背中のしるし
「なんとまあ」
エズメの声が遠くに聞こえる。
「あれほどとは思いませんでした。あの中で過ごしてきたとは……」
アリーシアは、ぼんやりと落ちたコインを拾った。
「いけません、アリーシア様。そんなもの!」
「エズメ、これでパンがたくさん買えるの。お母様と二人で食べたら、三日は生きられたのよ。お金は大切なの」
両手を揉みながら心配そうに見るエズメに、アリーシアはお願いをした。
「背中を。背中の傷を見てみたいの」
「まだ治っておりませんよ」
「お願い。見てみたいの」
繰り返すアリーシアに抵抗しきれず、そのままアリーシアの部屋に向かうことになった。エズメは部屋に入るとカーテンを引いて、部屋を薄暗くした。
「治りきっていない傷跡は見栄えが悪いですが、今は気にしてはいけませんよ。医者によると、やがて薄い一本の線になるそうですから、それをちゃんと覚えていてくださいね」
エズメはそう言うと、アリーシアの服の後ろのボタンをはずしてくれた。アリーシアは、後ろをはだけた服を手で押さえながら、鏡に背を向けそっと振り向いた。
カーテンから漏れる薄暗い日の光の中でもはっきりとわかる一本の赤い傷跡。アリーシアはそっとつぶやいた。
「これは、王女殿下を守った勲章」
だから恥じることはない。でも、傷はそれだけではなかった。赤い傷の下には、短い打ち傷の跡が縦横に走っていた。
「これは、父親に守ってもらえなかった印」
「アリーシア様!」
エズメの声は今日は不思議と遠くで聞こえるような気がする。
アリーシアにはいつもお母様しかいなかった。やっと幸せのかけらをつかんだような気がしても、それは失われ、もっとひどい結果を連れてくる。
「アリーシア様は悪くないんです。バーノン家の奴ら、本当にひどいことを!」
「いいえ」
アリーシアは首を横に振った。
「ずっと思ってたんです。私も幸せではなかったけれど、私がバーノン家にひきとられなかったら、奥様もお嬢様ももっと幸せだっただろうなって。お父様も私がいなければお母様を独占できて幸せだったに違いありません。グラントリー様もきっと」
こんなひどい傷を負わされるようなアリーシアが側にいたら、グラントリーまで幸せではなくなってしまうかもしれない。
「なぜ私は、お母様のように人を幸せにできないのかしら」
「アリーシア様。アリーシア様がこの屋敷にいらして、私どもは毎日が楽しいですよ」
「ありがとう。エズメ」
服を直しながらわずかに微笑んだアリーシアには、エズメの声はやはり遠くに感じられるだけだった。
アリーシアはいつものように枕元にある北の国の本を胸に抱いた。本当はこの本を読む必要はもうない。何度も何度も読み返した本の中身は、全部暗記しているからだ。ただ、本を抱えてページをめくると、母と過ごした温かい日々がよみがえるような気がして手離せない。でも、最近はこの本を手に取る回数も減っていた。
「エズメ。ヨハン」
アリーシアに何も足さず、何も引かなかった人たち。アルトロフ出身の母を持ち、珍しい色の瞳と黒髪の組み合わせを持つアリーシアは、褒められるにしてもけなされるにしても、その出自と外見ばかり注目され、アリーシアの中身を見てもらえることはほとんどなかった。
それなのにお屋敷の人たちは、あなたはどうしたいのか、どうありたいのかと、いつもアリーシアをまっすぐに受け止めてくれた。それは真冬の空気のように凍り付いたアリーシアの心を少しずつ温めて緩めてくれたように思う。
「グラントリー様」
自分はあなたの婚約者なのだと、だから二度と家には戻らなくていいと言ってくれた人。本来なら、アリーシアのような境遇では望むべくもない縁である。いずれ結婚するという実感はなかったが、なによりアリーシアに自分の居場所を作ってくれた人だった。
アリーシアは本をことりと枕元に戻し、自分の胸にそっと手を当てた。
「本がなくても、もう空っぽじゃない。少し温かい気がするのは、きっとこのお屋敷の人たちがいるから」
アリーシアの口元には微笑みが浮かんだが、目を閉じると涙のしずくがぽたりと絨毯に落ちて消えた。
「自分に傷があることはもういい。でも、そのことでグラントリー様が悪く言われるのは、やっぱりつらいの」
傷があり仮面をかぶっていることで避ける女性も多いかもしれない。だが、あれほど親切で明るい人だから、きっとアリーシアよりふさわしい人が見つかるはずだ。
「飛竜便の事務所で働きたかったな」
ライナーはきっといい上司だろう。その下で一生懸命翻訳をして、雑用で走り回って、時々竜を見る。そして明るい顔で事務所に入ってくるグラントリーに挨拶をして、お茶を出したりするのだ。
「お母様がまだいてくれたら。そして私が、ただの町娘だったら」
グラントリーはきっとあの色とりどりの飴をお土産だよと言って渡してくれるだろう。アリーシアはそれを持ってお母様のところに帰る。
「でもお母様はもういなくて、私は傷のある、子爵家の予備の娘」
グラントリーの側にいたら、グラントリーの評判を落とし、不幸をもたらすだけの娘だ。二度と子爵家には戻りたくない。だが、この屋敷にもいられない。
「あと数日で、私は16歳になる」
グラントリーも帰ってくるから、お誕生会をやりましょうねとエズメに言われていた。とても楽しみにしていたのだけれど、婚約者でなくなるアリーシアにはその権利はない。
だがここを出ても、アリーシアはアリーシアだ。この屋敷の人がそう教えてくれた。
「アルトロフの言葉だけではなく、この国の文字も読み書きできる。下働きもなんでもこなせる。ヴィランは大きな町だもの。一人でも生きていける」
アリーシアはポケットに、ハンカチに包んだ銀貨を六枚しまい込んだ。
「私の代わりに、このお屋敷に置いてもらってね」
北の国の本は置いて行こう。お母様の形見は、本ではなく、私自身なのだから。
エズメが起こしに来る前に、アリーシアはそっと屋敷を抜け出した。




