いまさら
ジェニファーが侯爵家の次男に嫁ぎ伯爵夫人となるという知らせは、屋敷の使用人には好意的に受け止められた。
「オリバー様はいいお人さ。だけど、しょせん伯爵家の次男で、爵位もない。お嬢様だってそりゃあ、爵位の高い人のほうがいいに決まってる」
「ああ、なんでも王家のお声がかりだそうだよ」
はたから見たら、より裕福で爵位の高いところに嫁ぐのだから、むしろ運がいいと思われて当然だろう。しかも、王家に認められているという。その話題の華やかさに紛れて、アリーシアが使用人から娘へと扱いが変わったことは、あまり取りざたされなかった。
「使用人みたいな娘を急にあてがわれて、オリバー様もお気の毒に」
と、オリバーをかわいそうだとする声がひそひそと聞こえてきたくらいだ。もともとアリーシアのことは、使用人の間ではあまりかかわらないほうがいい厄介者のような扱いだった。かわいそうに思う人もいただろう。だが下手にかばいだてをしたら、自分の職が危うくなる。かといってこの家の娘であることは確かだから、調子に乗って虐げたりすれば、後になってどんなしっぺ返しを食らうかわからない。それなら近寄らないに限る。
だが、そこまで賢くないものはいて、それがジェニファー付きの侍女たちだった。あまりにもジェニファーの近くにいすぎて感覚が麻痺していたのかもしれない。短い間だけでも同じ仕事をし、ジェニファーに虐げられていたのを見て、自分たちも同じことをしていいと勘違いしていたのだろう。
アリーシアがオリバーに嫁ぐ以上、もはや同じ侍女という立場ではなく、自分たちは仕える側に変わったのだとわかっても謝罪もせず、今までのことはまるでなかったかのように振る舞う侍女たちに、アリーシアは笑いさえ出なかった。
ジェニファーのことにしてもそうだ。慶事に沸き立つ屋敷内とは対照的に、ジェニファーの落ち込みはひどく、しばらく部屋から出られないほどだというのに、使用人の誰一人としてジェニファーの悲しい気持ちを汲み取ろうとしない。ジェニファー専属の侍女たちでさえそうだ。
ジェニファーへの思いがけない婚約の申し込みは、バーノン家のいびつさをあらわにしたようにアリーシアには思えた。思いやりを持つことも、理解し合おうとすることもない。
婚約を申し込んできた侯爵家の次男とは、すぐにでも顔合わせをという話になったが、ジェニファーの体調が落ち着くまでということで延期された。だがアリーシアにとってはそれは安息の期間ではない。
「その間、あなたには貴族の振る舞いを身につけてもらいます。付け焼き刃でもないよりはましでしょう」
ハリエットはアリーシアの前に厳しい顔をして立っていた。アリーシアはこの人の笑顔を見たことがないような気がする。お母様はいつでも明るく優しい顔をしていたというのに。
「オリバー様に嫁ぐとはいえ、お前はしょせんバーノン商会のためのコマに過ぎません。結局はバーノン家もバーノン商会もジェニファーの子に継がせることになるのだし、あなたは爵位を持たない商家、つまり平民の身分ということになるのだから、教育などしてやる義理はないわ。ですが今後どうしても身内で顔を合わせることもあるでしょう。せいぜい伯爵夫人となるジェニファーに恥をかかせないことね」
義母は今回のことをこのように思うことでなんとかプライドを保ったらしい。あなたが平民だと貶めているのは私ではなくオリバーで、そこに嫁ぐのはあなたの娘のはずでしたよと言いたい気持ちをアリーシアは吞み込んだ。ちなみに爵位がなくてもオリバーは貴族のままだ。そして庶子とはいえ、戸籍がある以上、なりたくなくてもアリーシアも貴族なのだ。
この三年、どんなに虐げられても、アリーシアの少しばかりの反抗心は抜けはしないのだった。それがなかったら悔しいと思わずに済むのにと何度思ったことか。
アリーシアの反抗的な目に義母は扇を振り上げたが、それを降ろすことはなくイライラと去っていった。跡をつけたくなかったのだろうなと思うが、もう遅いということを義母は知らない。最初に扇で打たれた頬の傷こそ薄い線になって目立たなくなったが、腕には無数の傷跡が残っている。見たことはなかったが、背中もきっとそうだろうと思う。それでも叩かれなくなったのはありがたかった。
すぐに始まった貴族の振る舞いの勉強とやらは、案外難しくなかった。ジェニファーにも付いていたマナーの先生は、事情を聞いていたのかこの間まで侍女としてそこにいたアリーシアを素直に受け入れてくれた。それどころか、授業が終わると満足そうな様子である。
「うつむきがちなので姿勢さえ気をつければ、お茶も食事のマナーもほとんど完璧ですわ」
最初こそ戸惑ったが、アリーシアは二年前までに一通りのことは身につけていたらしい。むしろこの二年間、ジェニファーはいったい何を勉強していたのかと思う。ただつらいことが一つだけあった。それは、ドレスに慣れるためと言われて毎日コルセットを締めさせられることだ。
この間まで同僚だった二人の侍女は、しばらくの間はジェニファーとアリーシア両方につくことになった。したがって、アリーシアの身支度も意地悪な侍女たちが行うことになる。アリーシアがコルセットが苦手だと気付いた侍女たちは、ここぞとばかりそれを利用したのだ。
「きつすぎるわ。もう少し普通にお願い」
「お嬢様はコルセットを締めたことがないから知らないだけで、これが普通ですのよ」
いくらアリーシアがお願いしても、毎回コルセットの紐をぎゅうぎゅうに締め上げるので、苦しくて勉強どころではないこともある。しかも義母の嫌味攻撃を受け流すのに精一杯で、ジェニファーが何とか状況を受け入れて閉じこもった部屋から出てくるまでは、結局は疲れ果てて一日を終える日々が続いた。
落ち込んでいても日々はすぎる。やがて二週間もすれば、ジェニファーも立ち直り、アリーシアの淑女教育を見に来るようになった。自分の準備を優先すればいいのにと思うが、とにかく侯爵家の次男とは、顔合わせをするまでは何をどう準備していいのかわからないのだと聞かされた。聞きたくもないのに。
「せっかくお姉様がいらしているのだから、お茶に付き合っていただきましょう。なによりのお手本になりますもの」
マナー講師は今まで教えていたジェニファーの参加に嬉しそうな顔を隠さない。
一通り身についていると褒められたとはいえ、アリーシアのマナーはさびついたままぎこちない。
ジェニファーが見ているとあってはなおさらだ。それでも講師はにこやかに褒めてくれる。
「幼い頃から自然に身についているように思われますね」
「その子の母親は下賤の者よ。そんなわけないわ」
口元をゆがめて吐き捨てるジェニファーからは調子が戻ってきたことがうかがえたが、それはなによりなんてアリーシアは思わない。ジェニファーがやっと外に出てきた分、ハリエットがいなくなったのがいくらかましというだけだ。
幼い頃から自然に身についていると言われても、アリーシアには特に心当たりはない。いつもきれいで優しい母親と、温かく楽しい日々を過ごしていただけだ。アリーシアはお母様の優しい声を思い出した。
「そんなに急いでもご飯はなくなりはしないわ、小さく切って、ゆっくりいただきましょ」
おなかがすいてもどかしくても、母親に合わせてゆっくりと食事を口に運ぶ。お父様が来なくなって、ご飯が十分にない時でも、ゆっくりした食事は変わらなかったなと、ジェニファーと向かい合わせのお茶の席でアリーシアは懐かしく思う。やっと手に入れた黒パンを小さくちぎろうとするとボロボロになってしまって、二人で困り果てたものだ。思わず口元がぎこちない笑みの形を作った。
「なによ。何かおかしいことでもあるっていうの?」
すかさずジェニファーの意地悪な声が飛ぶ。アリーシアに楽しいことは一つも許されないらしい。アリーシアは笑みを引っ込め、静かな声で答えた。
「いえ、幼い頃のことを思い出していただけです」
「お前の下賤な母親は」
そこで講師のパンッという手を叩く音がした。
「事情はうかがってはおりますが。不愉快な言葉を使うのは控えましょう。茶会や食事の時は、事情があっても呑み込んで、お互いに楽しい会話を心がけることが大切です。それがマナーというものですわ」
よいお勉強になりましたねという講師の声に何も答えず、ジェニファーは憎々しげにテーブルにナプキンを叩きつけると、部屋を出ていった。
この講師は今日限りねとアリーシアが思った通りの結果になった。




