眠れぬ森の悪女
新・現代医学疾病用語集 第2巻 178項
【眠れぬ森の美女症候群】
解説 : 通称「眠れぬ森の美女症候群」は、その名の通り、主症状は不眠で、重症化すると昏睡状態に至り死亡する。重症化率は100%、よって致死率100%である。
遺伝性疾患であり、代々女性、ことに美女にだけ病気を引き起こす遺伝子が発生すると考えられているが、多くは謎に包まれている。
さらに特出すべきこととして、女性全体のうち、ごく美女だけに発症するということである。発症リスクとして、何においてもまず、美女であるというのは、稀有な病であり、美女に産まれてきてしまったら最後、リスクを回避することは不可能なのである。
その歴史、古代にまで遡り、世界三大美女に数えられる、クレオパトラ、楊貴妃、小野小町も、本疾患を患っていたとする専門家もいるが、症例数はほとんどないために、その事実、不明である。
しかしながら、指折りの美人という人は無きに等しく、ほとんどの女性は過剰に心配するにあたらないであろう……云々。
「なあに、これ。最後のところ、しれっとすごく失礼なこと言ってるし。」
「ホントだ。こんな病気って本当にあるのかなぁ?」
「だって、大学の図書館に置いてあるんだし、これ、ちゃんとした辞典だよね。」
「そうだよね……。」
「読んだ人が女子なら、必ず自分はどうかなって考えちゃうよね。」
「ハハハ。ウケる。みなみもあたしも大丈夫だね。リスクゼロだね。」
「んーー、なんかムカつくけど、それは否めない。」
「ハハハ。」
「ハハハ。」
司書の人が2人をじろっと睨む。
「ここ出よ。」
「うん。」
みなみと、ゆきは大学の同じ科に通う大学生だ。2人は新入生のオリエンテーションの時から意気投合して友人どうしになった。
そういえば近頃、周りでは次々とカップルが成立していって、いつの間にか、同じグループにいた女子が彼氏と2人で並んで座っているのをよく見る。その度に、「へぇ、いいなぁ」と、みなみとゆきは思っていた。
みなみは、ゆきが恋人を作らないはずだと確信しているし、ゆきもみなみに彼氏よりも女友達だと思っているに違いないと信じていた。
ある日を境にして――。
***
「最近さ、眠れないんだよね。」とカフェテリアで学食のカレーライスを食べながら、みなみは言い出した。
午後の講義で提出する課題をやっていたゆきは、紙から目を上げた。
「何? ストレス?」
「ううん、別にストレスとかじゃないと思うけどさ。」
スプーンがプラスチック皿の底に当たって、カツカツと間抜けた音を出すが、すぐに雑音の中に揉み消されてしまう。カフェテリア内は昼時のために、大勢の学生が学食を取っていて、ガヤガヤとうるさかった。
「さっきのH先生の講義ってストレス負荷やばくない?」
「あーー、まじ、それな。心理学の講義なのに、知らない人と最低5人と話せなんて、学生にストレス与えすぎでしょ。」
「うんうん。そういえば、クラスのN君てさ、けっこう女子に人気だったよね。見た?」
「何?」
「だから、その時間に、N君にさ、女子が群がってたって。」
「N君? 誰それ。クラスにそんな人いた? まだ、全員の顔と名前一致しないよ。」
「だよねー。」
「今日も、バイトのシフト入ってるよね。講義終わったら、一緒に行こう。」
「えーっとね。……今日はムリ。用事あって店長にバイト休みにしてもらったんだ。」
「あっ、そうなんだ。オッーケー。」
半透明なプラスチックのコップの水が、真っ赤な血みたいな色になっていく。それをごくごくと、みなみの口の中へ吸い込まれていって、ついに空っぽになる。ゆきははっきりとその一部始終を見た。
「ゆき? どうした? 止まってるよ。大丈夫?」
「うん? 何が……?」
変なわたし……。
***
「ねえ、パパ。
"眠れぬ森の美女症候群" って知ってる?」
「なんだね、それは。知らないよ。」
「大学の図書館にあった医学辞典に書いてあったの。」
「ハハハハ。」
ゆきのパパは大学で医学を教えている教授だ。そして、家に帰ればゆきにデレデレのパパだった。
「そんなのあるわけないじゃないか。それはおとぎ話の話だよ。」
「それは、『眠れる森の美女』だけど、これは違うんだよ。友達と一緒に見ていてね、確かにその本に書いてあったの。
ええと…、確か遺伝性の疾患で発症遺伝子に何かあって、発症すると致死率100%で、主な症状は不眠……。」
「んーー……。それはもしかして、『致死性覚醒不眠症』のことじゃないかな。脳の中に異常なタンパク質、プリオンタンパクというんだけど、それが蓄積して、脳神経細胞が侵されていく病気だよ。
たしか、プリオンたん白遺伝子の178番のコドンに変異があるとか。治療法はないし、2年以内に死亡することが多い。」
「日本でもあるの?」
「報告はあるようだよ。指定難病にもなってると思う。」
「そんな名前じゃなかったような気がするんだけど……。」
「きっと、そうだよ。もう一度その本を見てごらんよ。」
「……うん。そうしてみる。」
翌日、ロッカールームから必要な参考書を取り出して講義のある部屋へ行こうとしたとき、廊下で他のクラスメートの女子と話しているみなみを見つけた。ゆきは走っていって声かけた。
「みなみ! おはよ!」
「あっ、ゆきちゃんおはよう。」
他の女子はゆきに手を上げて挨拶してくれたが、当の本人は目も合わさず、口裏で小さく「おはよう」と合わせただけでプイッと席の方へ行ってしまった。
なんだろう?
わたし何か変なこと言ったかな?
考えてみるが、これといって何もない。
昨日の用事って言うのが関係しているのかな、それともストレスって、本当に心理学の講義が原因なのかな? 今日も講義あるし、憂鬱なのかな? 今日の講義の可能性が大いにあると思えてきて、勝手にほっとした。
「公衆衛生学」の次がH先生の心理学の授業。わくわくしている人たちもいれば、やだなと思っている人たちもいるなかで、先生はまずスライドを見せた。暗くした部屋に天井からさがる投影機からまぶしい光がスライドの画面となって白い大きな布に現れた。空中に漂う埃がその光の道筋をきらきらとさせていた。
スライドのなかに、「ジョハリの窓」が出てきた。
「いいですか?ジョハリの窓とは、ジョセフ・ルフトさんとハリントン・インガムさんが考え出した心理学のモデルの一つで、現代において自己分析の有名な手法です。
①~④と書かれた4つの窓がありますね。まず、「自分が知っていて、他人も知っている自己」が、「開放の窓」。一方で「自分が知らないけど、他人が知っている自己」が、「秘密の窓」。「自分は知らないけど、他人は知っている自己」は、「盲点の窓」。もっとすごいのは、「自分が知らないし、他人も知らない自己」が、「未知の窓」です。
じゃあねぇ、皆さんに配ったプリントを見てくれますか?4つの窓がありますね。未知の窓はかけないので、そこは薄くバッテンをしていますが、他の3つの枠は空いていますね。では、まず、開放の窓と、秘密の窓のところを埋めてみて下さい。簡単でいいですからね。」
「どうですか? 埋められました? では、盲点の窓はどうでしょうかねぇ。君たちは入学して3ヶ月しかたってないけど、少しずつクラスの人と話できたかな。顔と名前くらい覚えたよね?
ジョハリの窓は、初対面の人間同士でやるのには難点があります。自分のことをよーく知っている人と行うのが良いとされています。例えば、お父さん、お母さんとかね。親友とかとね。
まあ、でもね、せっかくだから、コミュニケーション力を上げるという目的をかねて、互いの第一印象を伝えてみてください。できれば、5人の人と話し合ってみてください。
はい、どうぞ。」
またか……。初対面でできないやつなら、やんなくていいよ……。
重い腰を上げて、紙とペンを手にゆきはノロノロと歩いた。N君の周りにはすでに女子の群れが集まっている。良く見たら男子もけっこう集まっている。男女ともに人気なのか。先生はやたらとニヤニヤしながら歩き回っている。
わたしは近場の女の子と早速ペアになった。
「う~ん、ゆきちゃんは……洋服がかわいくてお洒落だから、センスが良さそうな印象!」
「フフフ……。」
ゆきは取って付けたようなお世辞に苦笑しつつも、自分も相手の子の印象を、独断と偏見で述べた。
相手の子もフフフと、苦笑いを浮かべた。
ま、そうなるわな。
なんだ、この授業。もう早く終わってくんないかな。時間の無駄だよ。
心の中で、わたしの毒虫が暴れまわる。
2人目の女の子は、伏し目がちの大人しそうな女子だったけど、開口一番、
「元気そうなイメージ」と言われて、鳥肌が立ちまくった。
不快でしかない。
「消極的で、なに考えてんだか良く分からなくて、めんどくさそうなイメージ」とは、さすがに言えず、これまた、吐き気を催しそうなオブラートにオブラートを何重にもくるんで、もはや原形さえとどめない言葉をその子に返して、自分の席に戻った。
!!!
ハッとした。
自分の席に座っていたのは、みなみだった。そして、みなみが目の前で楽しく話しているのはN君だったからだ。
口の中で唾液の味が苦く感じだして、ペチャンコの胸もチクチクいった。
N君と終始にこやかにはなし、時折ハハハと甲高く笑うみなみは、いつ見たこともないほど、キレイだった。
美男美女カップル成立。お似合いの二人。
ゆきはただそう思っただけだった。しかしながら、ゆきの意識とは離れたところでは、心の奥底の泥水から、何か大きな未知なる化け物が着実に姿を露し始めていたのだ。
わたしの「未知の窓」。これは「悪女」だ。
みなみが本物の美女なら、最近眠れないというのは、もしかして、「眠れぬ森の美女症候群」なのでは? パパが言うのだし、あれは、わたしの中の空想に違いない。でも、仮にそうであってもいいじゃないか。みなみは、絶世の美女で、N君に愛されたが、最後は、致死率100%の病が彼女を襲う。イイキミ。
こんな酷いことを考えるなんて、最低だ。
しばらくはみなみとは話をしなかった。他の人とも話したくもなかった。体が疲れていてだるかったのだ。
しばらくした日、一日の講義が終わって、次々と部屋から出ていく学生たちに混じって、みなみの姿があった。みなみにむごたらしいことを考えていたゆきは、おくびにも出さずに、前みたいに「みなみ! かえろ!」と声をかけた。すると、みなみは「いいよ!」と元気良く返事した。
良かった。
みなみと並んで歩く廊下。図書館が見えてきた。
「ねえ、図書館寄ってもいい?」とみなみに聞くと、彼女は「いいよ!」と返した。ゆきは、この前見た辞典を探していた。パソコンで検索しても、司書の人に聞いても、そんな本はなかった。さらに、みなみでさえ、
「何? それ。「眠れぬ森の美女症候群」? 聞いたことないし。第一、うちら図書館とかあんま行かなくない?」
「えー? だってこの前一緒に見たじゃん。」
「何言ってんの? ゆき大丈夫? 最近少しおかしいよ。疲れてんじゃない?」
「えっ、そんなことないって。」
「ちゃんと眠れてる?」
毎晩、みなみとN君の関係を想像していたら、眠れなくなっていたのだった。
「ええと……。」
すると、みなみは思い出したような表情を一瞬浮かべると、こういって笑ったのだった。
「まあ、ゆきは大丈夫だね。
リスク、ゼロね」と。
しばらく、わたしの体は固まって動けなくなった。金縛りにあったみたいに。
みなみはわたしを見て不思議そうに笑った。
カラスが山へかえっていく。辺りは薄暗くなってきて、みなみの顔も薄くぼやけていく。
【The End】