身代わりに
コミックシーモアさんでコミカライズ始まっています。
アリーシアもグラントリーも素敵なのでぜひ読みに行ってみてください!
グラントリーが声をかけても、屋敷の者は固まって誰も動かない。どうやら子爵夫妻のほうをうかがっているようだが、父親でさえ手を貸そうともしない。母親はと言えば、倒れてもいない姉を心配そうに抱きかかえているだけだ。
社交は好まないグラントリーでさえわかる。この娘は最初からふらふらしていて顔色が悪く、恐ろしいまでにウエストが細かったではないか。チッと舌打ちすると、グラントリーは怒りを隠し、なるべく落ち着いた声を出そうと努力した。
「はっきり言わないとわからないのか。初めて社交に出るお嬢さんにありがちなことだ。どう見てもコルセットの絞めすぎだろう。誰か緩めてやってくれ」
グラントリーとて、女性の下着の名前を口に出すのが礼儀から外れているのはわかっている。だがそこまではっきり言わないとこの屋敷の人には通じない気がしたのだ。そうまでしても誰も動こうともせず、その間にも娘の顔はどんどん白くなっていく。
「失礼」
グラントリーは内ポケットからナイフを取り出した。
「ひいっ」
ジェニファーがそれを見てついに逃げ出した。貴族ともあろうものがナイフをご婦人に向けるわけなどなかろうとあきれた気持ちになりながらも、それを気にも留めずに、グラントリーは手の中の娘をうつぶせに抱え直すと、ドレスの背中側をナイフで一気に切り裂いた。女性のドレスの仕組みなど知らないのだから、手っ取り早くこうするしかない。だが現れた肌を見てグラントリーは眉をひそめた。
「ひどいことを」
思わず口から洩れたが、そのまま今度は肌を傷つけないように慎重にコルセットの紐にナイフを入れていく。プチプチと紐が切れてやっと手の中の娘が一つ、大きな息を吸って吐いた。
「コートを」
家令が慌てて預かったコートを持って駆け付けると、グラントリーはそれを娘の肌を隠すようにそっと巻き付けた。
グラントリーはこの先どうしたものかと内心頭を抱えた。こんな面倒なことになるとは思わなかった。
婚約者になるはずの人は震えて怯えるばかり。倒れた娘の面倒は姉どころか家族の誰もみようとせず、非常時とはいえグラントリーが人前で娘の肌をあらわにする羽目になってしまった。
王家の計らいだから仕方なくやってきたが、この婚約は無理だろうとグラントリーは思った。もともと結婚するつもりなどなかったものを、余計なことばかりする王女がおせっかいにも口を出すから、いちおうその顔を立てるつもりだった。誰と結婚しても同じだからだ。
子爵家の娘には興味などなかったし、デビューしたらしい若い娘など一人も目には入っていなかった。ただし、この婚約の話が来た時、バーノン子爵家が外国との取引をしているという点には目が留まった。領地の経営にしか興味がない貴族は頭が固く保守的だが、商売にも手を伸ばしているとなると柔軟性があるということになる。自分も商売をしているグラントリーは、バーノン子爵家のそこに心が動いた。
だが、婚約者に怯えて逃げるようでは形だけの結婚にすらなりえない。妻というものには興味はないが、不幸にしたいわけでもない。
それにしても、とグラントリーは娘に目を落とした。この娘がバーノン家の者だったということには驚いていた。二度、目にしただけだが、商会に小さい娘がいることがまず珍しく、外国語の翻訳ができ、ライナーが雇いたいと思っていることに驚き、そしてその瞳の鮮やかさが印象に残っている。一目であの時の娘だとわかった。
少々流行おくれだが貴族らしい服を着ていても、やせ細っているのは変わらないなと観察していたら倒れてしまった。数か月前一度来たきり音沙汰がないとライナーが嘆いていたが、貴族の家にいるのならなぜ、働きに出ようとしているのか。
そこまで自問して、グラントリーは巻き付けたコートにそっと手を当てた。そこには娘の背中がある。そしてその背中こそが、働きたい理由なのだろうと答えが出た。
背中のコルセットで隠されていないところには、いたましいことに無数の傷跡が残っていた。
だが自分には関係がないことだと頭を横に振る。ライナーにだけはこの娘がここにいたことを教えておこうと思った。おそらく、働きには来られないだろうということも。外国語に堪能な従業員は少ない。それだけは惜しいような気がしたが。
グラントリーはそこまで時間がたっても誰も娘を引き取りに来ないことに苛立ち、顔を上げた。娘を寒い床に横たえるわけにはいかない。仕方がなく横抱きに持ち上げて、その軽さに驚いた。その時点でやっと家令が走ってきたので、グラントリーは娘をそっと手渡した。
「相当苦しかったことだろう。ゆっくり休ませてやってくれ。ああ、コートはそのままでいい」
そして肩をすくめた。
「どうやら、この縁談は無理のようですね」
グラントリーにとっては、縁談がうまくいかないことよりも、面倒ごとがなくなってほっとした気持ちが強い。この顔にしてもたかが傷だろうと思うが、貴族の娘は傷のある顔をどういうわけか怖がる。仕方なく仮面をしているが、そうするともっと怖がる。原因となった王女ですらグラントリーの顔をまともに見ようとしなくなった。
グラントリーから逃げ出した娘も貴族としてのしつけがなっていないとは思ったが、倒れた娘を心配すらしないバーノン子爵にもあきれていた。よく考えると、商売という共通項があるのだから、縁があればどこかで既に交わっていたはずなのだ。それがなかったということは、つまり自分とは商売のやり方が違うということになる。それならまして利などない。
しかしバーノンからは意外な言葉が帰って来た。
「いや、無理ではありません」
「しかし、私を怖がって逃げていく婚約者など困りますが」
どうやら姉のほうにとってもいい父親ではなさそうなバーノンが無理を押し通そうとしている。グラントリーは無理だろうとはっきり言ったつもりだった。だが顔色の悪くなった子爵の言葉は意外なものだった。
「王家からの申し出は、バーノン家の令嬢をということでした」
「あなた! まさか!」
金髪の娘を甘やかすだけだった母親が悲鳴のような声を上げた。
「娘はもう一人いる。あなたが介抱し、その肌を見た娘だ」
「あなた!」
グラントリーは即座に断ろうとした。なにより倒れた娘に手当ても何もしなかったのに、その娘を助けたこちらを脅迫するようなそのやり口に一瞬頭が沸騰するかと思うほど腹が立った。
だが。
グラントリーが澄んだ緑の目を思い浮かべると、怒りは急速に引いていった。自分に対する媚も恐れも何もない、ただ思いがけない場所で知り合いに会えた驚きを浮かべただけの瞳を。もう少し幼かった頃は、その瞳に竜に会えた喜びを浮かべ、服から出た細い手が握りしめた飴は、たった数個なのに手からはみ出しそうだったことをなぜか覚えていた。グラントリーの手には、相変わらず細かったその体の軽さだけがまだ残っている。
グラントリーが求めているのは、どうせ形だけの妻だ。親が差し出すというのなら、もらってもいいのではないか。少なくともあの娘なら、グラントリーを見ても目に恐怖が浮かぶことはないだろう。
「いいでしょう。どうやらそちらにはいらない娘のようだし」
その言葉に母親のほうがたじろいだ。いらない娘という真実と、それを見抜かれてしまったことと、どちらにも衝撃を受けたのだろう。グラントリーは子爵に向かってはっきりと宣言することにした。この話を受けるにしても、バーノン子爵の一方的な勝ちには終わらせないつもりだ。娘をいつまでも自分の手ごまのように思われては困る。
「ただし、こちらに押し付けるからには、今後娘のことには一切口出ししないでもらいたい」
グラントリーは、バーノン子爵の顔に浮かぶ表情を黙って見つめた。
子爵にとって一番いいのはジェニファーと呼ばれていた姉のほうがグラントリーに嫁ぎ、商売でも縁がつながること。
一番まずいのは、王家からあっせんされたこの縁談そのものが消えてしまうこと。
姉のほうが逃げてしまった今、とっさに庶子である妹を嫁がせる選択肢を出したものの、その場合、商売の縁がつながらなくなる可能性がある。ただし、娘が伯爵家に縁付いたという箔は付く。
娘をどう使えばより利が多くなるか。
そんなことを一生懸命考えているのだろうと冷静に見つめた。
バーノン子爵が顔を上げた。グラントリーに嫁がせる以上の縁談はないと判断したのだろう。
「了承した。下の娘を、あなたに。グラントリー殿。どうか」
どうかなんだというのだろう。どう考えても今まで冷遇していただろうに。
「少なくとも、叩かれることも、飢えることもないことは保証します。ところで」
チクリと皮肉を言ったグラントリーは肩をすくめた。
「彼女の名前を、教えていただけますか」
名前さえ知らない婚約者を、グラントリーはこうしてもらい受けることになった。




