笑い声
「さあ、アリーシアが戻って来たことだし、最後にもう一人、話をつけなくてはならない人がいる」
アリーシアが屋敷に戻ってきてすぐのこと、グラントリーがこう言い出した。
「そもそも、アリーシアがここを出るきっかけを作った人だ」
「まあ、坊ちゃま。もしかして王女殿下のことですか。もうすぐお隣の国に行ってしまう人ですもの、放っておいたらよろしいんですよ」
エズメがお茶の用意をしながらあきれたように肩をすくめた。
「私のその、婚約者の評判を落としたんだぞ。絶対に許さない」
グラントリーの苛烈な言葉に、アリーシアは驚いた。アリーシアに傷がたくさんあることはもう知れ渡ってしまっているし、こういった噂は決して消えない。アリーシアは傷のある女として一生人に噂され続けるだろう。だが、それがグラントリーには迷惑ではないというのであれば、アリーシアは噂されても仕方がないと思っていた。
そんなアリーシアに、グラントリーは強い視線を向けた。
「アリーシア。傷を見せるのは嫌か」
「嫌に決まってますよ。そもそも傷のあるのは背中なんですよ。傷があるかどうかではなく、背中を見せること自体が恥ずかしい……」
アリーシアの代わりにまくし立てていたエズメの言葉が途中で止まった。
「夜会、ならば。背中を見せるドレスは普通ですが。アリーシア様には背中が見えないデザインをと考えておりました」
夜会どころか、社交の場には一度も出たことのないアリーシアだが、この二人の会話から、グラントリーがアリーシアを夜会に連れていきたいのだなということはわかった。
「デライラ王女がもうすぐ隣国に嫁ぐが、その前に、親しいものを招いての夜会がある。私も聖竜の家に連なるものとして招かれているが、そこにアリーシアを連れていきたい」
「でも私、まだデビューもしていなくて」
「そこでデビューさせる。要は王に言葉をもらえばいいわけだからな」
成人してすぐに結婚する少女の中には、デビューが間に合わないものもいる。そこでこういう形のデビューが認められているのだという。
「私はこの仮面を外して、傷跡を隠さず出るつもりだ。そしてアリーシア」
「坊ちゃま! いけません。若い女性に傷跡をさらせなどと、そんなむごいことを!」
アリーシアはエズメがいちいち代わりに怒ってくれるので、思わずおかしくなってクスクスと笑ってしまった。
「まあ、アリーシア様」
珍しいアリーシアの笑い声に、すっかり毒気を抜かれたエズメが、急におとなしくなってしまい、アリーシアはしばらくクスクス笑いが止まらなかった。
「かまいません。でも、王女殿下が気に病まないでしょうか」
「アリーシア。そんなに優しすぎてどうする。もしアリーシアに婚約者がいなければ、一生結婚などできないかもしれないほどのひどい噂を流されたんだぞ」
「でも、事実ですから」
なぜだかグラントリーが頭をかきむしっている。
「君は背中の開いた白いドレスにショールをかけて出るんだ。そして私の指定するタイミングで、ほんの少し傷を見せる。それだけでいい」
「でもそれで、アリーシア様の縁談が遠のいてしまったら……」
手を揉むエズメに、アリーシアはついに笑い出してしまった。
「エズメ」
グラントリーが静かに言い聞かせた。
「アリーシアは、私と婚約をしているんだから。縁談の必要はないだろう?」
「あらまあ、そうでした。坊ちゃまもせいぜいお若い方に負けないように着飾りませんとねえ」
「エズメ!」
暗い闇の底にいるようだったバーノンの屋敷とは違う。この屋敷はまぶしいほどに光があふれているとアリーシアは思うのだった。
アリーシアの傷を見せることがどう大切なのかわからないが、大急ぎで準備したドレスの仕上がり後すぐに、夜会に出かけることになった。
肩をきれいに見せるために、初めて髪を上げたアリーシアは、鏡に映った自分を不思議な気持ちで眺めた。
「お母様」
今まで母親と似ていないと父親に責められ続けられてきたアリーシアだが、こうやってみると、髪の色が金色なら母親とそっくりのような気がした。ほっそりとした首元に、長い手袋。白いドレスは首も背中も大きく開いているが、高いウエストから下に広がっていて優雅だ。くるっと回って背中を見ると、確かにたくさんの傷跡を斜めに横切るように大きな傷跡が走っている。
だが、それがなんだというのか。大事な人が気にしないのであれば、アリーシアが気にする必要などないのである。
エズメに散々褒められたアリーシアは、美しいドレスに少しのぼせた気持ちでグラントリーを待った。やがて迎えに来たグラントリーは、アリーシアを見て息を飲んだ。
「おとぎ話の妖精とは、きっとこんな感じなんだろう。可憐だ」
それが褒め言葉かどうか今一つわかりにくかったが、グラントリーの目が優しく細められたのでアリーシアは満足だった。
ティアラをそっと頭に乗せてもらい、ショールをふわっと肩にかけたら完成である。
「では、参りましょうか、婚約者殿」
「はい」
「やれやれ、せいぜいが幼馴染ってとこですねえ、まだ」
エズメの嘆きを背後に聞きながら、二人は城に向かった。
「そういえばグラントリー様は仮面を外さないのですね」
「いずれ外すべき時が来ると思うよ」
そうなのかとアリーシアは素直に頷いた。仮面があってもなくてもグラントリーはグラントリーだ。
内輪の会というから、何人くらい人が来るのかと思っていたアリーシアたちが通されたのは、城の大広間であった。大きな扉が開いて通された中は広く、百人は下らない紳士淑女で込み合っていて、アリーシアは密かにグラントリーを恨めしく思った。だが、そんなことを気にしている場合ではない。二人が入った途端、広間は入口から見事に静まり返った。
「グラントリー・シングレア伯爵。アリーシア・バーノン子爵令嬢」
紹介の声と共に、グラントリーに片手を預けて、優雅に膝を折って一礼する。アリーシアが顔を上げると、ざわざわと声が戻り始めた。
「アリーシアがあまりに可憐だから、その話題で持ちきりだね」
そんなわけがないと思うアリーシアは、周りの人のことは気にせず、キラキラ光る燭台やドレスに目を奪われながら、王のもとにゆっくりと進んだ。それはまさしく社交界に初めて出る初々しい令嬢そのもので、珍しい緑の瞳の美しさと繊細さと共に周りの話題をさらっていたことに、アリーシアだけが気がついていないのだった。
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