戻らなくていい
気がつくとアリーシアは豪華な馬車のシートに座っていた。そして向かいにはグラントリーが、隣にはライナーが座っている。
「善は急げ。ライナーの言った通りだったな」
「ちょっとでも考える時間を与えたら、やはり姉のほうをという話になりかねませんでしたからね。若に怯える奥方なんぞいないほうがましだ。それに」
ライナーは戸惑うアリーシアを優しい目で見て、胸に抱えている本を指さした。
「持ってくるのは本当にその本だけでよかったのか」
アリーシアは頷いた。
「それと着替えが一着。それだけです。あ」
アリーシアは状況がわからないまま顔を上げると、本を膝に置き、スカートのポケットからハンカチを取り出した。ぎゅっと結んだハンカチをほどくと、中から銀貨が五枚出てきた。アリーシアはぎこちない笑みを浮かべた。
「これはお前……」
アリーシアはこっくりと頷いた。
「三年前に貰ったお金と、この間もらったお金です」
「もらったんじゃない。正当に稼いだ金だよ、それは。つまりお前、三年バーノンの家にいて、増えたものなんて一つもないのか」
アリーシアは首を横に振って、服と袖の短いコートをつまみ上げた。何も貰わなかったわけじゃないことを言わなくてはいけないような気がした。
「これ。あと肌着も」
ライナーのあきれたような顔に肌着なんて口に出してはいけなかったとはっとしたアリーシアは、それよりも何よりも、自分がなぜ馬車に乗ってこの二人と一緒に出かけているのか今一つわかっていなかった。
アリーシアとライナーの話を聞いてどんどん無表情になっていっているグラントリーのことも気になった。やがて馬車は静かに止まり、まずライナーが、そしてグラントリーが降りていった。かと思ったらグラントリーがまたひょいと顔を出した。
「降りるぞ」
戸惑いながら降りた先は、バーノン子爵家より一回り大きい屋敷だった。特徴的なのは敷地の広さで、町の中心部にあったバーノン子爵家と違って、周りには何もない広い庭が広がっているだけだった。かなり遠くに街並みが見えたから、町の外れなのだろう。
先に家に入ろうとしていたグラントリーが、アリーシアが戸惑いついてきていないことにやっと気がつき、戻ってこようとしてはっと雲の厚い空を見上げた。
つられて空を見上げたアリーシアは、重い灰色の雲に大きな影が舞うのが見えた。
「ショコラ!」
大きな影の起こした風がアリーシアのスカートの裾を巻き上げたかと思うとドスンとすぐ近くに何かが落ちたような音がした。
アリーシアが生暖かい風を顔に感じて、ギュッとつぶった目をおそるおそる開けると、虹色に輝く大きな瞳がアリーシアをのぞき込んでいた。
「ブッフン」
「りゅう?」
アリーシアが本を離して手を伸ばすと、大きな茶色の竜は撫でてくれというようにアリーシアのお腹に鼻先を押し付けてきた。あの時と同じだ。あの時したかったように、大きな頭を抱えてぽんぽんと叩くと、竜はブフッと鼻息を吐いた。
「くすぐったい。あっ」
押されて倒れかけたアリーシアをグラントリーが抱きかかえ、竜に言い聞かせている。
「ショコラ。やめるんだ。細いお嬢さんなんだぞ」
「ブブッフフ」
不満そうな竜の頭をぽんぽんと叩くグラントリーを見て、さっきの自分は間違っていないと安心するアリーシアであった。
「竜にさわれた」
ただそれだけのことで胸の奥に光が灯るような気がした。
「飛竜便の家としては、第一関門どころか、最終関門まで合格って感じだな」
ライナーのあきれたような声がする。そこにまた違う声が割り込んだ。
「坊ちゃま、そんなところにいつまでもいないで、早く中にお連れくださいませ。お嬢様が寒くて震えているではありませんか」
「坊ちゃまではない」
突然かかった声にグラントリーがむっとしている。アリーシアがその声のほうを見ると、白髪で少し年のいった、家令と思われる男性があきれたような顔で立っていた。
「ご婦人を寒い外に置きっぱなしで頭の悪い竜に襲わせている馬鹿者を大人と認めるわけにはいきませんな。さあ、お嬢様。中へお入りくださいませ」
「ブブッフフン」
まるで頭など悪くないと竜が返事をしているようだ。
「ショコラ。これからいつでも会える人だから。今日は竜舎にもどっておいで」
「ブッフフ」
ショコラと呼ばれた大きな竜はアリーシアを最後にじっと見ると、数歩歩いてバサッと飛び立っていった。自分で竜舎に帰るのだろう。アリーシアはその賢さに感動した。
「さあ、入ろう」
今度はグラントリーに背を押されて、アリーシアは屋敷の中に入った。
中には数人の使用人が並んでいた。これがすべてだとしたら子爵家よりずいぶん少ない。
家令と同じくらい年をとった少しぽっちゃりした女性が家政婦頭だろう。
ということは、アリーシアはここでメイドの仕事をすることになるのだろうか。あの家から離れたい一心で付いてきたが、実はなぜここに連れてこられたのかわかっていないアリーシアは、ここで使用人として働くのだと理解した。
実家では目立たないように、話さないように小さくなっていたが、ここではそういうわけにもいくまい。ここを追い出されたら行くところがないと思ったアリーシアは、一生懸命に頭を下げた。
「あの、よろしくお願いいたします」
挨拶に誰も返事を返さないので、アリーシアは頭を下げたままでいるのがつらくなってきた。
「あの、お嬢様」
そろそろ顔をあげたいが、我慢する。そんなアリーシアの両肩に手が置かれ、アリーシアは思わずびくっとした。グラントリーの手だった。
「もしかして、なぜこの家に来たか、君はわかっていないのか?」
アリーシアはゆっくりと体を起こして、ゆっくりと頷いた。
「あの、はい」
それから、何もわかっていない人だと思われたくない一心で、本を両手で抱え直して一生懸命にアピールした。
「あの、下働きなら一通りできます。それから、少しだけですが侍女になるための勉強もしました。まだ髪とかは上手に結えないですけど、できれば」
まっすぐにグラントリーを見ていた目をそっと落とした。
「16になるまでは、成人するまではここに置いてください。もう二度と……」
こんなことを言ったらかえって恩知らずと思われてしまうかもしれないけれど。アリーシアは思い切って言ってしまうことにした。
「もう二度と、あの家には戻りたくないんです……」
心の奥底で願っていたことを、初めて言葉にした。言葉にして、本当にあの家が嫌いだったんだとすとんと心に落ちた。
「ライナー!」
「いや、俺、確かに俺は言ったぞ。若の希望でシングレア家に来てもらうって。あれ?」
グラントリーの非難交じりの一言に、ライナーは自分で思い出して首をひねっている。
「私だってあなたの夫になる男だと言ったはずなんだが」
グラントリーも困ったようにアリーシアを見るので、アリーシアはおろおろするしかなかった。
「ライナーも、婚約者としてという一言はどうした」
「それはあの姉のほうが言ってたぞ。待てよ、どちらかというとオリバーとやらに嫁げなくなったというほうを強調していたな。あれ、すまん」
もっとはっきりと言うべきだったなという顔をした。
そうだ、オリバーに嫁がなくてよくなったということばかりが頭に残って、アリーシアもその後の話はよく聞いていなかったのだ。
「オリバーに、嫁がなくていい」
アリーシアは改めてほっとして肩の力が抜けた。
「そこじゃねえよ、アリーシア」
「ライナー」
今度の静かな声は、家令から聞こえてきた。ライナーはやばいという顔をして背筋をすっと伸ばした。
「そのお嬢さまは奥様になる予定の方です。なんですかその口の利き方は」
「す、すみませんでした」
謝罪しているライナーを横目で見ながら、グラントリーがアリーシアのほうに背をかがめた。
「昨日のことは覚えているね」
「倒れるまでですが」
「それでいい。君の服を切り裂いたのは私だ」
一瞬の静寂と共に、
「坊ちゃま!」
「若!」
など、様々な叫び声が玄関ホールに響いた。
「若、俺のこと言えないですよね。言葉が足りないんですよ」
ライナーがそっくりかえっているが、アリーシアは混乱するばかりだった。グラントリーは慌てて言い直した。
「あー、つまり、昨日は君の姉との顔合わせだったはずなのだが、君の姉は結局逃げてしまった。私の顔がよほど怖かったらしい。そして君はコルセット、いや、服がきつかったらしく、あの場で倒れてしまった。急なことで服を緩めるには切り裂くしかなかったというわけだ」
なぜ今朝、服があの状態だったのかやっと理解できた。不謹慎とか恥ずかしいというより、助けてくれた優しさのほうが身に染みる。だが、なぜ姉はそんなに仮面を怖がるのだろうか。グラントリーの仮面の下の、怪我のない時の顔を知っているアリーシアは、思わずその顔に手を伸ばした。
グラントリーはアリーシアの手をそっとつかむと、一瞬頬に引き寄せるかのようなしぐさをしたが、そのままアリーシアの手を優しく体の横に戻した。
「君が倒れたことはいったん置いておくとして」
グラントリーは気まずかったのかゴホンと咳ばらいをした。
「夫を怖がる妻などありえない。君の姉との婚約はなかったことになるはずだった。だが、君の父親が、娘ならもう一人いると。そう言った」
「まさか」
アリーシアは父親の厚かましさに驚いた。でもそれ以上に驚いたことがある。
「娘だと、思っていたんですね」
その驚きは今朝の出来事を思い返すとすぐに失望へと変わった。そもそも、母が死んだとき、なぜアリーシアを自分の家に連れて帰って来たのだろうと思ってはいたのだ。体面のために、子どもを捨てたと思われないために引き取ったのだと思っていた。あるいは戸籍に載せてしまったから仕方なく引き取ったのだと。
でも、違うのだ。
「そうか、お父様が私を引き取ったのは、娘には、利用価値があるからなのね」
「アリーシア……」
もう済んだことだ、終わりにしなさいと父は言った。父にとって、アリーシアは伯爵家と縁をつなぐ役割だった。父にとっては、アリーシアの娘としての役割は、それで終わったことになるのだ。
「アリーシア!」
グラントリーはアリーシアの両肩をつかんで、自分のほうを見るように少し揺らした。そしてアリーシアの絶望に染まる目を見ていたましそうに顔をゆがめた。
コミックシーモアさんでコミカライズ始まっています。
アリーシアもグラントリーも素敵なのでぜひ読みに行ってみてください!




