最初の一年
バーノン家に来たばかりの頃を思い出すと、そもそも「子爵家の籍に入っている」というお父様の言葉は、貴族である義母のハリエットには大きかったらしい。アリーシアが今後どんなところで生活しようとも、その振る舞いは子爵家の責任になる。ひいてはハリエットの責任になるからだ。
客室で目が覚めたアリーシアにとって戸惑いばかりだったが、その日から子爵家での生活が始まった。最初の試練は家族そろっての食事だった。
アリーシアは母から食事のマナーについて自然に教わっていたので、父が訪れて一緒に食事をしたときにも特に何も言われたことはなかった。だが、バーノン家ではどうやら食前の祈りがないのには戸惑った。食事の時は、女主人が北の神々に祈りを捧げるのがアリーシアと母の習慣だったのだ。
誰もやらないのなら自分がと思ったアリーシアは食前の祈りを始めた。北の国の言葉ではなく、父や他の人にも伝わるよう、セイクタッドの言葉に直して。
「遥かなる北の峰の神々よ、清涼なる風と水を我らに与えたまえしことに感謝します」
ドンと大きな音がして驚いたアリーシアが組んだ手を慌ててほどくと、テーブルの上で両手を震わせていたのは父だった。
「二度と」
地を這うような低い声だった。
「この家で二度と、北の国の祈りなど捧げるな。セシリアの代わりなどいらない」
母の代わりになろうとしたのではない。母の大事にしていた北の国の習慣を続けたかっただけだ。だがそんな主張は通るどころかそもそもさせてもらえすらしなかった。
それでも父は自分の見えないところでアリーシアが何をしていようと興味がなかったが、義母は違った。
「今からでは遅いかもしれないけれど、子爵家として恥ずかしくないだけの勉強はさせます。異国の習慣などすべて捨てなさい」
最初にそう宣言されると、義姉のジェニファーと一緒の勉強が始まった。
アリーシアはジェニファーより半年だけ年下だが、同じ年齢の子どもの中では小さいほうだ。だが、義母はたくさんあって余っているジェニファーのおさがりを着せようとはしなかった。
「たとえ着られなくなった服でも、ジェニファーの身に着けた物をあの女の子どもに着させたくないわ」
そう言って、服は既製品を着せられた。いや、もしかしたら古着だったのかもしれない。大きくなっても着られるようにと、少し大きめで最小限の数しかなかったが、短くもなく、きつくもない服にはアリーシアは感謝した。丈の短い服を着て歩くのは正直なところつらかったのだ。
部屋については、
「偶然にでも顔を合わせたくないわ」
という義母の希望で、家族のいる二階ではなく、一階の使用人の小さい部屋になったが、一人部屋だったのは助かった。異国の習慣など捨てなさいと言われても、いつもしていた寝る前の祈りと本を読む習慣だけは捨てたくなかったからだ。それまで失くしてしまったら、母の思い出まで捨ててしまうのと同じ気がした。
「子爵家の令嬢として恥ずかしくないだけのと言われても、学校にも通わず、家庭教師も付けなかった異国の子どもにどこから何を教えたらいいのかしら」
と戸惑っていた家庭教師は、アリーシアが読み書きができると知って目の色が変わった。
「お母様と毎日勉強をしていたんです」
母も幼い頃からずっと自宅で勉強を教わっていたという。
「セイクタッドの言葉も教わっていたのよ。だから、たどたどしくてもハリーとお話しできたの。勉強は大事よ」
母にはそう言われ、セイクタッドとアルトロフ両方の言葉の読み書きを勉強していた。そのおかげで翻訳の仕事をもらえてからは、より熱心に勉強したものだ。
「あっという間に私を追い越してしまったわね」
嬉しそうな母に、
「お母様も一緒に外に行きましょう」
と何度誘っても、母は外に行くのは好まなかった。それが、幼い頃から外に出たことがなかったせいなのか、外で人に見られるのが嫌だったからなのかはアリーシアには今でもわからないのだけれど。
母の具合が悪くなってベッドで過ごすことが多くなってからは、今度はアリーシアが北の国の本やこの国の本を読んで聞かせたりした。
家庭教師とではあっても、久しぶりに母の話ができて嬉しかったアリーシアは、目をきらめかせてその思い出を語った。
しかし、それが義母の逆鱗に触れたらしい。初めて木の枝で叩かれたのはその次の日である。家庭教師と一緒に入ってきた義母は怒りに目を吊り上げ口をへの字に曲げていて、美しい顔が台無しだとアリーシアは思ったが、その怒りが自分に向けられているとは思いもよらなかった。
「ハロルドが北の国の話をするなと言ったのを忘れたのかしら」
「お父様が言ったのは、北の国の祈りを捧げるなということだけです」
思わず言い返したら、義母は無表情になり家庭教師の備品から何かを取り上げた。さっと手をひらめかせた途端、アリーシアの頬に痛みが走った。あっけにとられた家庭教師がはっとして止めるまで、木の枝で何度も叩かれた。
「この木の枝はそんなふうに使うものではありません。宿題を忘れた子どもの手を軽く叩くだけのものです」
頭をかばったアリーシアの手にはミミズバレができていたし頬には一筋赤い線が入っていた。
「この子に、二度と北の国の話をさせないで」
家庭教師に言い置くと義母は息を切らし、ほつれた髪の毛をなでつけながら足音荒く勉強部屋を出ていった。こっそりと顔をそむけたジェニファーの口元がかすかに上がっているのをアリーシアは見逃さなかった。
この家に味方などいない。中年に差し掛かろうという年の家庭教師の女性も、雇い主に何か言えるわけがない。アリーシアをかばったことも下手をすると解雇されかねない行為だったのだから。
結果として家庭教師の女性はその時は解雇されなかった。バーノン子爵家に庶子が引き取られたという噂を広げたくなかったのだろうとアリーシアは思う。そしてそれがこの家でのアリーシアの唯一の幸運だったかもしれない。
バーノン子爵家でのアリーシアの立ち位置を理解し、またアリーシアの勉強に対する熱意を汲み取り、できるだけのことをしてくれたのだから。
家庭教師の先生はまず徹底的に義姉のジェニファーを持ち上げ、アリーシアにその振る舞いを学ぶようにと言うことから始めた。アリーシアを放っておいて、ジェニファーにだけ授業するときもたびたびだ。その間、アリーシアには自習するようにと本が数冊置かれるだけである。
最初戸惑っていたアリーシアだが、すぐに家庭教師の意図を理解した。
教わるのではなく、学びなさいと言ってくれているのだ。アリーシアがものを覚え、賢くなればなるほどいじめられるということを見抜いていた。
家庭教師の先生は、アリーシアをよく見ていて、一冊の本を学び終わるごとに積み上げる本を変えてくれる。一見すると放置されているようにしか見えないというわけである。
また、ジェニファーは意地悪であっても貴族らしく、小さなレディであり立ち居振る舞いは上品だった。
アリーシアから見ても、ジェニファーは箱入りのお嬢様だった。あんな父親なのに、尊敬し慕っている。最初アリーシアのことはよいも悪いもなく、単に家にもう一人女の子が来たくらいにしか思っていなかったのだと思う。だが数日して、母親からなぜアリーシアが妹と言われたのか聞いたのだろう。一緒に勉強するように言われた時も、
「汚らわしいわ」
と汚い者でも見るようにアリーシアを見るようになった。だがアリーシアは気にしなかった。お母様は汚らわしくなんかない。だとしたらアリーシアだって汚らわしいものなんかではないと強く信じていたからだ。
好き嫌いは別にして、同世代の見本がいることはアリーシアにはとても良い影響を及ぼした。
次第に北の国らしさはなくなり、ジェニファーのように振る舞うことで屋敷でも目立たなくなった。目立たなければ叱られることもない。使用人はアリーシアが女主人に好かれていないのを知っているからかかわってこない。父親はアリーシアがいないように振る舞う。そんな毎日はひどく寂しいものだった。