決意
アリーシアは背中の痛みをこらえながら、賑わう通りを町のはずれに向かっている。
案の定、オリバーが帰った後、アリーシアはジェニファーに折檻された。
「なんで断らなかったの? そんなにオリバー様のところに行きたいの?」
最初の頃は口だけだったジェニファーの攻撃も、ハリエットの真似をしてすぐに扇へと変わった。一度顔にあざができた時からは、さすがに見える場所を叩くのは控えるようになったが、それが何だというのだろう。誰もアリーシアの顔など気にしないし、痛いものは痛いのだ。
救いは使用人仲間が中立でいたことだ。
オリバーが間違ってアリーシアを選んだ日、言われた通りアリーシアの面倒を見てきれいに磨き上げた使用人はひどく叱責されたそうだ。だがそもそも彼女は台所の下働きである。この仕事を解雇されたとしても、次も貴族の屋敷を望みさえしなければ商業の町ヴィランでは仕事には困らない。
余分な仕事をさせられて叱られるくらいなら、辞めて別のところで働くと言い放ったそうだ。
そうなると困るのは義母のほうだ。自分がやっているのが慈善ではなくいじめだということは自覚しており、それを言いふらされでもしたら、どこから足を引っ張られるかわからない。
結局下働きの女性はそのまま残ることになったが、正義感では飯は食えない。
「あんたには申し訳ないとは思うけど、もめごとはごめんだからね。距離を置かせてもらうよ」
それが使用人の一致した意見になった。表立って助けもしないが、女主人の尻馬に乗っていじめもしない。結局使用人として扱われるようになっても、アリーシアにとっては今までと同じ寂しい日々が続くだけだったことを、まだましだと思うべきなのだろう。
姉の家庭教師も今までの教養から、礼儀作法や刺繍など、嫁ぐための家庭教師にかわったそうだ。密かにアリーシアを支えてくれていた先生はいなくなり、アリーシアが読める新しい本はなくなってしまった。
それでも、家族ではないのに家族として過ごすひどく居心地の悪い食事の時間より、話したりしなくても悪意ない人たちと過ごす時間のほうがよかったくらいだ。
だが、目立たないように台所にいても、屋敷の裏で働いていても、なにか苛立つことがあると義母はわざわざアリーシアを探し出していいがかりをつけてくる。食事抜きを言いつけられた日は、かわいそうに思ったとしても他の使用人がアリーシアに食事を分けるわけにもいかない。アリーシアはうつむきがちな、やせたまま目だけ目立つ少女に育っていった。
ひどく叩かれて熱を出したこともある。その日、それでも仕事をさせようとした義母を止めてくれたのは家令だった。
「使用人として扱うなら、熱が出たら休ませるべきです」
「怠け者を休ませる必要などないわ」
目を吊り上げるハリエットに、家令は静かに言い聞かせた。
「死にますよ」
「何を言っているの」
自分が叩かれたこともない、いじめられたこともない義母は、限度を知らない。熱が出るほど打たれるというのがどういうことか全く理解していなかった。
「このまま看病もせず働かされたらこの子は死にます」
「それでも」
それでもかまわないと言おうとしたのだろう。
「奥様が庶子を引き取って育てていることは知れ渡っている事実です」
対外的には、淑女の鑑だと言われているのだから。
「もし引き取った子が死んでしまえば、人の口に扉は立てられません」
たんたんと語られる家令の言葉に、ハリエットはきっと口を引き結ぶと戻っていった。なぜ死んだのかはきっと噂になる。何より貴族としての体面が大事な人なのだ。
アリーシアは熱に浮かされながら、二人の話を聞いていた。死んでもいいと思われていることは悲しくなかった。
「死んだら、お母様に会えるかしら」
会えたらいいなと思う。だが、数日して熱は下がり、母のもとになど行けず、いつも通りの生活が戻っただけだった。
熱を出した後から、アリーシアにも他の使用人と同じに休暇が与えられることになった。七日に一回。アリーシアは定期的に休みを取る必要はなかったので、よく他の使用人と休みを取り替えてあげたが、それはアリーシアにも都合がよかった。休みだと知れば義母と義姉に意地悪される。働いていればそれが減った。そうしていつか自分のことは忘れてくれればいいのにと思うと、オリバーがやってきてアリーシアを引っ張り出すのだ。
その厄介ごとしか持ち込まないオリバーの家に、侍女として行かされるかもしれない。そう聞かされて、アリーシアはずっと迷っていた行動に出る決意ができた。
痛む体をおして、義母や義姉が起きてくる前に屋敷をそっと出る。帰ってきたら、何をしていたんだとまた責められるのだろう。お休みと言ってもそんなものだ。
だが、そんなことを言っていては目的の場所にたどり着けない。アリーシアはポケットの中の銀貨を二枚、ギュッと握りしめた。お母様に果物を買ってあげるつもりだった銀貨だ。勇気を出そう。お母様のために働いていた時のように。
目を地面に落としてさえいれば、アリーシアはどこにでもいる貧しい少女に見える。もう15歳だけれど、細い体に着ているのは、何度も洗って繕った13歳の時の服だ。あの時以来、新しい服など買ってもらったことはない。体に合う服を着るのはオリバーが来た時だけで、そのときばかりはお仕着せを貸してもらえる。だが嬉しくもなんともなかった。
行く先は、馬車で一度通ったきりで道も覚えていないけれど、場所を問えば間違いなく教えてもらえるところ。飛竜便の事務所だ。