父の家
しばらくつらい展開がつづきますので、つらいと思う方は17話まで待ってお読みください。
アリーシアはお茶と茶菓子をカートの上に用意し、使用人のお仕着せを手のひらで整えると、ひっそりとため息をついた。そして自分に言い聞かせる。
「あと半年。あと半年だから」
あと半年すれば、16歳になる。16歳になれば成人だから、この家を出ていける。仕事は選ばなければなんとか見つかるだろう。12歳の頃の自分でも少しはお金を稼げたのだから。
今はこの牢獄のような家から離れられないけれども、このバーノン家から出ていくことだけが今のアリーシアの希望だった。
それから温室へとカートを動かした。外国と取引をする父のつてで珍しい果物や草花が植えてあり、小さいながらもバーノン家の自慢の温室である。
「お嬢様、お茶をお持ちいたしました」
「いやだ、アリーシア。いつも言っているじゃない。お姉さまって呼んでいいのよって」
美しく着飾り、甘ったるい声でしゃべっているのは義姉のジェニファーだ。この国では珍しい濃い金髪を高く結い上げ、アリーシアのほうに向けるのは青い瞳で、優しい言葉とは裏腹に、その目には蔑みが浮かんでいる。目を合わせないようにしていても、いつものことなのでアリーシアにはわかっている。黙って頭を下げると、静かに義姉とその婚約者の座るテーブルにお茶の準備を始めた。
「ジェニファーもこう言っているんだから、甘えたらいいのに。そうだ。君も座ってお茶を飲んでいったらどうだい」
「いえ、申し訳ありませんが、仕事がありますので」
義姉と婚約者の甘い言葉を信じてその通りにしたりしたら、後でどれだけ叱られることか。アリーシアはあざの残る腕のことは考えないようにし、なるべく早くこの場を去りたくて、でもそのそぶりを見せないように手早くお茶の用意を終わらせる。
「うちは娘として扱うって言ってるのに、下賤の母親の子どもでは子爵家の娘とは言えない、働かせてくれって言われたら、そうするしかないもの」
「ジェニファーは心が広いよね」
茶番だ。
アリーシアは心を凍らせたまま何も答えずに部屋を出ようとした。
母は下賤の者ではない。幼い頃から母と二人で育ったアリーシアにとっては、ここに来るまで身分など気にしたこともなかった。母が言った「人にとって大事なのは思いやりの心よ」という言葉は、この家の中では通用しないということを知ったうえでもまだ、大事なのは身分ではないと思っている。
だからこそ、自分から母のことや自分のことをけなしたことなど一度もない。アリーシアを娘として扱わず使用人として働かせるのも、母を貶めるのもバーノン家の者が勝手にやっていることだ。
でも、それを口に出さないほうがいいということもこの三年半で身につけざるをえなかった。
「そうそう、アリーシア」
「はい、お嬢様」
うわべで何と言われようとも、こう返事をする習慣が身についていた。返事をしなければ食事を抜かれ、ひどいときには叩かれる。それが当たり前だったから。
「一年後私が嫁ぐ時、あなたも連れていくことにしたから。感謝してね」
「はい?」
言われたことが頭に入ってこなくて、思わず聞き返した。聞き返してから、お嬢様とつけなかったからまた叱られると思わず身がすくんだ。
「どうせお前のような身分の者、成人しても行く当てもないんだから、私の侍女として婚家に連れて行くと言っているのよ。母親が卑しいと本当に頭まで悪いのね」
アリーシアを傷つけるには母親のことを言うのが何よりだとわかっている、意地悪な義姉の言葉だが、アリーシアは何も言わずもう一度頭を下げると、なるべく静かに部屋を出た。動揺を悟られたら付け込まれるのだから。この家に来て以来ずっとそうだ。
12歳のあの時からもう3年が過ぎていた。
母が亡くなって呆然としている間に葬式は済み、母は共同墓地の端に埋葬された。すべてが終わって一人で元の家に帰ろうとしたアリーシアに父は言った。
「どこに行くのだ」
アリーシアは不思議に思い、父を見上げた。家に帰る以外のどんな選択肢があるというのだろう。その様子を見て一緒に埋葬に立ち会ってくれた医者が口元を引き結ぶのが見えた。
「家に、帰ります」
「一人で暮らせるわけがなかろう。かわいげのない。セシリアの住んでいた家は売りに出す。お前は私が引き取る」
父はアリーシアに、自分と一緒に行こうとも共に暮らそうとも言わなかった。年のわりに聡く生きなければならなかったアリーシアは、引き取るというその言葉一つで、父親にとってアリーシアがお荷物に過ぎないのだと悟った。
二年ぶりに会ったというのに、母が亡くなってからずっと父はアリーシアに冷たい態度をとっている。ひそかに心の中で傷ついていたが、医者の言葉でその理由を知ることができた。
「アリーシアはあんたとセシリアの子だろう。何度も言っているが、セシリアが亡くなったのはこの子のせいではなく、この夏が暑かったせいと、栄養不足のせいだ。むしろこの子の渾身の世話がなかったらセシリアはあんたが来るまでもたなかった。今まで苦労かけた分、幸せにしてやるのが父親の務めだ。それは平民でも貴族でも変わらないぞ」
つまり、父は母が亡くなったのをアリーシアのせいだと思っているのだ。
父親は医者の言葉をうるさい羽虫であるかのように片手で振り払う。まるで聞く耳など持たない。急かされたアリーシアにできたことは、母のいない家に戻り、小さなかばん一つに荷物を詰め込むことだけだった。それも母からもらった大事な本と少しの着替えだけである。
亡霊のようによりどころのない気持ちで連れていかれた先は、アリーシアが住んでいた町のはずれではなく、にぎやかな中心街の大きなお屋敷だった。
小さいアリーシアの歩幅など気にすることもない父親に小走りで付き従い、入った屋敷は大きな玄関ホールにガラス窓がきらめくほどのまばゆい明かりが灯っていた。
「おかえりなさいませ。なんですの、その薄汚い娘は」
部屋の豪華さに圧倒されていたアリーシアは、その声で初めてホールに人がいることに気づいた。真ん中にはこの国では珍しい金髪を結い上げた、アリーシアの母と同じくらいの年の人、そしてアリーシアと同じ年くらいの少女。他にも、お仕着せを着た使用人らしい男女が幾人か並んでいた。
「ちょうどいい。これはアリーシアだ」
父はアリーシアを雑に紹介すると、どう説明していいのか少し迷った様子だった。やがて、アリーシアと同じくらいの年の少女に目をやると、面倒くさそうに肩をすくめた。
「ジェニファー」
「はい、お父様」
ジェニファーと呼ばれた少女は隣の女性の娘なのだろう。母と同じように濃い金髪を結い上げた美しい少女だった。青い瞳をきらめかせて嬉しそうに父を見上げた。
「これはつまり、お前の妹になる」
「いも、うと?」