現代異能の殺気遣い 梟ノ木一(ほうのきはじめ)
「事実は小説よりも奇なり、とは言うけど、事実より奇なる小説じゃなきゃ、小説を書く意味なんてなにもない」
薄暗い部屋でパソコンの青白い光を正面に浴びながら、キーボードをカタカタ鳴らしていた少年は呟いた。
小説家になろうに入力していた小説を一時保存し、頭の後ろで組んだ腕を頭上へと伸ばす。全身の筋肉が引っ張られる感覚のあと、はぁーと大きく息を吐いて脱力する。
「……とはいえ、現実もだいぶ空想っぽくなってきたよなぁ」
一部の人間が激しい殺意を抱いた時に発症する「殺気」。殺気遣いとなった者はその気になれば一般人の胸を殺気を纏った拳で一突きするだけで殺せる。
殺気遣いとなった者は本来、公安委員会直属の特殊戦力対策機関、通称〈機関〉に届け出た上で、最寄りの支部に所属しなければいけない。
が、その超常の力を犯罪や私利私欲に使おうとするものは当然届け出などしない。一時は日本から撲滅されかけていた暴力団は殺気遣いを加入させることで再び息を吹き返し、また多くの小規模な徒党を組む者たちや、海外マフィアと繋がる者達もいた。
一般人から見れば唾を吐きたくなるような人種だが、少年にそれはできない。
少年は右手を顔の正面で広げ、軽く念じる。右手が薄紫色のオーラに覆われた。
「僕もある意味で私利私欲のために使ってるから、何とも言えないんだよなぁ」
少年も、届け出をしていなかった。機関員になってしまえば強制的に訓練に参加させられる。それでは、小説を書く時間が確保できない。
「大学を休学までして書いているんだ……そんなことに時間を取られてたまるか……」
とはいえ、ここまですでに八時間書いている。そろそろ集中力が切れてくる頃合いだった。小説の内容と関係ない独り言が増えているのがその証拠である。
「……取材にでもいくか」
少年は立ち上がった。机を離れる時に脇に積んであったエナジードリンクの空き缶の山に触れてしまい、がらがらと崩れ落ちる。
少年は顔を顰めてその山を積み直すと、全身黒色のジャージに着替えて部屋の外に出て行った。
少年が住んでいるのは東京都内のワンルームマンションの一室なので、扉を開けるともう共用廊下である。
その廊下に血まみれの女の子が倒れていた。
「すぅー………………マジ?」
息を吸い込んでから困惑の声を漏らす。高校生くらいの女の子が着ていそうな明るい色調の服は赤黒い血に染まり、長い髪は服や頬、ひいては廊下のコンクリートに張り付いている。これが小説なら唐突展開すぎて読者が噴き出すところだろう。
少女を見つめる少年の瞳が朱色に輝く。
「うわ、殺気遣いじゃん……」
少年の〈術〉、〈スキルブック〉の能力の副産物として、少年は視界に入った人間が殺気遣いか、そうでないかを見分けることが出来る。
「……でも、〈術〉の能力までは読み取れないな……。適正もわからない。これは初めてだ……。まあいいか、一応記録しておこう」
少年の手にどこからか本が出現する。趣味の悪い柄の入った厚手のブックカバーがかけられた、ものものしい本だ。大きさは一般的なハードカバー本と同程度である。
少年が念じながら片手で本を開くとそこに少年ですら読み取れない文字で、なにかが記入されていく。
「やっぱりなんにもわからないな。いや、〈術〉の名前だけはわかるのか」
〈不勿忘草〉
それが少女の〈術〉の名前だった。
「……勿忘草、が確か『私を忘れないで』って意味だから……不勿忘草『私を忘れて』って意味かな……? なんか切なくなるような術名だな」
パタンと閉じられた本は虚空に消える。思案するように見下ろしていた少年はやがてぽつりとこぼした。
「そういえば、女の子っていい匂いがするって言われてるけど、血にまみれた女の子でもするのかな」
少年はコンクリートの廊下に跪き、少女の血にまみれた長髪に鼻を寄せる。
「……むしろなんかちょっと臭いな。しばらくシャワーを浴びてなかったのかな? それに血錆の匂いがひどくて女の子の匂いなんて全くしない……いや、別の箇所からだったらするのかな?」
少年は顔を上げて少女の身体を見る。しかしそこではっと我に返った。少女の身体の向こう側には当たり前だが共用廊下が伸び、片側の壁には扉がいくつも並んでいる。
「ま、まずい。こんなところじゃ誰に見つかるかわからない。……仕方ない、床が血で汚れるのは嫌だけど、取材には代えられない。部屋に上げるか」
少女の身体を持ち上げた少年は手に触れたねっちょりとした糊のような感触に不快な顔をする。しかし手を離したりするようなことはせず、そのまま引きずって部屋の中に入れた。
直後に〈スキルブック〉を手に持った少年が扉から姿を現す。念じながら開いたページを引き千切って破り取ると、そのページは虚空に消えた。
「……こんな感じかな?」
少年は呟きながら指を突き出し、その先から勢いよく水流を噴出させる。床に張り付いた血糊をこそぎ取った水は、近くの排水溝へと流れていった。
水浸しではあるものの、綺麗になった共用廊下の床に満足そうに頷いた少年は再び部屋の中へ姿を消す。
その表札には『梟ノ木一』と書かれていた。
「あ、目が覚めたかな?」
「…………君は誰?」
少年は普段使いしているパソコンの乗った机の前に椅子を回転させて反対を向き、部屋の中央に横たわる少女を見下ろしている。
少女に〈スキルブック〉にストックしてあった〈癒〉を使い、治療したところだった。
傷が癒され、意識を取り戻した少女は、身体を起こしながら少年を睨みつける。
「僕は……それこそ星の数ほどいる小説家志望の一人、梟ノ木一だよ。君は?」
「私……私は、誰? 思い出せない……なにも」
少女は頭を抱きかかえ、パニックになったようにヒィと短く掠れた悲鳴を上げた。
梟ノ木は少女のその様子を眺めながら頬を緩めた。現実にパニックに陥る少女を目の前で見れて嬉しいのだ。
「……見たところ訳ありっぽかったから、警察にも〈機関〉にも連絡してないけど。特に問題なければ連絡した方がいいかな? それか記憶喪失なら病院……?」
「だ、だめっ」
少女は慌てた様子で必死に梟ノ木に懇願する。
「どこにも連絡しないで。……それがまずいことはなぜかわかるの。それから……名前」
「名前? 覚えてないんじゃ?」
「うん。……でも一文字だけ浮かんできたの。それが、桜」
「桜、ね……」
そう言えばニュースでも言っていた逃亡中の殺気遣いの苗字が千本桜だった気がするが、偶然だろう。〈機関〉の追跡を逃れられるほどの殺気遣いが、ほとんどの記憶を失って血まみれで倒れていたなんて考えにくい。
「……疑わないの? 本当に記憶喪失なのか」
「ん? 僕の殺気術は他人の記憶のごく浅い部分を読めるんだ。君はそれすらほとんどないからまぁ、本当だろうなって」
「あ、あなた殺気遣いなのっ?」
少女はその場から飛びのき、扉へ向かって一目散に逃げようとする。
しかし殺気を纏った梟ノ木は素早く動き、少女が扉に触れる前に腕を掴み、引き戻すと、手で口を塞いだ。
「いいか? 君も殺気遣いだ。自分の感覚に耳を澄ませてみればわかるんじゃないかな。それに逃げたとしてどこに行くんだ? 警察も〈機関〉も頼れないんだろ? 僕は君に危害を加えるつもりはない。折角の取材対象だ。君の機嫌を損ねて失いたくはない」
梟ノ木は無理やり目を合わせて、諭すように言い含める。梟ノ木としては本音で話しているつもりだった。それが伝わったのかわからないが、桜はコクコクとうなづく。
叫ぼうとしたらすぐに口を塞ぐつもりで、梟ノ木は手を離した。
桜はその場で崩れ落ち、肩を震わせながら大きく息を吸う。
「どういうこと……取材って」
梟ノ木は机の前のゲーミングチェアに座り直したあと、自分は生きた素材を対象に取材をすることが好きであり、記憶喪失の少女なんて自分の小説に生かせそうな絶好の素材を失いたくないということを、「一般的な感覚からは外れているかもしれないけれど」と前置きしたうえで丁寧に説明した。
「取材……。っ、もしかしてっ」
桜は履いていたデニムパンツのボタンを外そうとして、それを興味深そうに眺めている梟ノ木に怒鳴った。
「あっちむいててよ、この変態ッ!」
梟ノ木は椅子ごと回転して机に向かった。
デニムパンツを下ろし、下着の中に手を入れて確認した桜はふぅーと息を吐く。いそいそと履き直すと、きまり悪そうに梟ノ木に声を掛けた。
「なにもなかったわ。悪かったわね、怒鳴って」
「……そりゃ重畳」
梟ノ木は身体の各所を嗅ぎまわり、感触や味も確かめたことは黙っていた。くるりと椅子を回して少女と向かい合う。
「それで、どうする? 僕としては君を住まわせることには抵抗はない。この通り狭い部屋だけど、人が二人寝られるスペースはぎりぎりあるからね。その代わり、君には僕の取材に付き合ってもらう。……ああ、あと小説家になろうで連載してる小説をダウンロードして繋ぎ合わせる作業とかもしてもらおうか。他にも段落直したり空行を消したり……。ああいうの本当にめんどくさくて……」
「………………」
少女は考え込む。主に案じているのは身の危険のことだ。だが、目の前の少年は気を失っていた自分に対してなにもしなかった。それに自分を警察や〈機関〉に突き出すつもりもないらしい。ここを出ても行く当てがない以上、ここに留まることが最善の行動なのではないか。
「……お願いするわ」
「よし、決まりだ。じゃあ僕も休憩時間は終わりだから、執筆に戻る。君はその辺の漫画とか小説とか読んでて」
そう言うと再び梟ノ木はくるりとゲーミングチェアを回転させ、PCのスリープ状態を解除した。
「……シャワー浴びたいんだけど」
「あー、まあ、うん、好きにしていいよ」
梟ノ木はシャワーの音などで自分の集中が妨げられる可能性と、今後の生活音について考えた結果、自分が慣れるしかないと結論づけた。流石に一日に十時間も桜に無音を強いるのは不可能だ。それに大した音でなければ執筆中に聴いている音楽に紛れて聞こえないはず。
浴室へと扉が開閉される音がして、少しすると水の音が聞こえはじめる。
梟ノ木は机の横にかけていたヘッドセットを取り、頭に装着した。ユーチューブを開き、プレイリストを吟味したあと、普段より音量を一つ上げる。
ブックマークの一番左から小説家になろうのユーザページを開くと、執筆を開始した。