顔合わせ
コミックシーモアさんで、コミカライズ始まりました!
「よく考えたら、お前に教育をする必要などないわ。必要ならオリバー様がやるでしょう」
顔合わせを控えたジェニファーにかかりきりになったこともあり、アリーシアは何着か似合わない服を仕立てられたほかは放っておかれることになった。
「成人したら家を出るなんて、あの時言わなければよかった」
衝動的に父の後を追いかけたあの時のことを後悔しても遅かった。服の仕立ての時に逃げ出そうと思っても、仕立ても家に来るほどで、あれから一歩も外に出してもらっていない。
「私はこの家ではいらない子だったでしょう。ずっといらない子だったのに、なぜ今になって」
いくら考えても答えの出ない問いが、頭の中でぐるぐると回る。
唯一の救いは、ジェニファーに配慮してオリバーも出入りできないところだ。何やらアリーシア宛に贈り物が届いたようだが、
「ジェニファーが嫁いだ後にして。無神経な」
と、ハリエットが叩き返したと侍女が訳知り顔で言っていた。贈り物などいらない。欲しいのは自由だけなのに。
そして婚約の申し入れから一か月後、初めての顔合わせの日が来た。
アリーシアに用意されたのは、この日のためにと念入りに地味に仕立てられたドレスだ。
「間違ってもこの子を美しく見せようなどと思わないで」
仕立ての人たちはわざわざ呼びつけられてまで似合わない服を仕立てることに戸惑いを隠せなかったようだが、そこは無難に、いかにも高齢の女性が着そうな色とデザインでハリエットを満足させた。
「どんな色でもデザインでも、きれいな人が着れば映えるものです。お嬢さん、心配せずとも美しいですよ」
帰り際にそっとささやいていったのは、あまりにもアリーシアが哀れだと思ったからなのだろう。だがアリーシアはそれを拒むかのように胸の前でぎゅっと手を握った。
オリバーと初めて顔を合わせた日を思い出す。きれいにしてもらったからオリバーに目をつけられてしまったのだ。あの時から、アリーシアは、きれいと言われて喜ぶ気持ちは心の中に閉じ込めてしまった。
作ってもらったドレスを着替えるのに、侍女によっていつも以上にぎゅうぎゅうとコルセットが絞められていく。まるですべてのストレスをそこに込めるかのようだった。
「あなたがいなかったら、ジェニファーお嬢様が苦しむことはなかったし、私たちも八つ当たりされることもなかったのよ」
アリーシアの告げ口など誰も聞く人がいないことをわかっていて、わざとこういうことをする侍女は、本当にこのゆがんだバーノン家にふさわしいと言えた。アリーシアは苦しく浅い息で、なんとか今日一日を乗り切ろうと心に誓った。
伯爵の訪れを玄関ホールで待つ間も、アリーシアは脂汗を浮かべていた。
「アリーシア、あなた、どうかしたの」
あまりに顔色が悪いのでハリエットにすら聞かれたほどだ。アリーシアもこれほどつらいとは思わず、つい弱音を吐いた。
「あの、コルセットがきつくて」
「まあ、はしたない」
男性のいるところで下着の名前を口に出すのははしたない。それはアリーシアも理解はしているのだが、さすがにつらすぎた。
「仕方がないわね。いくらあなたが庶子でも、顔合わせしないわけにはいかないのよ。少し遅れてもいいから、急いで緩めてきて。メイジー!」
メイジーというのはハリエットの侍女だ。そしてこの一言で、なぜこういう状況になったのかアリーシアは理解した。遅れさせて不作法だと思わせるために、ハリエットが侍女にわざとやらせたのにちがいない。もしかしたら今までのコルセットのこともそうかもしれなかった。
だが、コルセットを緩めに行く間もなく、伯爵の訪れが告げられた。本来なら家の外で迎えるべきところだが、春には程遠い二月の寒さである。屋敷の中で待っていてもらいたいと連絡が来ていた。
ゆっくり開けられた扉の向こうから、家令に伴われてジェニファーの婚約者が現れた。黒づくめの格好で、ゆったりと歩を進めるその姿には若いながらも威厳と落ち着きが感じられる。家令が帽子とコートを受け取ると、並んで待っていた使用人が息を飲む気配がした。
「グラントリー・シングレア伯爵がいらっしゃいました」
隣のジェニファーがほんの少し後ろに下がった。ああ、そういえば傷があって仮面をつけているとジェニファーが言っていたとアリーシアはふらふらする頭で思う。全く興味がなかったので、今まで思い出しもしなかったのだ。
若い伯爵はまず父親のハロルドと握手を交わす。
「このたびは急な話を受けていただいて感謝します」
落ち着いた低い声だ。
「こちらこそ、子爵家には望外の縁談であると感謝しております。それでは改めて娘を紹介しましょう」
父親に促され向きを変えた伯爵の顔を初めてまともに目に入れたアリーシアの口から思わず声がこぼれ出た。
「若……」
幸いなことに、誰にも聞きとがめられなかったようだ。なぜここに飛竜便の若様がという驚きは、マナーの先生からわずかな期間で教わったこの国の仕組みを思い出すと同時に消え去った。この国は聖竜をあがめる国。フェルゼンダイン侯爵家は、代々聖竜を後見する役割をしている。つまり竜のお世話係ということである。その侯爵家の次男がグラントリー。独立してシングレア伯爵の名をもらっている。
なぜその次男が竜を使った商売をしているのかまでは教わらなかったが、前に聞いた使用人の話から、子竜を救ったのがジェニファーの婚約者で、その婚約者が飛竜便の若様だということまではアリーシアの中でつながった。
アリーシアが頭を働かせている間にも、グラントリーは仮面で隠れていないほうの青い目で射抜くようにジェニファーを見ており、その姿から目を離さない。アリーシアはその様子を見て、初めてオリバーが訪れた時のことを思い出した。あの時は、オリバーはまっすぐにアリーシアの方に向かってきたのだった。あのとき周りにはこんなふうに見えていたのかしらと、アリーシアは不思議な思いで二人に目をやる。
ジェニファーがグラントリーの強い視線を受けて一歩、二歩と後ろに下がり、使用人にぶつかって止まった。その体は細かく震えていた。
「ジェニファー」
小さく叱責するようなハリエットの声が聞こえる。アリーシアはジェニファーに怖がらないでと言いたい気持ちでいっぱいだった。この人は困っている人に仕事をくれる親切な人なのだと、まだ小さかったアリーシアに、外国の飴を惜しげもなくくれるような温かい人なのだと教えてあげたかった。
グラントリーはようやっと口を開いた。
「あなたが私のお相手か」
「ひっ」
蒼白な顔のジェニファーがかすかに頭を左右に振った。
「ジェニファー!」
今度ははっきりとした叱責が父親から飛んだ。
「なにぶん社交界に出たてなもので、あまり男性に慣れていないのですわ。お許しを」
義母のハリエットがジェニファーをかばうように肩を抱く。
本来ここでジェニファーが左手を差し出すところなのだが、とにかくまともにグラントリーの顔を見られず、震えているのではそれどころではない。
グラントリーはこのような反応に慣れているのか表情を変えずに少し首を傾げると、まるでなにかを試すかのようにジェニファーのほうにすっと右手を差し出した。
「いやっ!」
淑女教育とは何だったのか。ジェニファーは小さな拒否の声を上げるとおろおろするハリエットに抱き着いた。
「これはいささか」
「申し訳ない、グラントリー殿。ハリエット。甘やかしすぎだぞ」
父親が今度は義母を叱責する。
「いや、かまわない。私はこんななりです」
グラントリーは仮面に手をやった。
「年若いお嬢さんに怖がられるのは慣れています。だが、婚約者としてこれでは少々困るな」
本当に慣れているのか穏やかな声だが、この縁談は無理だろうという気持ちが伝わってくる言葉だった。ジェニファーはどうするのか、これからいったいどうなるのかと張り詰めるような空気が玄関ホールに流れている中で、不意にグラントリーが体の向きを変えた。
「ところで君」
気が付くとアリーシアはいつの間にかグラントリーと目を合わせていた。ジェニファーに向けた目を厳しいと思った。だがいざ目を合わせてみると、いつか見た空の瞳はそのままだった。
「さっきからフラフラして顔色が悪いが、大丈夫か」
アリーシアのことなどまったく見もしなかったのに、具合の悪さに気がついていたことに驚いたが、アリーシアは慌てて首を横に振った。こんなところで迷惑をかけたら、またハリエットとジェニファーに叱られてしまう。
「大丈夫です。あ」
しかし少し激しく頭を振ったせいか、急に体が冷たくなり、視界がぼんやりとしたと思ったら、ぐらりと体が傾いた。
「アリーシア、何をしている!」
アリーシアにも父親の声が飛んだが、自分ではどうしようもない。しかしアリーシアの体は、地面に崩れ落ちる前にがっしりとした何かに抱き取られた。
「誰か、このお嬢さんに手当てを!」
グラントリーの声に、やはり親切な人なのだとジェニファーに言ってあげたかったが、アリーシアの意識はそのまま遠のいた。




