ジョージのオレンジ
「あとはアリーシア本人にうんと言わせる作戦だな」
「若」
「なんだ」
ライナーは馬車に乗り込みながらグラントリーに尋ねた。
「なんでアリーシアを取り戻したいのか、アリーシアをどうしたいのかわかったのか」
「わからない」
「わからないのかよ」
ライナーは脱力したようで、馬車の座席にだらしなく寄り掛かった。
「わからないが、アリーシアがうちではないどこかに嫁ぐと思うとそれはそれで腹が立つからということにする」
「父親だろ、それは」
あきれたようなライナーに、しかしグラントリーはそれ以上のことは答えられなかった。
「竜を見る目が、私と同じだからかな」
「かわいそうだからじゃなくてか」
「ああ」
なぜこんなにも必死にアリーシアを取り戻したいのか、グラントリーにもよくわからないのだった。
「すでにアリーシアのいる家はうちが押さえた。明日からアリーシアを取り戻す作戦を始める」
アリーシアは今日も窓から外を見ていた。最近、よく竜が飛んでいるのだ。
「グラントリー様が乗っていたりしないかな」
遠くから見ると竜の色などわかりはしないのだけれど、濃い色に見えるとショコラかもしれないと思う。
「自分から出てきたのに、迷惑をかけないようにって思っていたのに、未練がましいのはだめね」
手を伸ばしても北の国の本はない。何一つ持たずにあの日屋敷を出たアリーシアは、屋敷の外で待ち構えていたバーノンの使用人につかまり、馬車に詰め込まれてしまった。
連れていかれたのはバーノンの屋敷ではなく、この小さな家だ。窓から見る外は白い柵に囲まれていて、母親と住んでいた家が思い出されて切ない気持ちになる。
なにもわからないまま連れてこられたが、すぐに父親がやって来た。
「やっと出てきたな。今度は私が行かないとだめかと思っていたが、出てきてくれて助かった」
顔を合わせるなりそんなことを言い出したのでアリーシアは少し驚いたが、アリーシアの都合など全く考えないこのやり方が父親らしいとも思ってしまった。
「お前の嫁ぎ先が決まった。若い後妻を探している裕福な商人だ。伯爵家など目ではないくらい贅沢な暮らしができるぞ」
この人は何を言っているのか。アリーシアはもう何に反論していいかわからないほどだった。
「贅沢な暮らしをしたいと思ったことなどありません」
反発されるとは思わなかったのか父親の眉が上がった。
「それに、結婚もしません。今日私は16歳になりました。成人です」
「成人したのは知っている。だから結婚の話をしているのだろう」
「結婚はしません。そこをどいてください。これから仕事を探さないといけないから」
「仕事をする必要などない」
アリーシアは首を傾げた。どうしても父親と話ができない。同じセイクタッドの言葉を使っているはずなのに、父親がアリーシアの言うことを理解したことなど一度もなかった。
「お父様。知っていますか」
「何をだ」
父親が苛立たし気に返事をした。よかった。これは通じたようだ。
「生きていくにはお金がかかるのですよ」
「当たり前だろう」
「お金がなかったら、服を売らなければならないんです。服がなくなったら、花瓶やお皿を。椅子を買ってくれた人もいました。医者を呼ぶためには、それでも足りなくて、仕事を探してお駄賃をもらわなければいけないんです」
「お前……」
父親の顔色が悪くなった。
「それでもお金がない時は、一つのパンを半分にして、それを一日一回だけ食べるのよ。なんとか仕事が見つかった時は、お母様に果物を買うの。果物を買わずに、パンを買ったほうがお腹はすかないのだけれど、お母様は果物のほうが好きだから」
「やめろ! 私のせいじゃない! ハリエットのせいだ!」
父親は顔色を青くして後ずさっていった。
「いいか。この家から出るなよ。出たらシングレアに迷惑がかかるんだぞ!」
バタンと音を立てて父親が出ていった後には、護衛と称する見張りと、一人の使用人が残った。
「お金のためには仕事をしなくてはいけないと言おうとしただけなのに。どうしてお父様には話が通じないのかな」
つぶやいたアリーシアは、二階の寝室に追いやられ、それからずっと用事があるとき以外はそこに閉じ込められている。
窓の外を見ていると、トントンとドアを叩く音がした。食事を置きますよと言う合図だ。食欲はなかったが、アリーシアはのろのろとお盆を取りに行った。
「体を作らないと、逃げ出せないもの」
アリーシアは父親の言う通りに嫁ぐつもりなどなかった。アリーシアの家族はお母様だけだ。成人するまでは我慢していたが、父親のために嫁ぐなど嫌だった。
グラントリーの元にはいたではないかという心の声がするが、それはそっと心の底に抑え込む。
エズメもヨハンも自分の心の声を聴く大切さを教えてくれた。アリーシアはもう、誰かの心の痛みを引き受けて我慢することはしたくないし、アリーシアのために誰かの人生に迷惑をかけることもしたくない。グラントリーの屋敷がどんなに居心地がよくても、アリーシアがいることで迷惑がかかるのなら、いなくなったほうがいいのだ。
ドアを開けてお盆を持ち上げると、料理の感じがいつもとちがう。
「オレンジがついてる。それにお野菜が花びらみたい」
料理人のジョージさんがよく作ってくれたっけと懐かしく思い出す。スプーンでひとさじスープをすくうと、懐かしい味がする。
「帰りたい」
ぽつりとこぼれ出た言葉は、アリーシアの心の声だ。がたりと廊下で音がしたのは、見張りの人が動いたせいだろう。
「いいえ、帰ってはいけないの。グラントリー様にはふさわしい人がきっといるはずだから」
食事を終えたアリーシアは、いつもより近くを飛ぶ竜を、飽きることなく眺めて過ごしたのだった。
次の日の朝食の後、いつもより静かなような気がしてアリーシアは部屋のドアをそっと開けた。耳を澄ましても、誰もいる気配がない。
「もしかして、今なら抜け出せるかも」
アリーシアは急いで上着を来て、部屋から静かに抜け出し、階段を降りた。そこまで来ても人の気配はない。アリーシアがおそるおそる玄関のドアに手を伸ばした時、コンコンと、ドアを叩く音がした。
「ひっ」
思わず飛びのき、あたりをうかがったアリーシアだったが、家にはやはり誰もいないようで、人の出てくる気配はない。
「すみませーん」
出入りの商人のようだ。アリーシアは恐る恐る玄関を開けてみた。
ちょうど逆光で見えにくいが、背の高い男性が何か一枚紙を持って立っていた。
「すみません。求人に来ました」
「求人?」
「事務所の人が足りなくて。仕事ができる人はいないかなって」
わざわざ家を回って求人するなんて聞いたことがない。アリーシアは戸惑ったが、それより気になることがあった。何となく聞き覚えのある声なのだ。
アリーシアは顔が見えるように少し移動し、そして目を見開いた。
「うちの事務所で、アルトロフ語ができる人を募集してるんだよ」
「グラントリー様! 仮面が!」
わざと声を変えていたのか、すぐにはわからなかったが、一度そうだと知ってしまえばグラントリー以外の誰の声でもなかった。それに仮面がない。一度も見たことのない仮面の下には、左目を縦に切るように一文字の長い傷跡が走っていた。
グラントリーは紙を持っていない左手で、傷跡のある左目を覆った。
「仮面があったほうがかっこいいかな」
「いいえ。いいえ、グラントリー様は仮面があってもなくても素敵です」
「ぐっ」
グラントリーは押しつぶされたような声を出して口元を覆った。そんなグラントリーを見てアリーシアはハッとして家に戻ろうとした。そもそもグラントリーのそばにいてはいけないと思ったから屋敷を出てきたのではないか。
「アリーシア」
グラントリーに呼ばれて、扉に手をかけたアリーシアの足が止まった。
「仕事をしたくないか。飛竜便の事務所は、活気があっていいぞ。ライナーは口うるさいけどな」
ほうっておけよと、柵の向こうからライナーの声がしたような気がした。
「したい、です。でも」
「今なら給料も弾むし。で、そのついででいいから、アリーシア」
アリーシアはその優しい声に、思わず体を半分だけグラントリーのほうに向けた。
「私の婚約者でいてくれないか」
アリーシアは扉をギュッと握ってうつむいた。
「でも私。背中に傷があって。グラントリー様が悪く言われるのは、いやなんです」
「アリーシア。こっちを見て」
アリーシアは首を横に振って目をギュッとつぶった。
「アリーシア」
その声はすぐ近くで聞こえた。思わず目を開けると、かがみこんだグラントリーの顔が目の前にあった。
「私の傷は、醜いか」
「いいえ。いいえ」
グラントリーは微笑むと悲しそうに首を横に振った。
「いいや、私の傷は醜いよ。でもね」
そしてアリーシアの手を取り、そっと自分の顔に押し当てた。
「醜いはずの傷を、気にしない人がいる。ヨハン、エズメ、ジョージ、ライナー。私の家族に、友人たち。そして君だ。アリーシア」
傷がついていたからと言って、グラントリーの太陽のような温かさが変わるわけではないのに。
「君の傷跡も、きっと醜いんだろう。だけど、エズメがそれを気にしたことはあるかい?」
アリーシアはいいえと首を振った。
「君の傷跡は、君が頑張ってきた印だ。君が私の傷を気にしないように、私も君の傷が気にならないよ」
「でも」
「他の人なんてどうでもいいんだ」
その言葉に、エズメの顔が頭に浮かぶ。いつもアリーシアの気持ちを聞いてくれていた人だ。
「アリーシア様は、どうしたいですか」
家の中から、ひょこっと顔を出したのはエズメだった。
「エズメは昨日しっかりと聞きましたよ。アリーシア様の本当の気持ちを」
アリーシアの目はまた大きくなった。昨日の懐かしい食事は。
「屋敷の外でだって、しゃれた料理はお手の物だ」
「ジョージ」
エズメの後ろから顔を出しているのは料理人のジョージだった。外を見ると、柵に寄りかかっていたライナーが片手を上げた。止まっている馬車の御者席にはヨハンがいる。
「まだ私一人の魅力ではアリーシアには足りないかと思って、人手を集めておいたんだよ。なにしろ私は婚約者殿に逃げられた男だからね」
苦笑しているグラントリーの目は、相変わらず晴れた日の青空のようだった。アリーシアの口からこぼれ落ちたのは、本当の気持ちだった。
「帰りたい」
「よし! 求人成功だ! それ!」
アリーシアはグイッと抱えられると、あっという間に馬車に乗せられてしまった。大きな馬車だが、わらわらとエズメやジョージにライナーも乗り込んできて、馬車はぎゅうぎゅう詰めになってしまった。
隣を見上げると、グラントリーはいつの間にかまた仮面をつけてしまっていて、アリーシアにはそれが少し残念な気がした。
「正直に言って、婚約者がどんなものなのか私もよくわからない。だが、君の父親には話はつけてきた。もう邪魔をされることはないはずだから、二人でゆっくり考えていかないか」
婚約するということが、この温かい人の隣にいるということなら、それ以上何も考えなくてもいいのではないかとも思う。アリーシアは小さく返事をした。
「はい」
心の声をそのままに。私がここにいてもいいのかもしれないと思わせてくれた人のそばに。




