞めるんだって。それで、この前、次の新しい先生の顔合わせがあったんだけど、ちょっと変わっている人でねー、わたしは前の先生の方が良かったのよねー。別に嫌だとか言うことじゃないんだけどねー。なんだか…」


「あーー、もう!! お母さん、もういい加減にしてよ! 僕はお母さんの愚痴を毎回聞かされると、いい気分もすっかり台無しになっちゃうんだよ。

 僕だって…僕にだって、辛いことくらいあるさ。最近だって、職場に掲示されている僕の名前のプレートがいつの間にか取り外されていたんだ。それが何を意味するのかなんて考えたくはなかった。次から次へと辛いことがあったよ。それでも、愚痴なんて言わないで抱え込んできたんだよ。それなのに、みんなは僕に、愚痴とか怒りを何でも浴びせてくるんだ。僕がお人好しだからって、際限なくそうやって吐かれたら……、僕はもう限界だよ……。とにかくもう、かけてこないでよ!」


「ちょっと、恵一……。」


 ブチッ。


 これは、おかしい。壺があれば、こんなことにはならないはずなのに。壺に何かがあったに違いない。私は姉のところへすっ飛んでいった。



「けいちゃん、来るなら来るって電話しておいてよねー。もうあたし、てんてこ舞い。仕事も今日は休みなのに急に出てくれって言われるし、めいのお迎えとちいの小学校の先生との面談もあるから忙しくって。」


「ごめん。ただ、壺がどうなったか見に来ただけ。」


「壺? あれ。ごめん。ちいとめいがふざけて走り回っていて、割っちゃったのよ。」



「……。

 

 それで、僕に何の連絡もしてくれなかったの…。僕に1本くらい電話かけられなかったの。謝ってくれたっていいよね…。」


「……ん? あ、ごめんね。でも、あたしも忙しくてそれどころじゃなかったのよね。」


「……。


 いい加減にしろよ!!

 確かにねーちゃんは子供の世話に、仕事もして大変なのは分かるけどさ。毎週のように実家に通ってさ。母親に愚痴ってるみたいだけど、そのたんびに母親が俺のところに電話してきて、長い時間ねーちゃんの愚痴を聞かされるわけ。最近はおまけにフラダンスの先生がどうのって言ってさぁ、俺にどうしろっていうんだよ……。

 もう、うんざりだよ……、疲れたよ……。」


 私はリビングの絨毯(じゅうたん)にヘナヘナと座り込んだまま意識を失ってしまった。


「けいちゃん!!」



 私は病院のベッドに寝かされていた。母親と姉とその夫とその子供二人が、心配そうに私を見下ろしている。


「気づいたわ!!」


 ???


「あのあと、気を失っちゃって、脈も途切れ途切れになっちゃって、もう…けいちゃん、死んじゃうんじゃないかって、怖かった。」


 姉は私の頬を両手で包むようにして言った。温かい体温が伝わってくる。


「ストレス性のショックだって、先生が言ってたわ。ごめんね。

 恵一に愚痴ばかり言って電話してしまって。恵一は誰にでも優しくて、いつも聞いてくれるから、ついつい甘えてしまうけど、倒れるまでストレスをかけていたなんて。お母さん、恵一に大変なことをしたね。ごめんね。」



 姉もすすり泣いて言う。


「ごめんね。けいちゃん。あたしもお母さんに愚痴を言い過ぎた。

 あの壺割ったこと、忙しいとか言って黙っていてごめんなさい。お母さんやナオキさんとも色々話して、もう少し、仕事の量とか職場の人に考えてもらって、ナオキさんも家のこと、手伝ってくれることになったし。家事代行サービスにも少し頼もうかなとも思っているんだ。」


 母親は私の胸に手を置いて、


「フラの先生も、最初は少し変わっていて不安だったけど、案外いい人でね、楽しくやっているから、もう大丈夫。」と言った。


「……そうか、そうか。」


 私は何度も頷いた。


 壺なんぞに頼らずにもっと、人間同士顔を合わせて話し合っていれば良かったと思ったのだ。だが最終的には、まとまるところにまとまって、落ち着いたのはまあ、良かった。つまりは、ストレスの根本原因を消すことなんて出来ないし、イライラもなくならない。でも、このことで、私は前よりもずっと強くなった気がした。



 体が回復して、再びあの骨董品店 "いぶかし" を訪ねようと商店街を歩いたが、やっぱり、私の予想通り、店は姿を消していた。






【The End】

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