姉の婚約者
明日ジェニファーの婚約者が来るという前の日、アリーシアは珍しく、他の使用人にお風呂で丁寧に磨かれていた。
「さすがに使用人みたいな格好をしてると困るんだってさ。いまさらとりつくろったって仕方がないのに」
アリーシアは人並みに一応清潔にしているつもりだけれども、まっすぐな黒髪は手入れはしていなくて自分で三つ編みにしてるだけだし、前髪も中途半端に長くてぼさぼさだ。
「元はきれいな黒髪なのにねえ。お嬢様や奥様の柔らかい金髪も素敵だけどさ、あんたみたいなまっすぐの髪もきれいなもんさ。何より黒髪は着る服を選ばないんだよ」
今までほとんど話したことのない、調理の仕事をするお手伝いの人が髪を洗うのを手伝ってくれている。
「お嬢様か奥様の侍女を貸してくれてもよさそうなもんだけど、それは駄目なんだって。余ってる使用人誰でもいいから、少なくとも、ちゃんと面倒みられてる感じにしろって命令であたしがやることになったのさ」
「ありがとう」
アリーシアは髪を乾かしながら何かを塗り付けている手伝いの人に礼を言った。理由はどうあれ、清潔にするというのは気持ちの良いものだ。母親といるときは常に清潔にしてハーブの香りのする衣服を着ていたものだが、ここではそんなことはできなかった。
「これはね、庶民の使う髪油だよ。いい匂いもしないけど、ほんのちょっとでつやつやになるから、私の物を持ってきたのさ。さ、つけておくよ。ああ、きれいな子を手入れするのは楽しいねえ。娘はもう大きくなってしまったからね」
髪の手入れをすると、明日また髪を結いに来るといって出て行ってしまった。
「きれいな子」
アリーシアは自分がきれいかどうかはあまり興味がない。だが、美しくて優しい言葉をかけられてお世話してもらったのは久しぶりだったので、その言葉を宝物のように抱えて布団に潜り込んだ。
次の日、お茶の時間に合わせてくるという婚約者を迎えるために義母と義姉は早々に準備に引っ込んだが、ぼんやりしていたアリーシアも昨日のお手伝いの人に部屋に引っ張り込まれた。昨日と違って少し不機嫌だ。
「ほら、新しいドレスだよ」
「え? 私にも?」
アリーシアは少なくとも体に合った普段着はもらっている。それで十分だと思っていたので驚いたのだ。
「少なくとも、生地だけは上ものさ。だけど、13歳の子に着せる色じゃない。見てごらん、この地味な緑色をさ」
使用人が広げて見せてくれたドレスは、深い森の奥のような暗い緑色だった。
「別にいいの。私は目立たないように端っこにいればいいだけだから。あの、着替えるのを手伝ってくれますか」
「もちろんだよ」
ボタンを留めてもらうだけでも、久しぶりの人との触れ合いに嬉しくなる。
「あんたいつも三つ編みだけど、中途半端な前髪は上げておでこを出してしまおうか。そして前髪と一緒に横の髪も後ろに。ほら」
ほらと言われても鏡も何もない部屋だ。
「ドレスが地味な緑色と思っていたけど、あんたの白い肌と緑の目に映えてきれいだねえ。さすがハリエット様。やっぱり趣味がいいね。それにあんた」
アリーシアの仕上がりを見て、さっきまで文句を言っていた使用人の機嫌はあっという間に直ってしまった。
「前髪の下にこんな美人さんが隠れてるなんて思わなかったよ。さ、たしか玄関でお出迎えだよ。行っておいで」
「はい。ありがとうございます」
アリーシアはわずかに口元をほころばせて礼を言った。
そのままの温かい気持ちで玄関ホールに出たら、既に子爵家の家族は皆集まっていた。
ハリエットは遅いと言いたかったのかもしれないが、父もいたのでそれは我慢したようだ。その代わりうつむくアリーシアのドレスをちらりと横目で見て、吐き捨てるように言った。
「卑しい身にふさわしい、薄暗い格好ね」
このドレスを選んだのは義母なのだ。親切に新しいドレスを作ってくれたのは、これが言いたかったからに違いない。
「不気味な目の色にふさわしい、沼みたいなドレスよね」
義姉も負けていない。そして父親はそんな二人を諫めることもなく、大きなため息をついて、アリーシアを叱責しただけだった。
「セシリアは明るく太陽のような女性だったというのに、お前ときたらかけらも似ていないな。せめて下を向かず、胸を張れ」
下を向かず胸を張っていたら叩かれるような家に住んでいて、明るくなれる人がいたら教えてほしい。そうは思ったものの、お母様に恥ずかしくないようにと、アリーシアはジェニファーの横に並ぶと顔を上げて前を向いた。その瞬間、玄関の大きな扉がゆっくりと開いた。
「ティナム伯爵家。オリバー様がいらっしゃいました」
外で待っていた家令が顔を出し、客の訪れを告げた。
冬の寒い風と共に入ってきたのは、まだ少年の初々しさを残しつつも、そろそろたくましさも感じられる、薄茶の髪、薄茶の瞳の甘い顔立ちの青年であった。後で聞かされた情報によると年は17歳、義姉のジェニファーとは三歳差だという。
家族のほうを見てにこりと親しげに笑ったのに好感が持てたのだろう。アリーシアは隣でジェニファーの気持ちが浮き立つのを感じたが、自分はついうつむきそうになる。だがさっき着替えを手伝ってくれた人も、きれいだと言ってくれたではないか。その言葉を思い出すと、アリーシアの頬に明るさが戻り、何とか顔を上げたままでいられた。
「オリバー、よく来てくれた」
「ハロルド。いつも仕事では会っているではありませんか」
二人はそもそも仕事を一緒にしているので、さっそく親しげに挨拶をしている。それはそうだ。義母がわざわざアリーシアを探してまで話したかったことによると、
「ジェニファーは一人娘だから、オリバー様にはハロルドの商会を分ける形でうちに入ってもらうの。そしてジェニファーの息子がバーノン子爵家を継ぐことになるのよ」
ということだからだ。つまり自分の事業を継ぐ人だから親しいということになるのだろう。
だがはにかんでいるジェニファーの様子をみると、どうやら今日初めて会うようだ。
「娘とは初めてになるね。紹介しよう」
オリバーという人は今日を楽しみにしてきたようで、父の紹介を待たず、急ぎ足でジェニファーのほうに歩み寄った。その性急な様子に父も苦笑しているが、苦笑であっても父親の笑顔を久しぶりに見たアリーシアは少し驚いた。
だが、にこやかなジェニファーの前をオリバーはすっと通り過ぎると、アリーシアの前で止まり、アリーシアと目を合わせてにこりと微笑んだ。
「はじめまして。オリバーと言います。ハロルドの娘さんがこんなきれいな緑の瞳だなんて知らなかったよ。黒髪とは珍しい組み合わせだけど、素敵だね」
なんといっていいかわからず沈黙していたアリーシアに、オリバーはどうしたのというように首を傾げて見せた。
「あー、ゴホン」
ハロルドが気まずげに咳払いをした。
「それは妹のアリーシアだ」
「アリーシア。では」
「隣が姉のジェニファー。あー、紹介しようと思っていたのは姉のほうだ」
オリバーは一瞬困惑した顔を見せたがすぐ微笑みを浮かべ、ジェニファーのほうに体を向けた。
「はじめまして。姉妹そろって美しくて驚いてしまったよ。僕はオリバー。よろしくね」
別に間違えたわけではない。最初に妹のほうに挨拶してしまっただけという雰囲気を醸し出しながらきちんと挨拶し直すオリバーは、頭がよく気遣いの出来る人なのだろう。
でもアリーシアを見て輝いた瞳と、ジェニファーがお相手と知って落胆した表情は、見る人が見ればはっきりとわかるほど違っていた。