人が一人、いなくなっただけのこと
戸惑うジェニファーをよそに、金髪の女性のほうが目を吊り上げた。
「ハロルド。あなたまさか、本宅にあの泥棒猫の子を連れてきたの?」
「ハリエット」
父親の静かな声がハリエットを黙らせた。
「セシリアは死んだよ」
アリーシアの母が亡くなったという知らせに、使用人の間に動揺が走った気がした。父は口元をゆがめて、ハリエットを見る。
「満足か」
「満足かなんて、ひどいこと。お悔やみ申し上げますわ。でもその方が泥棒猫だったことに変わりはありませんでしょう」
アリーシアは黙って成り行きを見守っていた。
知っていたのだ。
近所の数少ない友だちを見ても、父親が一カ月に一度しか来ない家なんてない。家に閉じこもりがちな母と、年をとってあまり動けないばあやの代わりに、アリーシアは積極的に外に出ていた。特にここ二年はそうしなければ暮らしていけなかった。
近所のおばさんたちは、アリーシアを遠目で見ながら、アリーシアの父親がどこかの貴族だとひそひそと噂する。本宅があって、奥さんと子どもがいることもそこから知った。
父はおかしな人だとアリーシアは思っていた。お母様のことが大好きなのに、大切にしているとはとても思えない。お母様を見て喜ぶけれど、アリーシアはいてもいなくてもどうでもいい。父親のそういうすべてのことが腑に落ちた瞬間だった。
「お母様は、知っているの。お父様の本宅のこと」
聞かなければよかったかもしれない。でも、噂を聞いてから落ち込むアリーシアを心配する母に、つい聞いてしまったのだ。
「誰から聞いたの? いいえ。外に出ていれば嫌でも聞こえてくるものね」
悲しそうに微笑んだ母に、やはり聞かなければよかったと後悔したがもう遅かった。
「言い訳にしか聞こえないかもしれないけれど」
母親はアリーシアを、隣に座らせて話してくれた。いつも並んで一緒に本を読むソファだ。北の国でお祭りのために初めて外に出たお母様にお父様が親切にしてくれたこと、駆け落ちしてきたこと。それは何度も聞いた思い出話だ。でも、そこからは初めて聞く話だった。
「アリーシアは私が初めて外に出たっていうのがどういうことかわからないわよね」
大事に育てられたということだと思っていたアリーシアは、首を傾げた。
「それなりに広いおうちだったと思うの。でもね、庭には出たことがあっても、周りは高い塀で囲まれていてね。本当に一歩も外に出たことがなかったのよ。お祭りは三日間だけ。初めての日にお父さんと出会い、二日目には共に生きると決めた。三日目に、大切な本だけ持ってお父様と逃げ出したの」
子どものアリーシアが聞いても、全く計画性のない話であきれてしまう。
「お父様に奥様がいるなんてその時は知らなかったの。駆け落ちしたから、北の国では無理だったけれど、ここに来たら正式に結婚するものだと思っていたわ。でもね」
お父様は今の妻とは愛のない結婚だったため、離婚するつもりでお母様を連れてきたのだという。だが、お父様が北の国に商売に行っている間に娘が生まれ、離婚できる状況ではなくなってしまった。
「そして私も家出した身。その時にはアリーシアもお腹にいたし、とても故郷には帰れなかったの」
結果として甘んじて日陰の身になるしかなかった。
「誰も悪くないの。ただ、タイミングが悪かっただけ」
人のいい母はそう考えるかもしれない。でもアリーシアは違うと思うのだ。どう聞いてもすべて父が悪い。でも、アリーシアが父親を責めたら、母がどう思うだろうか。間に挟まってつらい思いをするのは母なのだ。
「お父様と旅した思い出だけで、私は生きていける。ハリーは私に初めて世界を見せてくれた人なの」
アリーシアには母しかいない。母にだけは幸せに過ごしてもらいたいアリーシアはそれ以上何も言えなかった。
玄関ホールでは、寒い中まだ話が続いていた。
「送金を止めたのはお前だな。ハリエット」
「主がいない間、家を管理するのは妻の仕事。怪しいお金の流れを止めたとして、何の問題があるでしょう」
そしてそのはざまで、北の国から来た一人の女が死んだと、彼女にはそれだけのことなのだろう。
「それで私をやり込めたつもりか。お前は心根まで醜いな。セシリアとは大違いだ」
「まあ!」
二人のやり取りに、間に挟まった娘がおろおろしながら止めようとしているのをアリーシアは何の感慨もない目で見ていた。何を思うことがある。もう母親はいないのだから。
「いずれにせよセシリアはもういない。お前はどんなに嫌でも、セシリアの娘の面倒を見ることになるんだ」
「なんですって!」
セシリアの娘。お父様にとってはそれだけの存在である。
「庶子とはいえ、産まれた時からバーノン子爵家の籍に入っている。これからこの家で面倒を見ることになるからな」
アリーシアは、この針の筵のような本宅でこれから過ごさねばならないのだ。
暖かい事務所で翻訳をしながら、これで母のための果物が買えると思っていたのがほんの一日前だなんて思えない。ふとめまいがしたアリーシアは、その場にしゃがみこんだ。そういえば、いつご飯を食べたかも覚えていない。そのままホールの床に沈み込むように倒れたアリーシアは、その後どんな話し合いがあったのかは聞かずじまいだった。
気がついたら、客室に寝かされていたのだった。それでもそれから一年は、意地悪されたり無視されたりしながらも普通に生きてこられたのに。
「アリーシア」
後ろからかけられた声にハッとする。油断した。アリーシアは緊張で体が硬くなった。
「オリバー様」
曲がりなりにも、父の娘としてなんとか暮らしていたアリーシアの生活を地獄に突き落としたのはほかでもないこの人だ。アリーシアはオリバーの無自覚な優しさが大嫌いだった。
「また少しやせたんじゃないのか」
「いえ。そんなことはありません。では」
「待って」
カートを押す手を取られ、アリーシアに鳥肌が立つ。
「僕からジェニファーに言ったんだよ。君を連れて嫁いでくればいいって。そうすれば少なくとも君が僕の目の届くところにいられる。ご飯だってちゃんと食べさせてあげられるから」
「いえ、この家では十分よくしてもらっていますので」
アリーシアは失礼にならない程度に強く腕を振り払った。オリバーはアリーシアが冷遇されていることに早いうちに気がついた。そしてことあるごとにアリーシアに優しくしようとするのだが、そのせいで、アリーシアが余計にひどい目に遭わされていることには気がついていないのだ。いや、本当は気がついているのに、そのことには目をつぶっているような気がしてならない。いったい何が目的なのかと考えると、アリーシアはオリバーのことをとても怖いと感じてしまう。
とにかく、オリバーと一緒にいるところをジェニファー、ましてやハリエットに見られたら何をされるかわかったものではない。
「何をしているのかしら」
ジェニファーのとがった声がした。案の定だ。
オリバーは降参したように両手を上げた。そんな気取ったところも気持ちが悪い。
「いずれうちで働いてもらうんだから、ちょっとその話をね」
「失礼します」
アリーシアは急いで立ち去った。まさかオリバーが婚約者を待たせてまで後ろからこっそりついてくるとは思わなかったのだ。なぜアリーシアにかまうのか。放っておいてくれたらいいのに。
オリバーのところに「付いていきたくない」と言えばジェニファーに、「なぜ自分の言うことが聞けないのか」と責められる。「行きたい」といえば、「さすが泥棒猫の子どもね」と責められる。どちらにしろオリバーが出てくるとろくなことはない。食事抜きが今日だけならまだましな方だとアリーシアは肩を落とした。