たった二つのこと
「いいか。君は私の婚約者になった。成人しても、決してバーノン家には戻さない」
そしてグラントリーはゆっくりと、アリーシアに染みこむように言い聞かせた。
「さあ、アリーシア。言ってごらん。私はあなたの婚約者です、と」
アリーシアは口を開けて、一度閉じると、震える声で繰り返した。
「私。私はあなたの、婚約者、です」
「そうだ。そしてもう、二度とあの家には、帰りません、と」
「二度と、あの家には、帰らない」
グラントリーは深く頷いた。
アリーシアの目に涙が浮かび、つーっと頬を滑り落ちた。
グラントリーはアリーシアの顔をそっと胸に引き寄せた。まるで涙を服に吸わせるかのように。
「今は、その二つだけ。その二つだけを覚えておけばいい」
「はい」
朝からいろいろなことがあって疲れていたアリーシアには、二つだけというグラントリーの言葉がとてもありがたかった。
「二度と、帰らない」
「今はそっちでいい。大切なのはもう一つのほうなんだが」
グラントリーが苦笑したのが体を通して伝わって来た。温かい腕に包まれているとほっとして、アリーシアは今日初めてやっと深く息を吸えたような気がした。
パンパンと手を叩く音がして、グラントリーとアリーシアは慌てて離れた。
「グラン坊ちゃま。いつまでお嬢様を寒いホールに立たせっぱなしにしておくつもりなのですか」
今度は落ち着いた女性の声だ。先ほど見た年配の女性がグラントリーを厳しい目で見ている。
「だから坊ちゃまとは呼ぶなと。いや、すまない」
グラントリーは今度は素直に受け入れると、アリーシアの背に手を当てて隣に立った。
「こちらはアリーシア・バーノン。バーノン子爵家の二女ということになる。まだ成人していないので、婚約者として、しばらくの間この屋敷で大切に預かることになった。皆、よろしく頼む」
誰一人として嫌な顔をするものはおらず、皆揃って一礼した。おずおずと礼をかえしたアリーシアは、顔を上げることができずそのままうつむいてしまった。
バーノンの屋敷にいた時は、自分が家の外でできた子どもであるということはまったく気にならなかった。どんなに蔑まれても、母親のことを誇りに思っていたからだ。でも、これからはグラントリーの婚約者ということになる。その婚約者が、私でいいのだろうか。
「アリーシア、今日考えてもいいのは二つだけだ。それ以外のことは考えるな」
グラントリーがアリーシアの背中に当てていた手にもう一度力が込もった。まるで励まそうとするかのように。
「はい」
アリーシアの素直な返事に頷くと、グラントリーは両手を開いて肩をすくめた。
「さて、とりあえず連れてきたが、これからどうしようか」
「坊ちゃま。私どもも、婚約者を連れてくること以外は何一つ聞いておりませんよ。それにほら、お嬢様が」
家令の指摘にグラントリーは慌てて隣を見た。自分がどうなるのか不安で怯えた目をしているアリーシアを。
「アリーシア。君は何がしたい?」
「私……」
アリーシアは何がしたいのか。
一途に思い詰めていたのは、あの家を出たいということだけだった。そして出て何をしようとしていたか。思い出したアリーシアは顔を上げた。
「あの、私、飛竜便の事務所で働きたいです」
「あー、そうきたか」
グラントリーは困ったように天を仰いだ。
「君にはまず、ゆっくり休んでお菓子でも食べていてほしかったんだが。町に買い物に行くとかでもいい」
アリーシアは戸惑った。
「でも、ゆっくり休むって、どうやったらいいか」
10歳の頃から一生懸命動き続けるしかなかったアリーシアは、ゆっくり休むやり方など忘れてしまっていた。
「あの、朝は何時に起きて、どこに行けばいいですか。休むなら、何時から、何分くらい休んだらいいですか?」
「そこからか……」
困ったグラントリーのところにいつの間にか使用人が集まってきていた。まずグラントリーを叱りつけていた年配の女性が声をかけてきた。
「坊ちゃま。今はまずお屋敷と私どもに慣れてもらいましょう。アリーシア様」
「は、はい」
「坊ちゃまがいつまでも紹介してくれないから、自分で紹介しますよ。私はエズメ。家政婦長をやっております。当分、アリーシア様付き侍女も兼ねますので、よろしくお願いしますね」
「よろしくお願いします」
アリーシアはぺこりと頭を下げた。
「まずは頭を下げないところからですな、アリーシア様。私は家令のヨハンです。屋敷全般のことを取り仕切っております」
アリーシアはまたぺこりと頭を下げようとして、途中で止まった。
「その調子でございますよ。早速ですが、アリーシア様、今日はお食事は召し上がりましたか?」
アリーシアは少し考えて首をフルフルと横に振った。
使用人の非難の目がグラントリーに集中したような気がしたアリーシアは、焦って言い訳した。
「朝はいつも食べないんです。今日は朝早くから出かけていたし、それで」
エズメがにっこりと頷いた。
「ええ、ええ、そうでしょうとも。ここでは使用人でも朝は食べる習慣ですから、明日からはそうしましょう。坊ちゃまは今日は?」
「これから仕事だ」
「婚約者を迎えに行った日にお仕事ですって?」
グラントリーは降参するかのように両手を顔の前に上げた。
「今日のこの時間をもぎ取ってくるだけで大変だったんだよ。急な予定だったものでね」
そう言い訳すると、アリーシアの目をのぞきこんだ。
「今日は夕食までには帰ってくるから、ゆっくりしているといい」
何に満足したのか一人頷きながら、マントをはらりと翻した。
「ライナー!」
「はいはい。じゃあアリーシア」
「アリーシア様ですよ」
家令に叱られて頭の後ろに手をやっている。
「アリーシア様。少し落ち着いたら、飛竜便の事務所に手伝いに来てくださいよ」
アリーシアの顔がぱあっと明るくなった。
「その反応はちょっと悔しいぞ」
「さあ、若。行くとなったらさっさと動く」
そうして二人は出て行ってしまった。
アリーシアは不安になりながらも、グラントリーが出ていったことに少しほっとする気持ちもあった。あんな大人の人が自分の婚約者だと言われても、ピンとこないのだ。これからどうするか聞こうと皆のほうを見たら、エズメがエプロンの端で涙を拭っているのが見えた。
「大丈夫ですか? どこか痛い?」
「まあ、アリーシア様。どこも痛くありませんよ。ただねえ、久しぶりに昔のまんまの坊ちゃまを見られて、エズメはもう、嬉しくて嬉しくて」
「怪我をして以来、まるで性格が変わったようでしてね。もちろん、それでも有能で公正なお方ではあったんですが。久しぶりに楽しそうな坊ちゃまを見ましたよ」
アリーシアが前に見たグラントリーと違うと思ったのは、怪我でも仮面でもなく、義姉のジェニファーを見つめていた時の冷たい視線だけなので、それほど違うのかと不思議に思う。
「三年前、飛竜便の事務所で初めてお会いした時、お日様のような人だと、思いました」
「まあ。以前に会ったことがあるんですのね」
アリーシアはこくりと頷いた。
「飴をくれたんです。お父様に踏みつぶされてしまったけれど」
グラントリーに初めて会った日はいろいろなことがありすぎた。それでも、闇夜に灯る明かりのように、優しい思い出だ。
「どんな味だったのかなあと今でもたまに思うんです。その時も今も、私にとってグラントリー様は何も変わっていないような気がします」
「アリーシア様」
エズメの真面目な声にそちらの方を向くと、使用人の人たちが皆アリーシアに頭を下げていた。
「あ、頭を下げてはいけませんって言ってたのに」
アリーシアがおろおろと手をさ迷わせると、ヨハンがハハハと笑って頭を起こした。
「愉快愉快。失礼しました。私たちは頭を下げてもよいのですよ。アリーシア様は主人に当たるわけですから、下げてはいけません。わかりますね」
アリーシアは素直にはいと返事をした。
「坊ちゃまの本質をちゃんとわかっていらっしゃる。ありがたいことです。これから一緒に坊ちゃまを支えていきましょうね」
アリーシアは見たことがないが、おじいさまというのはヨハンのような人のことを言うのだろうという気がした。




