軽率な王女とその結果
次の日、まだ新しいドレスのできあがっていないアリーシアは、お気に入りの普段着を来てグラントリーの帰りをそわそわと待ちわびた。いつもは午前中のうちには帰ってくるということで、王女の訪れは午後遅い時間にしてもらっている。しかし、昼を過ぎてもグラントリーの帰ってくる気配はない。
それなのに、王女は約束の時間より早くやって来た。
迎えに出ると、
「王族を迎えるとは思えない格好ね」
と、案の定ひとしきり嫌味を言われたが、ないものは仕方がない。
アルトロフの使者とは相変わらず丁寧なあいさつを交わしたが、今日は竜に気持ちが向いているのか意味深なことを言ってくることはなかったので、それもアリーシアをほっとさせた。
アリーシアだって母の実家がどんなものか知りたい気持ちはあったが、あんなにアリーシアや父を大切にしていた母が家族について話さないということは、きっと言いたくない事情があったと思うのだ。母が言わなかった以上、知らなくていい。それでいいと思っている。
「グラントリー様はまだ帰っておりません。グラントリー様に合わせてのことですから、お待ちくださいませ」
ヨハンも引かずに頑張ったが、さすがに夕方近くなってしまって、王女が怒り始めた。
「我らがしっかり守りますゆえ、何とか」
という護衛達の願いに、ヨハンもしぶしぶ折れたのだった。
ライナーも竜使もヨハンもいる。頼れる人がいるから、アリーシアは落ち着いていられた。アリーシアと商会のライナーが先導する形で、王女と使者のアンドレイと護衛を竜舎に案内する。といってもこの間勝手に竜舎まで行ったようだし、本当なら案内しなくても場所は知っているのだろうと思うと、形式を守ることがほんの少し馬鹿馬鹿しくなる。
連絡が行っていたのか、竜舎の前には少し離れたところからでも竜が並んでいるのが見えた。今回定期便に出ているのは五頭なので、残っている四頭すべてが並んでいる。もちろん、休みの竜使にも出てきてもらっているので、竜使と竜使見習いも竜の横に立っている。それを取り囲むように、警備担当の者も何人もいた。
物々しい様子だが、面倒だという気持ちは毛ほども感じさせず、ピシッと整列している皆はさすがと言えた。
「ブブッフッフー」
一頭の竜がアリーシアのほうを見て鼻息を吐いた。
「しっ。お利口にな」
そして竜使に小さな声で注意されている。緊張した空気がほんの少し和らいだ。
『おお! こんなに間近で竜に会えたのは初めてだ。孤高であるはずの竜が、集団で人の元にいるなどと、私は夢を見ているのか』
アルトロフの使者のアンドレイが突然膝をつくものだから、竜たちは驚いたようだった。
「ブッフフフー」
あの人は大丈夫かと心配している様子がおかしくて、アリーシアは笑みを浮かべた顔を隠すのにうつむかねばならないほどだった。だがそれほどアルトロフという国では竜が大切にされているということなのだろう。だとすれば、グラントリーがいないからと断っても、竜を見に来たかったという気持ちもわかるような気もする。
「近くで見たのは初めてだけれど、この竜たちは聖竜に比べるとずいぶん小さいのね」
一度聖竜のそばで怪我をしかけたというのに、まったく竜を恐れていないようすの王女はある意味豪胆である。
「ねえ、そこのあなた」
いきなり話しかけられた竜使は驚いて固まってしまった。
「竜使は竜の背中に乗れるはずよね」
この発言を聞いて不安に思わなかった人がいるだろうか。皆の予想通り王女はこう続けた。
「乗ってみたいわ」
「無理です」
竜使の一番年上の人が即答した。昨日アリーシアを安心させてくれた人だ。
「殿下もご存じのように、誰でも竜に乗れるわけではありません。竜使になるものは、竜が乗せてもいいと思った者だけです。竜使に憧れ、志望する者はたくさん来ますが、合格するのはほんのわずかです。まして」
言いかけて竜使はゴホンと咳払いした。聖竜を怒らせたあなたには無理でしょうと言いかけたのは、本人以外には伝わった。
「私だけじゃないわ。使者のアンドレイも竜に会えてこんなに感動しているのよ。せめて彼を乗せてあげられないかしら」
『おお! 滅相もありません。竜に乗るだなどと、そんな』
アンドレイは思わずアルトロフ語で断ったが、王女はにっこりと頷いた。
「ほら、このように言っているわ。なんとかならないかしら」
「あの」
動揺して声も出ない様子のアルトロフの使者の代わりに、アリーシアが声を上げた。心臓はドキドキしているが、ここはちゃんと伝えたほうがいい。
「アンドレイ様は、滅相もありませんとお断りしています。そうですよね」
「あ、ああ。そのとおりです。竜の姫。焦ってアルトロフの言葉になったことをおわびします」
アリーシアが肝心のことを告げてくれたことで落ち着いたのか、アンドレイの言葉がセイクタッド語に戻った。
「我が国では竜は孤高のもの、群れぬものなのです。こうして四頭一緒にいて争う気配もない、そのことに驚きのあまり動揺してしまいました」
アンドレイは胸に右手を当てて軽く礼をした。
実はアンドレイにも警戒していた屋敷の人たちは少し緊張を解いた。王女と違って理不尽なことを言い出さなくてよかったと思いながら。
「我が国にもセイクタッドの飛竜便が来るようになった時、民がどれほど驚いたことか。竜を見るためだけに商いをしているのではないかと思われる商人さえおりますよ」
「そう。私にとっては身近で特に珍しいものではないけれど」
王女はそう言うと、すたすたと竜のそばにやってきた。
護衛が慌てて後を追い、竜使はといえばすっと王女の目の前に出た。それ以上近寄らせないようにだ。それでも十分近いように見えた。それで王女が満足してくれればいいがと周りは期待した。
「それ以上は危険です」
「おとなしいと聞いたわ」
「おとなしい竜でも、これだけ大きければ、ただの一歩で人が怪我をすることもあり得るのです。警護の者。殿下を竜から離れた所へ」
慌ててついてきていた護衛が王女にうやうやしく下がるよう促すと、王女は言うことを聞くそぶりで横に一歩動いて竜に手を伸ばした。
「ブブッフッフ?」
竜はアリーシアにもやるように首を動かした。もちろん、お世話する竜使にもよくやっていることだが、まず鼻息をあてて反応を確かめようとしているのだ。
後で思い返してみると、そこからはほんの短い間の出来事だったのとアリーシアは思う。手を伸ばしたくせに、王女は近づいてくる竜の大きな頭に恐怖したのか、
「いやっ!」
と大きい声を上げ、一歩下がって手を振り回した。その声を聞いた護衛が王女を守ろうとつい剣を抜いてしまったのがそもそもの原因だった。
それを見て驚いた竜が整列していたところから一歩下がったのだが、下がる時にバランスを取るために翼を広げばたつかせた。その竜の驚きが他の竜に伝染し、四頭の竜すべてが飛び立ちこそしないものの、焦って翼をばたつかせながらうろうろとする羽目になってしまった。竜の翼は竜の体にたいして決して大きくはない。だがそもそもが大きい生き物のばっさばっさという翼の音は慣れない者たちに恐怖をもたらした。
その時、別のほうからも翼の音がして、ドスンドスンという竜の着地音と共に、グラントリーの声が聞こえた。
「王女と使者を連れて離れろ!」
帰って来たのだ。一瞬ほっと安心した空気が流れたが、その空気を切り裂いてグラントリーが叫ぶ。
「早く!」
身分の高いこの二人がこの場からいなくなれば、竜に慣れた者たちでなんとか落ち着かせられる。使者はそもそも竜に近づいておらず自主的に離れてくれたが、王女は恐怖でしゃがみこんで頭を抱えてしまっていた。
「担いでしまえ!」
なんとか王女の手を引こうとしている護衛にグラントリーが怒鳴った。護衛の力なら、確かにそのまま抱えて走ったほうが早い。しかし、王女がうなぎのように暴れるので警護の者も持ち上げられずにいる。身分の高いものに安易に手を触れられないという慣習が仇になってしまっていた。
竜は人をよく覚えている。竜と馴染みのあるものは皆竜を落ち着かせようと走っていき、そうでないものもすぐそばで手伝えることがないか探して一生懸命だ。アリーシアは一人少し離れたところからそれを眺めているしかなかった。しかしその分、近くにいる人より全体が見えていたとも言える。
王女は初めの場所から動いておらず、竜に背を向けており、護衛は王女しか見ていない。護衛が二人がかりで運ぼうとしているところに、興奮して周りの見えなくなっている竜が近づき、飛び立とうとでもするように翼をばたつかせているのが見えた。竜使もグラントリーも竜を落ち着かせるのに必死で足元が見えていないようだった。あのままでは竜に巻き込まれてしまう。
アリーシアの足は自然に動いていた。意地悪な人だけれど、怪我をすればいいなどとは思えなかった。怪我は痛い。どんなものでも。アリーシアの頭の中に義母と義姉の扇が浮かんで消えた。
「アリーシア様! いけません!」
ヨハンの叫びは届かず、伸ばした手はアリーシアをつかみ損ね、アリーシアはそのまま王女のところへ滑り込み、その背に覆いかぶさるようにぎゅっとしがみついた。
「なにをする!」
護衛が叫び、王女が身をひねろうとしたその時だ。
「うわっ」
という声と共に王女を運ぼうとしていた護衛が翼で弾き飛ばされ、無防備になった王女をかばうアリーシアの背に竜の固い翼がかすった。
「あーっ」
竜の翼は羽毛ではなく、硬い皮膜だ。軽くかすっただけなのに、ビリッという音と共にアリーシアの服ごと背を切り裂いた。
優しく頭をポンポンとしてくれたアリーシアの声を竜たちは覚えていた。アリーシアの悲痛な叫び声は竜たちの動揺をおさめ、一頭、また一頭と動きを止めた。そのまま各自がゆっくりと翼を畳んでいく。
王女は自分に力なくもたれるアリーシアの体の下から自力で抜け出した。アリーシアの体が支えを失い、ずるりと地面にくずおれた。
「ひっ」
おそるおそる振り返った王女は、アリーシアの服が斜め一文字に切り裂かれているのにひるみ、そしてそこからジワリと血がにじむのを見て蒼白になった。そしてその傷をまるで模様のように囲んでいる無数の傷跡にも気がつき目を見開いた。
「いやっ! 気持ち悪い!」
「恩人に何を言うか! 早く連れていけ!」
グラントリーは王女と王女の護衛に怒鳴ると、急いで上着を脱いでアリーシアの背を隠した。傷には決して触れないようにしながら。
「医者を! そして清潔な布を!」
万が一にでも事故が起きないようにと準備したつもりだった。
「アリーシア!」
だが肝心の主の婚約者を守れなかった。
「アリーシア! しっかりしろ!」
何とかなるだろうという慢心が、最悪の結果をもたらしたことを屋敷の者たちは知ることになる。
コミックシーモアさんでコミカライズ始まっています。
アリーシアもグラントリーも素敵なのでぜひ読みに行ってみてください!




