最初から、いなかった
コミックシーモアさんでコミカライズ始まっています。
アリーシアもグラントリーも素敵なのでぜひ読みに行ってみてください!
アリーシアは寒さで目が覚めた。オリバーのところに嫁ぐことが決まるまでは、狭い自分の部屋に、薄くて短い服にやはり薄い布団しかなかったから、寒さで目が覚めることなど当たり前だった。だが、その寒さと違うような気がして体を起こすと、アリーシアの体から重いコートのようなものが落ちた。同時に背中に直接風が当たったような気がして身じろぐと、ドレスが肩からはらりと落ち、思わず身をすくめた。
一体何が起きたのかと焦ると同時に昨日の出来事を思い出す。
アリーシアはコルセットでしめられる苦しさのあまり、倒れてしまったのだ。早朝のかすかな光の中でベッドに起き上がった状態で自分を確認すると、コルセットはゆるめられていた。というよりはずれそうだ。そして自分を覆っていたこの黒いコートはなんだろう。
そっと持ち上げてみると、頭の片隅にある昨日の記憶が刺激された。
「若、が着ていたような気がする。なぜそれが」
深く考えると、切り裂かれたドレスや脱げかけのコルセット、そして自分が倒れたことを結び合わせて嫌な予感がするので、とりあえず考えるのをやめた。母親が亡くなってから、いろいろなことがあったけれど、何かが起きたからといってそれで生きていくのが楽になったことなど一度もない。いつだって次の日は前の日より悪くなる。
だからきっとこのコートも、切り裂かれたような服も、また新たな不幸の始まりなのだろうと思うのだ。アリーシアは急いで着替えた後、せめてコートにしわを付けたと叱られないように、丁寧にたたんでベッドの上に置いた。そしてまだ誰も起きない邸内の気配を探る。
アリーシアはこの朝の時間が好きだった。一人で物音に耳を傾けると、台所で朝食の用意をする音がし始める。小さかった頃はよく母親と一緒に、年だからとゆっくりしか動けないばあやを助けて食事を作り、掃除をしたものだ。その幸せの記憶がよみがえるような気がするからだ。
しかし、今朝は音がなかなかし始めない。
「もしかして、いつもより早く起きてしまったのかな」
アリーシアがドアを音を立てないように開けると、廊下には誰もおらず、屋敷の中は静まり返っている。アリーシアはドアを閉めると、ドキドキする胸を押さえながら閉めたドアに寄りかかった。
このところ、常に誰かがいてアリーシアは一歩も外に出られていない。
でも今なら? 玄関は無理だけれど、出入りの商人が出入りする勝手口からなら、外に出られるかもしれない。
外に出たとしても、お金も行くところもない。でもこれを逃したら本当に逃げられないと思ったら、思い切って試してみたくなった。
ハンカチで音がしないように縛ってある銀貨五枚だけをポケットにいれて、小さくてきつい冬の上着を無理やり着込む。オリバーとの婚約が決まってから、普段着は作ってもらったが、外に出る必要はないので上着までは作ってもらえなかったのだ。
それでもないよりはましだ。アリーシアは部屋からそっと滑り出ると、思っていた通りそのまま屋敷から出ることに成功した。
早朝とはいえ、配達の馬車が行き来し、朝早くの仕事に出かける労働者たちが足早に道を行きかう。アリーシアはそれに紛れて歩き出した。何も考えずに出てきてしまったけれど、向かう先は一つしかない。
そのまま飛竜便の事務所に行きたかったが、行ってはいけないことも理解していた。オリバーとの望まない婚約が決まり、逃げ出そうとして阻止されたあの日から、飛竜便の事務所で働くことを何度夢見たことだろう。だが、庶子とはいえ、逃げ出した貴族の娘を働かせていたことがばれたら、飛竜便の事務所に迷惑がかかる。
それがわかっていて、ただ逃げ出したいという一心で出てきたアリーシアの足が向かうところなど一つしかなかった。
幸せだった場所へ、お母様と暮らしていた場所へ。この前背中の痛みをこらえて歩いた道を、道路の石を数えながら進む。やがて最後の十字路を右に曲がると、白い木の柵に囲まれたアリーシアの暮らしていた家が見えてきた。思わず立ち止まると、家から若い男性が出てきた。
アリーシアは思わず口元を押さえた。そうだ、ずっと空き家のままなわけがない。アリーシアもアリーシアの母親もいなくても、世の中は何も問題なく回っていく。
「おとうさま、いってらっしゃい」
母親に抱かれた小さな女の子が玄関先から男性に手を振った。せめて、この家が新しい幸せに包まれていてよかったと思おう。玄関から目をそらし、最後にと小さな家を目に焼き付ける。踵を返そうとした時、アリーシアの手を何かがつかんだ。
「え?」
「おねえちゃん」
足元には先ほど見た女の子が息を切らして立っていた。
「何で泣いてるの?」
「え、私」
ぱちりと瞬きをすると、涙が一粒、地面に落ちた。
「おねえちゃん、なにかがいたいっておかおをしていたから、おかあさまにこれ、もらってきたの」
女の子はアリーシアの手にきれいに包まれた飴を一つ握らせた。見覚えのある包み紙に思わず放り投げそうになったそれを、アリーシアはギュッと握り込んで、無理に笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
「りゅうのおにいちゃんからもらったの。おいしいのよ」
そう言うと女の子は少し離れたところに心配そうに立つ母親のもとに駆けていった。
母親にぺこりと頭を下げて、アリーシアは今度こそ踵を返した。少し歩いてさっきの角を曲がると、父親がいつも馬車を降りていた場所だ。そんなことくらいで人目が忍べるわけがないのに。
「アリーシア」
「お父様」
そんな気がしていた。まさか父親本人が来るとは思わなかったが、オリバーとの婚約が決まっている以上、いないのがわかったら誰かが探しに来るだろうとは思っていた。それでもつかの間の自由を味わいたかったのだ。
お父様の少し後ろに控えていた家令が一歩前に出てくると、何か言いたげに帽子をとってアリーシアに頭を下げた。
「奥様に送金を止められて、どうしても持って来られなかったんです。最後にあの家を片付けたとき、何一つ金目のものが残っておらず、あなたが働いてなんとかパンを買っていたと聞いて私は……」
もう三年以上も前のことになる。いまさらそんなことを言われても、アリーシアにどうしてほしいというのか。父親も頭こそ下げなかったが、何かに耐えるように体の横でこぶしを作っている。
「あの時は私も頭に血が上っていた。お前がなんとかセシリアを生かしてくれていたのだと、後から知った」
知ったからどうだというのだろうか。アリーシアは冷めた目で父親と家令を見た。たった今知ったわけでもあるまいに、知ってから三年間、何かひとつでもアリーシアのためにしてくれたことがあっただろうか。
「だから、許せと。そう言いたいのですか」
家令は頭を下げたままだったが父親は当然のように頷いた。
「ああ。もう済んだことだ。お前は嫁ぐことになる。もう終わりにしなさい」
アリーシアは静かに絶望した。何を終わりにするのだろうか。
アリーシアはそもそもずっと何もせずに、ただ耐えていたではないか。何かをしていたのは、父親であり義母であり、義姉である。
アリーシアは握り締めていた手を開くと、もらった飴をぽとりと地面に落とした。
お母様に食べさせたかった。お母様の最後はお父様が独占していたから、この飴を手に握らせてもあげられなかった。甘いものもかわいいものも大好きだった母はきっと微笑んでくれたことだろう。アリーシアにとっては、この飴が最後の希望であり光だったのだ。
「これはあの時の……」
父親も覚えていたのだろう。部屋に散らばった色とりどりの飴の包み紙を。
グシャリ。
「お嬢様! なにを!」
アリーシアは飴を靴で踏みつぶした。
父親が顔をしかめる。
そう、あの時の父親と同じように。すべての希望を踏みつぶしたあの時のように。
アリーシアはごめんなさいと心の中で女の子に謝った。大事な飴だっただろうに。
アリーシアは愚かにもずっと父親に期待していたのだ。母との時間を共有した自分たちは、いつかわかり合える日が来るのだと。
「済んだことです。終わりもなにも、あなたはきっと、私の父だったことは一度もなかった」
なかったことにしよう。最初からなかったものを失うことはできないのだから。
「戻ります」
家令が跳ねるように体を動かすと、馬車の扉を開ける。
空に雪が舞い始める。アリーシアの凍てついた心を映すかのように。
無言の馬車は、静かに走り始めた。




