ツタンカーメン王の黄金のゆりかご
「ツタンカーメンの黄金のマスクって、本当に黄金だったのよ」
中学生のみやびは博物館の展示会の入場ゲートでもらったいくつかの資料を開いて、黄金のマスクの写真を、ほらっと、姉のゆらりに見せた。
「あったり前じゃん。黄金のマスクって言ってんだから」とむすっとした顔で言うと、ゆらりはカットリンゴをフォークでぶっ刺して口の中へ放り込んだ。
その日は、ゆらりとみやびと両親と、そしてゆらりの旦那さんの5人で見に行くはずだったのに、ゆらりが急に気持ち悪いから行けなくなったと電話をよこしたのだった。
正確に言うと、ゆらりの旦那さんが代わりに、みやびのケータイに電話してきたということ。
久し振りにゆらりに会いたかったお父さん、お母さんは残念がって、今回は行くのを止めておくと急に言い出して、結局、ゆらりの旦那さんとみやびの2人で行くことになった。
何で!?ってなったけれど、仕方なかった。なぜなら、みやびもゆらりの旦那さんも、この日のためにわざわざ学校と仕事を休んだからだ。ツタンカーメンの黄金のマスク展が日本に来るとなったら、見に来る人も多いだろうし、展覧会の後半でかつ、平日だったら、少しはましだろうと思ってのことだった。だから、この計画をおじゃんにしてしまうのはもったいないことだ。
もっとも、本当に行きたがっていたのは、ゆらりと同じ大学の先輩で、考古学専攻だった、ゆらりの旦那さんだからだ。両親は黄金のマスクより、対して輝きもないゆらりに会いたかっただけだ。
ゆらりの旦那さんが運転する車に揺られて、やって来た博物館の駐車場はパンパンに混んでいた。
こりゃ、予想をだいぶ外れたな……。
入場ゲートまで開門を待つ長蛇の列ができていた。整理券を受け取って、遥かかなたと思われるくらい遠い最後尾に並んだ。
「すごい人だね」と呟いたゆらりの旦那さんに、「うん、ヤバい」と返したみやびの顔は笑っていたけれど、心では、「これは、余裕ぶっこいた罪だ」と嘆いていた。
黄金のマスクまでの道のりがあまりにも長すぎる件は、どうにも解決のしようがない。警備員の数も尋常なく、そこらじゅうにうろちょろして、しょっちゅう仲間と無線でやり取りしている。ツタンカーメン王のマスクなんだから、そりゃそうなるよねと、2人は諦めもついた。
9時に到着して、もうすぐ11時になろうとしていた。いくらなんでも辛すぎたみやびは、完全に膨れっ面になって、一言も言葉を発せず、スマホをいじるのさえもだるくなっていた。
ゆらりの旦那さんは、「もうちょっとだよ。あと、20番目くらいだよ」とか、「もう少し。あと15番目」、「ここまで来たらマスクは目の前だ」、「大丈夫さ。次の次の次だから」といってみやびを励ました。
ゆらりの旦那さんは、本当にいい旦那だ。ゆらりにもったいないくらいの旦那だ。
みやびは、ゆらりの旦那さんがあともう少し待っていてくれれば、ゆらりじゃなくて、あたしをお嫁さんにしてくれたかもしれないのにと思うことがある。
少し気弱で、頼りないところもあるっちゃあるけど、いつも励ましてくれるし、その励ましがちょっと的はずれなときがあってイラッとすることもあるけど、底無しの優しさが愛おしく思えてくる。
ゆらりより、あたしのほうが絶対合う気がする。そうやって姉に勝ったつもりを心の中で演じて見せる。兄に対するような気持ちが、いつの間にか新婚夫婦のように甘く溶けていく。
「なんか、今日のみやびちゃん、変だよ。明るくて真っ直ぐで、可愛いみやびちゃんが、今日はヒステリックにコロコロ感情が変わっていくんだもの。
まるで夕立みたいに。
ゲリラ豪雨って言ったほうがいいかな」
「ちょっとーぉ! ひどーい! そこは夕立にして」
「夕立にしてあげるけど、
……本当はお姉ちゃんにも来て欲しかったんだよね?」
ゆらりの旦那さんの目は、いつ見ても子犬みたいなまるっこい形をしている。
「うーん、来て欲しかったけど、ゆらりは旦那さんも一緒に家に残って欲しかったんじゃないかと思うからね、複雑な心境なの」
「ハハハ。そうだったのか。
実はね、今朝、僕はゆらりに言ったんだよ。今日はやめにして、また今度みんなで行けばいいからって。それでも、ゆらりは妹と行ってあげてねと言ったんだよ」
「ふーん。それで、ゆらりの旦那さんは、今日来たんだね」
「そう……。
いつも思うけど、僕のこと、"ゆらりの旦那さん"って呼んでいるけど、長くない? 言いづらくない? 別にタケルでいいんだけど」
「いいの」
目の前のグループが、警備員が見張る扉の向こうへ消えていった。
次々と扉の向こうへ消えていっては戻ってこない人たち。
出口は部屋の向こうにあるのだろうけれど、なんだか、もう扉の向こうへ行ったら戻ってこれなくなるような気さえ起きた。
「さっき、みやびちゃんが言ってたこと考えてたらなんだか心配になってきたよ」
あれほど、みやびを励ましていたのに、突然何を言い出すのかと思った。
「なんかさぁ、ご飯のにおいを嗅いだだけで、気持ち悪くなるんだって」
「へー。かわいそーに」
みやびは、はっとした。もしかしてと思うが、ありうる話だ。
「……ねぇ、もしかして、赤ちゃんが出来たんじゃないの?」
「えっ?」
真っ黒な髪を腰まで長くしたスーツ姿の若い女性が来て、2人をちらっと見て、その後ろを指で数える仕草をした。
「はい。次のグループの方は、こちらの2名の方と、……の方までです。今呼ばれた方は、中にお進み下さい」
その女性は、扉の鍵を開けた。両開きになっている扉はぱあっと開いた。黄金のマスクはもっと部屋の奥にあるはずだから、入り口からは見えないはずなのに、みやびとゆらりの旦那さんには、扉の先にはっきりと、黄金に光るゆりかごが目に入ったのだ。それも、全身が金色に輝く赤ちゃんがこちらを向いて笑っているのも。
***
「だからさー、おねーちゃん、真面目に聞いてちー。マスクじゃなくって、黄金のゆりかごに金ピカの赤ちゃんが寝てたんだって」
「はぁー? バカじゃないの?」
全く取り合おうとしない姉に、少しからかってみたい気もしたみやびは、
「みやび、そこでピンと来たんだよね。
……あのさぁ、もしかして、おねーちゃん、妊娠しているんじゃないの?」と聞いた。
「……はぁ?」
「検査してみてよ。ドラッグストアで売ってるよ」
「もう、した」
「で、どうだった? どうだった?」
いつの間にか、ゆらりの旦那さんもとなりに来て、ゆらりの言葉を待っている。
目をキラキラさせて自分を見ている。息もぴったり。
ゆらりは、妹とタケちゃんのシンクロニシティを前にも見たことがある。私は目玉焼きに塩コショウ派なのに、みやびとタケちゃんはソース派だったり、私はずっと小中高と運動部だったのに対して、みやびとタケちゃんは文化部だったり。
そういうどうでもいいようなことまでも、いちいち考えてしまう。その度に、なんか、私じゃなくて、みやびとタケちゃんが一緒になったら良かったのにと思ってしまう。
ゆらりの口をついて出た言葉は、「うん。あたし、妊娠した」だった。
そう言ってしまうと、なんだか口の中が重くて苦くて、喉の奥がつまったような感じがした。
そこへみやびの甲高い声が余計に敏感な神経に障る。
「わぁーい! みやびがおばさんになるのー? 中学生のおばさん。ゆらり、二十歳で子供産むから、子供が二十歳になってもまだ四十だね。若いから子供良かったね」
「大人みたいなこと言うな。みやびはまだ、ガキンチョなの。ガキンチョはガキンチョらしく、しっかり青春してな」
ゆらりは、最近買ったマニキュアを爪に塗り直している。
「えー。新しいの買ったの? みやびもつけるー!」
「だめ! みやび、明日学校じゃん。マニキュア塗ってんの先生にバレたら退校だよ。タイコー!」
「退校になんかなんないし。指導されて、『ハーイ!』って言えば許してくれるもん。ねー、お願い! 左手の小指になら、バレないって!」
「知んないよー。みやびの責任だからね」
「うん」
「これ?」
「そう。その桜色の透明なやつ」
ゆらりは、妹の小さな爪に優しく塗ってやる。
小指に薄桃色の桜が恥ずかしそうに花開いた。
「かわいーー!! めっちゃキラキラしてる。やったーー!」
明後日には、またタケちゃんとの2人だけの生活に戻る。妹とは、しばらくまたお別れだな。そう思うと、以前は妹にあげたくなかったこの部屋も、もうすっかりみやびの色に変わってしまったことも、嬉しく思えたりする。
小指につけてもらった桜色のマニキュアを嬉しそうに眺めていた妹が、ポツリと言った。
「みやびも、ゆらりの旦那さんみたいな、優しくてカッコいい人と結婚したいな」と。
「学校に誰か好きな人いるの?」
「……ううん、いないよ。ゆらりの旦那さんみたいな人、いるわけないじゃん」
みやびは、初めからタケルのことを「タケちゃん」でも、「タケルさん」でもなく、「ゆらりの旦那さん」と呼ぶ。別に気にしていないわけではなかったけれど、理由を聞いたことはなかった。でも、この際聞いてみたくなった。そうして、返ってくる答えに怯えた。
「みやびはさぁ、どうしてタケちゃんのこと、"ゆらりの旦那さん" って呼ぶの?」
ベッドの上に仰向けになりながら、天井に向かって伸ばした手の爪を眺めていた。
「んー……、なんとなく。考えたことないや」
嘘つき。
みやびは意図的にそう呼んでいる。まるで、私への当て付けのように。
そうだ。
みやびと一緒にいるとき、私が「タケちゃん」と呼んで、タケちゃんが「何? ゆらり」と返すとき、みやびは顔では普通の表情を作ってはいたけど、内心私に嫉妬していたのではないか。だから、2人で会話を始めると、途端にみやびはどこかへ行ってしまうんだ。
みやびは、ついに気付いてしまった。
姉の夫に決して抱いてはならない危険な感情が自分に芽生えてしまったことを。
小指に小さく咲いた桜の花。見つめる妹の目の潤い。
ずっと子供だと思っていたけど、もう、こんなに大人になったんだね。
でもね、みやび。あなたはやっぱりまだ子供だよ。嘘をちゃんと隠しきれていないんだもん。
あなたが本当に好きなのはね、やっぱり、"ゆらりの旦那さん" なんだからね。
***
彼女は駅で両親と妹に見送られて電車に乗り込む。
"ゆらりの旦那さん" は、両親に向かってペコリとお辞儀をして、みやびに手を振った。みやびは、いつもみたいに手を振らない代わりに、ペコリとお辞儀をした。
嘘つき。
彼女は両親への妊娠の報告を、みやびと"ゆらりの旦那さん"に先を越されてしまっていた。両親はとてつもなく喜んだ。私たちの両親は同年代の子達の両親よりもかなり年を取っていたから、娘が早く結婚して赤ちゃんが出来たことは喜びだったに違いない。
四方八方から心に針を刺されているような痛みを感じた。
なぜなら、彼女も嘘つきだから。
妊娠したのは嘘だった。単に、胃もたれで気持ち悪かっただけだけど、何週間も続いたから、もしかしてと思って、妊娠検査薬で試したが、陰性だったのだ。
なんだか、がっかりする気にもなれなくて、つい妹に嘘をついた彼女は、次第に速度を増していく電車に揺られながら、妹から遠くへ離れていく。
彼女はボックス席の隣に座る"ゆらりの旦那さん" の肩に頭をのせると、安心して眠ってしまった。
彼女は黄金のゆりかごに揺られる金ピカの赤ん坊の夢を見る。
妹よ、それは本当に黄金なんだね――。
【The End】